体験エッセイ「私より先に知っていた」格闘技
守っているのは、頭ではなかった。
あくまで私の体験である。
そして、語れるほど私は強いわけではない。
どこにでも、天才は存在する。
私の兄は目が良かった。
動くものがよく見えていた。
羨ましくもあった。
だから私は、自分は凡人なのだと思うしかなかった。
でも、本当にそうなのだろうか。
目が良かったから、パンチが当たらない。
反射神経が良かったから、避けられる。
本当に、それだけなのだろうか。
私は練習でスパーリングをしていた。
当時は、反射神経を上げるためだと思っていた。
スピードに慣れる。
もっと速いものを見る。
目を鍛える。
確かに、それも間違いではない。
だから私も、そのつもりで練習していた。
ところが、ある段階から、少し違うことが起き始めた。
攻撃は、「見てから動くもの」ではなくなっていた。
もちろん、見えているパンチはある。
無心で相手と向き合っているわけではない。
ジャブが来る。
なら受けよう。
なら右に回ろう。
いろいろ考えているのも事実だった。
しかし、それだけでは説明のつかない体験をした。
スパーリングで、相手のジャブが来た。
私は顔を傾け、それを外した。
そのまま相手の懐に入った。
私の顔は、相手のお腹の位置まで進んでいた。
これは私の意識だった。
「よし、ボディーを打とう」
そう思ったから、前へ進んだ。
ところが、その脇腹の位置に、不自然なグローブがあった。
こっちを向いている。
ヤバいとは思っていない。
アッパーが来るとも思っていない。
ただ、そこにある。
そして、そのグローブが私の顔へ向かってきた。
次の瞬間だった。
前進していたはずの私の身体が、後ろへ下がった。
私は、その景色を見ていた。
まるで、お客さんだった。
私の顔に近づいてくるグローブ。
(これ、当たっちゃうんじゃないか)
そう思っている。
しかし、身体はさらに後退している。
(え、こんなにも伸びてくる)
(ヤバい)
それでも当たらなかった。
アッパーは弧を描き、私の目の前を通り過ぎ、そのまま上へ抜けていった。
私は避けた。
しかし、頭で「避けろ」と命令した記憶はない。
前へ行け、と動いていた身体が、途中で勝手に後ろへ変わった。
私の力は前へ向かっていた。
なのに身体は後ろへ行った。
その時、私はただ、それを見ていた。
「おいおい、俺、そんな指示してないんですけど」
そう言いたくなるような動きだった。
判断より先に、結果が出ている。
守っているのは、頭だけではなかった。
身体もまた、戦っていた。
スパーリングを繰り返す。
同じようなパンチを見る。
同じような肩の動きを見る。
同じような体重移動を感じる。
肩が少し動く。
体重が乗る。
肘の角度が変わる。
ほんの一瞬の変化。
私は、それを「反射神経を鍛えている」と思っていた。
しかし、実際に没頭してみると、どうも違う。
写真を一枚ずつ身体に覚えさせていたのではないか。
拳の位置なのか。
拳の向きなのか。
肩なのか。
肘の角度なのか。
何が合図なのかは、私には分からない。
ただ、そのわずかな変化を身体が覚えていく。
何度も見る。
何度も受ける。
何度も失敗する。
何度も痛い目に遭う。
そして、あるところまで行くと、頭が選択する前に身体が選択する。
脳ではない。
身体が選ぶ。
空手でも同じだった。
ローキックが来る。
普通なら、足を上げて受ける。
そう習う。
最初は、そう考える。
だが、ある時から「上げる」と思わなくなった。
身体が先に動いている。
何度も何度も、同じ場所に蹴りを受けた。
痛かった。
その痛みの中で、身体だけが考えたのだと思う。
これは危険だ。
だから、もう当たってはいけない。
いきなりではない。
少しずつだった。
痛みに慣れ、受け方が変わる。
気づいたときには、肉で受けている感覚がなかった。
骨で受けていた。
首を取られた時もそうだった。
押し込まれる。
崩される。
その一瞬の中で、相手の「次の形」だけが見える。
理解する前に、身体が動く。
腕が交差して、膝蹴りを受けている。
そこに意志はない。
だが、遅れもない。
むしろ、意識している時より速い。
その感覚は、少し怖かった。
「今のは、自分がやったのか?」
そう思う動きが増えていった。
だが同時に、それは一段上がった感覚でもあった。
守っているというより、
すでに「終わっている位置」にいる。
受けながら次の攻撃へ移れる。
崩されながら、次を見ている。
考えて動く世界ではない。
動いた結果が、防御になっている世界だった。
そして私は思った。
これは技術というより、
「クセの完成形」だったのかもしれない。
何度も繰り返したことで、身体が答えを持ってしまった。
私は何も指示していない。
それでも身体は、勝手に答えを出す。
「俺、そう指示してないんですけど」
そんなことが、何度もあった。
では、練習とは何だったのだろう。
反射神経を鍛えることだけだったのか。
目を良くすることだけだったのか。
もしかすると、違ったのかもしれない。
練習とは、身体に大量の「写真」を見せることだったのではないか。
そして、その写真を身体の中に積み重ねていく。
一枚。
また一枚。
何千枚も。
そうしているうちに、身体がその中から勝手に答えを選ぶ。
頭が判断するより前に。
身体が選択する。
ここで、最初の疑問に戻る。
本当に天才なのだろうか。
本当に反射神経なのだろうか。
もちろん、才能はあると思う。
反射神経の差だって、ないとは言えない。
目の良い人もいる。
速く動ける人もいる。
私の兄のような人間もいる。
しかし、ある程度まで経験すると、身体もまた戦ってくれる。
そこに差が出来るのだとしたら、そのすべてを「天才」という言葉で説明していいのだろうか。
もしかすると天才とは、
身体と自分をつなげるのが上手い人なのかもしれない。
頭で考えたことを身体へ伝える。
そして、身体が経験したことを、今度は頭を通さず使えるようにする。
その繋がりが、最初から上手い人がいる。
それも才能なのだろう。
反射神経の数%の差も、きっとある。
でも、数%の才能と、数十%の努力。
そんな話を、私は少し分かるような気がする。
なぜなら、私は天才ではないからだ。
それでも、身体は戦ってくれた。
私が知らないところで、私を守ってくれた。
そして、もう一つ。
拳にも、それはあった。
空手の正拳突き。
人差し指と中指の付け根。
その突起した二つの骨で打つ。
巻藁に向かって何度も突いた。
二点に均等に当てる。
正拳突きなら、それほど難しくない。
真っ直ぐだからだ。
しかし、いつの間にか私は、どんな角度からでも、その二点で打っていることに気づいた。
左右のフックでも。
アッパーでも。
そこに当たっている。
相手は平らではない。
顎は尖っている。
身体も曲がっている。
相手は動いている。
途中で腕が出てくることもある。
それなのに、身体は二点で打っていた。
どちらか一方に衝撃が寄りそうな、ほんの微妙な角度でも。
私が意識していなくても、身体が調整していた。
現役の頃、一度も指を腫らしたことはなかった。
一度も、危ないと思ったことがなかった。
それほど身体は、当たり前のようにやっていた。
だから、引退して三年後。
遊びで瓦割りをした時も、私は何も心配していなかった。
一発で割った。
しかし、人差し指の骨が腫れた。
一点だった。
人差し指側だけに、衝撃が集中していた。
痛かった。
ものすごく痛かった。
「お前、あれだけ上手くやってくれてたじゃないか」
私は、身体に文句を言いたくなった。
「あれだけ叩いてきただろ」
「何百回だ?」
「千回までいったかもしれないぞ」
「ちゃんと二点で、どんな時も、どんな角度でも、俺の意識がなくても、お前がやってくれたじゃないか」
「現役の頃、一度もなかったぞ」
「腫れもない」
「危ない。もう少しで骨折だった」
「そんな危うさすら、記憶にない」
「俺は、お前を尊敬してたんだぞ」
「なのに、なぜだ?」
「たった一撃だぞ」
「しかも、ちゃんと集中した」
「ちゃんと狙いも定めた」
それでも身体は、もう昔の仕事をしてくれなかった。
もし身体が答えるなら、たぶんこうだった。
「え?」
「いきなり言われても困ります」
「今は勉学担当なので」
「格闘技課、もう何年も行ってませんよ」
「三年前に退職されてますよね?」
「そもそも、コピー機のコンセント抜けてません?」
そんな感じだったのかもしれない(笑)。
私はそこで思った。
身体と脳を繋ぐコンセントが、抜けていたのかもしれない。
いや。
もっと正確に言えば、
それほどまでに、身体と私は繋がっていたのだ。
現役の頃は。
そして、三年も離れれば、その繋がりは薄れていく。
身体は、必要のなくなった仕事を少しずつやめていく。
それを、もう一つの出来事でも感じた。
現役の頃、私はボディーをあまり恐れていなかった。
ミゾオチも、私にとってはそれほど重要な急所ではなかった。
一度も、そこを効かされた記憶がない。
だから私は、避けることよりも別のところを重要視して戦っていた。
「ここは大丈夫」
身体が、そう判断していたのだと思う。
ところが、引退して二年ほど経った頃だった。
ある時、路上で喧嘩になった。
相手のパンチが、私のボディーに入った。
その瞬間、私は驚いた。
効いた。
現役の頃、一度も効かなかった場所だった。
パンチが、お腹に入った。
その感触まで覚えている。
ムニュッ、と。
(笑)
まるで身体が、
「すみません」
「もう、その仕事やってないんで」
と言っているようだった。
ボディーに、
「只今外出中」
と貼り紙でもされていたのではないか。
昔なら勝手に固めてくれていた身体が、もう固めてくれない。
守る必要がなくなったからだ。
私はそこで、少しだけ身体のことを考えた。
身体は、覚えていたのではない。
身体は、働いていたのだ。
私が知らないところで。
私が意識していないところで。
何百回も。
何千回も。
痛みを受けながら。
繰り返しながら。
そして、その仕事を必要としなくなれば、身体は仕事をやめる。
だから、私は身体に感謝しなければならない。
現役の頃、私が考えるより先に動いてくれた。
私が恐れるより先に避けてくれた。
私が打つ角度すら意識していない時に、拳の衝撃を二点へ分散してくれた。
何も言わずに、ずっとやってくれていた。
優しく付き合っていれば、身体は裏切らない。
ただし、それは永遠の契約ではなかった。
私が格闘技をやめれば、
身体も格闘技課を閉鎖する。
三年後、瓦を殴ってみれば、
「もう担当者は外出しております」
二年後、ボディーを殴られてみれば、
「その部署は、もうありません」
そんなところだったのかもしれない。
私は、天才ではなかった。
反射神経だって、特別だったわけではない。
それでも、あの頃の私は、身体と繋がっていた。
頭が考えるより先に、
身体が答えてくれるところまで。
それは、もしかすると才能だったのかもしれない。
あるいは、何百回、何千回と繰り返した努力だったのかもしれない。
たぶん、その両方なのだろう。
数%の才能。
数十%の努力。
そんな言葉が、今なら少し分かる。
そして私は思う。
天才とは、もしかすると、
身体と自分を繋ぐのが上手い人なのかもしれない。
私にも、ほんの少しだけ、その瞬間があった。
だから今でも覚えている。
自分の身体なのに、自分より先に動いた、あの瞬間を。
私は、お客さんだった。
ただ見ていた。
迫ってくるグローブを見ながら、
(これ、当たるんじゃないか)
と思っていた。
それなのに、身体はもう後ろへ下がっていた。
私が命令する前に。
私が判断する前に。
私が何もしていないのに。
そして三年後。
瓦を殴った。
一発で、人差し指が腫れた。
身体は裏切っていなかった。
ただ、
格闘技課から退職していただけだった。
守っているのは、頭ではなかった。
あくまで私の体験である。
そして、語れるほど私は強いわけではない。
どこにでも、天才はいる。
私の兄は目が良かった。
動くものがよく見えていた。
それは羨ましかったし、だから私は、自分は凡人なのだと思うしかなかった。
でも、本当にそうなのだろうか。
目が良いから、パンチが当たらない。
反射神経が良いから、避けられる。
本当に、それだけなのだろうか。
練習ではスパーリングをとりいれる。
当時は、反射神経を鍛えているのだと思っていた。
速いものに慣れる。
もっと速いものを見る。
目を鍛える。
確かに、それも間違いではない。
しかし、ある段階から、少し違うことが起き始めた。
攻撃は、見てから動くものではなくなっていた。
もちろん、見えているパンチはある。
無心で相手と向き合っているわけではない。
ジャブが来る。
なら受けよう。
なら右に回ろう。
頭で考えていることも、確かにある。
ところが、考えていたのでは説明できないことが、何度も起きた。
スパーリングで、相手のジャブが来た。
私は顔を傾け、それを外した。
そのまま相手の懐へ入った。
顔が、相手のお腹の位置まで進んでいた。
「よし、ボディーを打とう」
これは私の意識だった。
ところが、その脇腹のあたりに、不自然なグローブがあった。
こっちを向いている。
ヤバいとは思っていない。
アッパーが来るとも思っていない。
ただ、そこにある。
そして、そのグローブが私の顔へ向かってきた。
次の瞬間だった。
前進していたはずの私の身体が、後ろへ下がった。
私は、その景色を見ていた。
まるでお客さんだった。
顔に近づいてくるグローブ。
(これ、当たっちゃうんじゃないか)
そう思っている。
ところが、身体はさらに後退している。
(え、こんなにも伸びてくる)
(ヤバい)
それでも当たらなかった。
アッパーは弧を描き、私の目の前を通り過ぎ、そのまま上へ抜けていった。
私は避けた。
しかし、頭で「避けろ」と命令した記憶はない。
前へ行け、と命令していた力を、身体が途中で勝手に後ろへ変えた。
私はただ、それを見ていた。
おいおい。
俺、そんな指示してないんですけど(笑)。
そこで思った。
守っているのは、頭だけではないのではないか。
身体もまた、戦っているのではないか。
スパーリングを繰り返す。
同じようなパンチを見る。
同じような肩の動きを見る。
同じような体重移動を感じる。
肩が少し動く。
体重が乗る。
肘の角度が変わる。
ほんの一瞬の変化。
それを何度も何度も身体に経験させる。
私は、それを「反射神経を鍛えている」と思っていた。
しかし、実際に没頭してみると、どうも違う。
写真を一枚ずつ身体に覚えさせていたのではないか。
拳の位置なのか。
拳の向きなのか。
肩なのか。
肘の角度なのか。
何が合図なのかは、私には分からない。
ただ、そのわずかな変化を身体が覚えていく。
そして、あるところまで行くと、頭が選択する前に身体が選択する。
脳ではない。
身体が選ぶ。
空手でも同じだった。
ローキックが来る。
普通なら、足を上げて受ける。
そう習うし、最初はそう考える。
だが、ある時から「上げる」と思わなくなった。
身体が先に動いている。
何度も何度も同じ場所に蹴りを受けた。
痛かった。
痛みの中で、身体だけが考えたのだと思う。
これは危険だ。
だから、もう当たってはいけない。
最初からいきなり変わったわけではない。
少しずつ痛みに慣れ、少しずつ受け方が変わっていった。
気がつけば、肉で受けている感覚がなくなっていた。
骨で受けていた。
首を取られた時もそうだった。
押し込まれる。
崩される。
その一瞬の中で、相手の「次の形」だけが見える。
理解する前に、身体が動く。
腕が交差して、膝蹴りを受けている。
そこに意志はない。
だが、遅れもない。
むしろ、意識している時より速い。
その感覚は、少し怖かった。
「今のは、自分がやったのか?」
そう思う動きが増えていった。
判断より先に結果が出ている。
だが同時に、それは一段上がった感覚でもあった。
守っているというより、
すでに「終わっている位置にいる」。
受けながら、次の攻撃へ移れる。
崩されながら、次を見ている。
考えて動く世界ではない。
動いた結果が、防御になっている世界だった。
そして私は思う。
これは技術というより、
クセの完成形だったのかもしれない。
何度も繰り返したことで、身体が答えを持ってしまった。
だから、考えていないのに動く。
では、ここで最初の疑問に戻る。
本当に天才なのだろうか。
本当に反射神経なのだろうか。
もちろん、才能はあると思う。
反射神経の差だって、ないとは言えない。
目の良い人もいる。
速く動ける人もいる。
私の兄のような人間もいる。
ただ、ある程度まで経験すると、身体もまた戦ってくれる。
そこに差が生まれるのだとしたら、
その差のすべてが「天才」という言葉で説明できるのだろうか。
もしかすると天才とは、
身体と自分をつなげるのが上手い人なのかもしれない。
頭で考えたことを身体へ伝える。
そして、身体が経験したことを、今度は頭を通さず使えるようにする。
その繋がりが、最初から上手い人がいる。
それも才能なのだろう。
反射神経の数%の差も、きっとある。
でも、数%の才能と、数十%の努力。
そんな話を、私は少しだけ分かるような気がする。
なぜなら私は、天才ではないからだ。
それでも、身体は戦ってくれた。
何度も何度も練習しているうちに、
私が知らないところで、私の身体が私を守っていた。
だから、身体には感謝している。
優しく付き合っていれば、
身体は裏切らない。
……もっとも。
引退して三年が経った頃、
私は遊びで瓦割りをした。
一発で、人差し指の骨が腫れた。
一点集中だった、一点のみの激痛だった。
あれだけ二点で打っていたのに。
現役の頃なら、そんなことはなかった。
三年も戦っていなければ、
身体はもう「戦わない人間」になっていたのだろう。
身体は、
「もう意識しなくていいよ」
と言っていたのかもしれない。
私も、
「そうだな。もういいぞ」
と返事をしたのかもしれない。
だから、たった三年で腫れた。
止まっている瓦にすら(笑)。
身体は裏切らない。
ただし、こちらが付き合うのをやめれば、
身体だって戦う理由を忘れていく。
それもまた、
身体と生きるということなのかもしれない。
