貼れなかった蝶のシール
シール帳には、貼れるシールと、貼れないシールがあった。
貼ったら終わる。
だから、貼らない。
使うために持っていたはずなのに、
使えないまま残しておくシールが、何枚かあった。
その中でも、蝶のシールは特別だった。
□
透明な羽。
少しだけ入ったラメ。
角度を変えると、光がすっと逃げる。
花でも、星でも、ハートでもない。
蝶は、そこに貼った瞬間、
飛べなくなる気がした。
だから、貼れなかった。
□
友達は、どんどん貼っていた。
ノートに。
手紙に。
プリクラの横に。
新しいページの真ん中に。
貼ることで、ちゃんと楽しんでいた。
私はそれを見ながら、
シール帳の奥の方に、蝶だけを残していた。
最後のページ。
まだ何も貼っていない場所。
そこに、そっとしまっていた。
□
今思えば、あれは節約でも、貧乏性でもなかった。
使うのがもったいない、
という言葉だけでは足りない。
あの蝶は、
貼るためのものというより、
持っている時間そのものだった。
□
貼ったら終わる。
でも、貼らなければ、
ずっと始まる前のままでいられる。
どこに貼ろうか。
いつ貼ろうか。
誰に見せようか。
その迷っている時間ごと、
シール帳の中に残していた。
□
大人になると、
使ったものより、使わなかったものの方を思い出すことがある。
着なかった服。
開けなかった手紙。
言わなかった言葉。
貼らなかったシール。
それらは何も起こさなかったようで、
ちゃんと自分の中に残っている。
□
蝶のシールは、かわいいから残したんじゃない。
飛んでいきそうだったから、貼れなかった。
□

あのシール帳が今どこにあるのかは、分からない。
捨てたのか。
どこかの箱に眠っているのか。
知らないうちに、誰かが開いたのか。
もう、確かめようもない。
でも、たまに思い出す。
あの小さな透明の羽が、
ページの奥で、まだ少しだけ光っている気がする。
□
貼らなかったものは、消えたわけじゃない。
使わなかったからこそ、
残るものもある。
シール帳の蝶は、
たぶん今も、どこにも貼られないまま、
あの頃の私の中で飛ぶ前の形をしている。
□
©︎2026 Nasu Takako
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