須藤輝彦「運命の文学史 終わりから始まる物語⑥」(『群像』)近代編へ
☆mediopos4241(2026.5.9)
■須藤輝彦「運命の文学史 終わりから始まる物語⑥」
(『群像』2026年6月号)
□ボエティウス(畠中尚志訳)
『哲学の慰め』 (講談社学術文庫 2026/4)
□ドストエフスキー (安岡治子訳)
『地下室の手記』(光文社古典新訳文庫 2007/5)
須藤輝彦の連載
「運命の文学史 終わりから始まる物語」第5回・第6回では、
「恋愛と運命」「愛と結婚の物語」のテーマが扱われていたが、
今回からは「近代編」に移る。
近代は「運命の文学史」における最大の転換点である。
これまでは神託・モイラ・摂理など、
人間の外側にあった運命が、近代では人間の内部へと移行する。
それを「運命の人間化」と呼び、
解放であると同時に重荷でもある変化として論じられる。
中世ヨーロッパの社会は、身分制のうえに成り立っていたが、
そうした宿命的社会構造が、商業・都市の発展、産業革命、
フランス革命・アメリカ独立によって揺らぎ、
生まれによる決定論から、
個人の選択・能力・権利による流動的な人生へ移行。
原理的には「自分の人生は自分で決める」
という感覚が生まれることになる。
邦訳はまだないようだが、
20世紀後半を代表するドイツの歴史学者
ラインハルト・コゼレック(1923年 - 2006年)は、
近代における時間意識の転換を、
「経験空間」と「期待地平」という二つの概念で説明している。
「経験空間」とは過去の出来事が蓄積された現在の記憶であり、
「期待地平」とは未来に向けられた予測や希望は恐れのこと。
前近代ではそのふたつが重なっていたが
近代では乖離するようになったとしている。
もともと revolution は
天体の回転運動のような循環運動を意味していたが、
フランス革命以後不可逆的な歴史的断絶としての
新たな秩序の創出を指す語に変わる
過去の反復ではなく、未来を先取りして
現在を断ち切る出来事となるのである
そして、人間の意志が未来を積極的に形作る一方で、
歴史的決定論も同時に生まれることになり、
「歴史の進むべき方向を知り、
それを切り開いていく主体としての人間と、
生み出された不可逆の流れとしての
歴史に従うほかない客体としての人間 ――
このふたつの歴史/人間観は、いわば同じコインの両面」となる
そうした変化を運命の観点から眺めなおすとき
中世のキリスト教世界による強力な運命の枠組みである
「摂理 providentia」の構造を確認しておく必要がある
「6世紀初頭、処刑を待つ獄中で
哲学者ボエティウスが書いた「哲学のなぐさめ」は、
以後の中世を支配する精緻な三層構造を提示しました。
最上位に神の「摂理」。
それは万物を見渡す神の知性であり、不動で永遠のもの。
その下に「宿命 fatum」、摂理が時間のなかで展開されたかたち。
そしてさらにその下に「フォルトゥーナ Fortuna」、
古代の運命の女神がいる。」
そのように、中世キリスト教は
神の摂理 → 宿命 → フォルトゥーナというように、
世界に明確な「終わり(終末と審判)」を与えていた。
ルネサンス以降、人間(力量=virtu)の力が強調され、
神の摂理が後退することで終末論が退き、
進歩という開かれた(しかし神なき)未来が残ったのである。
そうした変化を最も鋭く象徴的に描いたのが
ドストエフスキー『地下室の手記』(1864)だという。
地下室の男は、名前も与えられず、
始めることも終えることもできない近代的人間像の極みである。
「石の壁」(自然法則・理性)の前に引き下がらず、
むしろ頭をぶつけることで反抗する。
それは外部の運命ではなく、
理性の専制や合理的に計算された理想社会への反抗である。
「道を切り拓くこと自体が運命づけられている」からこそ、
わざと脇道に逸れたくなるという逆説を生き、
目的(テロス)達成を恐れ、過程そのものを求める。
「目的地ではなく、道が続くということ。
ここで「終わり」の観念は、決定的に変質しています。
ギリシア悲劇においてテロスとは、
ものごとの本質が顕現する瞬間でした。
しかし地下室の男にとって、
「終わり」はむしろ恐怖の対象です。」
「ここに、たとえば古代ギリシアの悲劇との
決定的な違いがあらわれています。
オイディプスもまた「壁」にぶつかりました。
それは神託という壁であり、宿命という壁でした。
しかしその壁の「向こう側」には
――恐ろしいものではあれ――「真実」があった。
自分がだれであるかという真実。
彼はそれを知るために壁を突き破ったのであり、
その結果が悲劇的であったとしても、
そこには一種の壮大さ、
つまり英雄的なテロスの達成がありました。
地下室の男の前にある壁は、そういうものではない。
壁の向こう側には、なにもない。
自然法則はただ自然法則であり、
「二、二が四」はただの無味乾燥な数式に過ぎない。
だからこそ男の反抗は、
オイディプスのそれとはまったく違った様相を呈します。
彼は壁を突き破ろうとするのではなく、
壁の前で「引き下がらない」ことそのものを―――
たとえ頭を打ちつけるだけの結果になろうとも――選ぶ。」
第二部では現実での惨めな失敗を描き、
自分で「宿命だ!」と叫んで卑小な行為を正当化し、
最終的に、神も宿命も失った人間は
「本物の肉体と血液を持った自分自身さえ重荷」に感じ、
抽象的・普遍的な人間になろうとする。
しかしそれは「死産の児」的な存在感を生んでしまう。
「手記の最後、
地下室の男はついに筆を置こうとして、こう言い放ちます。
俺はただ、自分の人生において、
物事を極限までとことんやってみたいだけさ。
あんた方はその半分もやってみる勇気がなかったし、
そのうえ、己の臆病さを思慮分別と勘違いして、
それで己を欺き、慰めていたんだ。(…)
俺たちは、本を取り上げられたらお手上げだ。
たちまちまごついて途方に暮れてしまう――
どちらへ付けばいいのか、何を守るべきか、
何を愛し、何を憎み、 何を尊敬し、何を軽蔑すべきか、
何一つわかりゃしない。
俺たちは、人間であることさえも――
本物の自分固有の肉体と血液を持った人間であることさえも、
重荷に感じている始末だ。
これを恥じて、屈辱であると人間であるとみなし、
なにやらいまだかつて存在したことのない
普遍的な人間なるものになろうとしている。
俺たちは死産の児だ。もうだいぶ前から、
生きた親たちから生まれているわけではないし、
それがますます自分で気に入りつつある。(……)
しかし、もうたくさんだ。
もうこれ以上、《地下室から)書き続けたくはない・・・・・・。」
運命が人間の内側に移った近代では、
明晰な意識が行動を不能にし、ニヒリズムと無気力が蔓延する。
『地下室の手記』は明確な「終わり」を拒否したまま終わることで、
かえって新しい「始まり」の予感を透かして見せているが、
これは、神なき時代に自我が背負う宿命の物語だといえる。
