鍵のかかる場所で|第八話 同じベッド、違う温度
「おかえり。遅かったね」
夫の声が玄関から聞こえたとき、
私は咄嗟に呼吸を整えていた。
シャワーで汗を流して、香水も使わず、
何もなかったような顔で家のドアを開けた。
「うん、ちょっと残業で……」
それだけの言葉が、やけに喉につかえた。
いつもの夜。
夫と並んで食べる夕食。
テレビの音。
歯磨きの順番。
すべてが、習慣として身体に染みついているのに──
どこか、浮いてしまう自分がいた。
「明日、休みだし、早く寝ようか」
彼がそう言って、いつものように寝室の電気を落とす。
隣に横たわった夫の温もり。
それなのに、私の身体は冷えていく。
彼の腕が私に回る。
私を抱こうとしてくる、その動きに、
私は──思わず、身体を固くした。
「どうした?」
「……なんでもない。ちょっと疲れてて」
自分でも驚くほど、自然に嘘が出た。
けれど、本当は違う。
彼じゃない。
いま欲しいのは──あの人の熱。
あの夜、背中を撫でるように触れた、あの指の感触。
夫の愛撫は、どこか優しすぎて、
私の身体はまるで反応しなかった。
「……ごめんね。また今度にしよ?」
夫の腕がふわりと離れた。
暗闇の中、私は目を開けたまま、天井を見つめていた。
“なにをしてるの、私”
心の中で、何度も繰り返すその問いは、
答えをくれない。
なのに──
スマホを握る手は、
たったひとつの名前に触れたくて、震えていた。
一ノ瀬さん。
あなたに抱かれた夜、
私は確かに「沙織」じゃなくなった。
ひとりの、女になっていた。
