⑱変後の状況❸(接着材料)
653年、皇太子は 皇祖母尊や間人皇后,そして皇弟らを率いて、難波京から倭京に戻り、それに公卿大夫・百官等が従った。
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このうち皇太子は中大兄皇子であり、皇祖母尊が前の女帝 皇極(第35代)。間人皇后は、孝徳天皇の皇后で、皇弟は大海人皇子とされている。
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だが、倭京回帰当時の主上は、第36代 孝徳天皇であり、その弟となれば 本来 孝徳天皇の弟であるはずだった。
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しかし、この時の"皇弟"は概して、中大兄皇子の同母弟 大海人皇子だと解釈されている。
この辺りからも、天武の後の政権が 中大兄皇子を軸として、正史に手を加えていることが観照された。

天武の次代 持統による正史改変以前、
天武天皇=漢皇子で、かつ、入鹿の子であるという彼の本当の素姓が語られていたと愚管するが、それが真実だったとすれば、異父弟 中大兄皇子は 父の敵であるわけだ。
果たして、そんな相手と共同歩調などとれただろうか?
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そこはそれ、母親が共通しているという接着材料は当然あっただろうし、大方、その件に関して、異父弟よりもっと憎い相手が存在したことが揣摩臆測された。
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乙巳の変当時、中大兄皇子は青二才に過ぎないしね。その人物がハブ(HUB・村八分)にて結びついた?
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倭京回帰に際し、難波に置き去りにされた孝徳天皇がその対象の筆頭疑いであることは言うまでもない。
実際、孝徳天皇は乙巳の変の黒幕だと最近では大略 唱えられているし、2人の接近によって直接的な実害を被っていた。
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だけども、孝徳天皇は 親蘇我だと思われる節がある。
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墓は親蘇我の天皇・皇族が葬られる磯長谷にあるし、名には"豊"がつき(天万豊日天皇)、鳥を重視している。
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けど、それにしては、従来の蘇我氏の政策とは相反する農業政策を採用して対立したっぽい。
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でも、時の天皇がスタンドプレーをして、蘇我氏と対立するのは、崇峻天皇(第32代)の例を引くまでもなく 無い話ではない。
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そうして やはり、孝徳天皇と政変派の母体 蘇我倉山田石川麻呂との関係を鑑みると、
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乙巳の変の件で、"大海人=漢皇子"が 父の仇として、異父弟 中大兄皇子以上に孝徳を恨み、これと結んだと断ずることは難しかった。
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そうなると、何の葛藤もなく 私情を排し ほぼ政治的状況によってのみで、敵2人は結び付いた?
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その可能性も皆無ではないが、正直 人間の感情を包含せずに 歴史を語るのは、それはそれで、逆に 現実的ではない気もした。
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現代人の倫理と当時の人々のそれが、異なったであろうことは言うまでもない。
ただ、持統が父帝の事績を顕彰していることを踏まえると、そこに政治的思惑はあったとしても、それ以外の心持ちもあったことがうかがえる。
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かくて、依然 そういった目で見ていくと、政変とその後の統治で活躍しながらも倭京回帰後より歴史の表舞台から姿をくらました大物がいた。
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それは たまたまかもしれないが、見ようによっては、これによって排斥されたと訝しめなくはない。
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しかして、倭京回帰に際し、その人物の除外を1つの折り合いとして、2人は連帯したのではないかという発想が浮かんでくることになる。
