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夜と波 【シロクマ文芸部「波の音」】

波の音が聞こえているのかと思ったら、それは耳の奥で響いている音だった。
八月の終わりの、まだ容赦のない暑さが残る夜のことだ。会社から自宅に向けて電車に乗っている時、ちょうど武蔵境の駅を過ぎたあたりで、突然、ザーザーという規則正しい音が鼓膜の裏側で立ち上がった。やけに早口な車内アナウンスの声と、線路の上を走る音だけが聞こえていたはずが、それらはすべて、押し寄せては引いていく平坦な水の音に流されてしまった。
私は窓の向こうを流れる景色を眺めながら、耳の後ろを指先で強く揉んだ。音は消えなかった。むしろ、耳の奥のさらに深い場所に根を張るように、その周期的な揺らぎを確かにしていった。

「耳鳴り?」
帰宅し、居間のソファでそのことを話すと、妻はキッチンからそう声を返した。驚くでもなく、かといって関心が無さそうな素振りでもない。まな板の上では、みずみずしいキュウリが小気味よい音を立てて刻まれていた。
「いや、波の音なんだ。何というか、砂浜に寄せては返すような」
「ふーん……」
彼女は刻み終えたキュウリをボウルに移し、こちらを振り返った。その顔には、何かを考え込んでいるような表情があった。
「突発性難聴かもしれないよ。明日、会社に行く前に耳鼻科に寄ってみたら? 最近、残業続きで疲れてるんじゃない?」
「そうだね。そうする」
私はテレビのリモコンを手にとり、電源を入れた。ニュース番組のキャスターが、淡々とした調子で九州地方の豪雨災害について伝えていた。音量を少し上げてみても、キャスターの声は、耳の奥の波音の隙間をすり抜けるようにして、くぐもって聞こえた。

翌朝、私は妻に言われた通り、出勤前に会社からほど近い耳鼻咽喉科を受診した。白いプラスチックの椅子が並ぶ待合室は、冷房が効きすぎていて肌寒かった。
聴力検査の防音室に入り、ヘッドホンから流れるかすかなビープ音を注意深く聴き取っている間、波の音は聞こえなかった。
「特に異常はありませんね」
若い医師は、私の耳の穴を小さな器具で覗き込みながら言った。
「鼓膜も綺麗ですし、聴力も年齢相応です。耳鳴りは、自律神経の乱れや寝不足からくることが多いですからね。血流を良くする薬とビタミン剤を出しておきます」
「でも、波の音なんです」
私が言うと、医師は目を少しだけ細めた。
「波、ですか。まあ、音の感じ方は人それぞれですから。まずは一週間、薬を飲んで様子を見てください」
それから一週間、私は指示された通りの用法を守り、薬を飲み続けたが、波の音は消えなかった。
しかし一方で、その音自体には少しずつ慣れ始めていた。仕事中も、波の音は一定のテンポを刻む背景のノイズとして感じられるようになった。

ある日の夜、風呂上がりにベランダへ出て涼んでいる時だった。室外機のファンが回る生暖かい風の中に、かすかに潮の匂いが混ざっていることに気がついた。
海辺の街ならまだしも、私の住む場所に潮の匂いがするわけがない。耳の奥の潮騒の音に引きずられて、鼻までおかしくなったのだろうか。
「ねえ」
網戸越しに、リビングで雑誌をめくっている妻に声をかけた。
「なんだか、潮の匂いがしないか?」
彼女は雑誌から顔を上げ、不思議そうにこちらを見た。ベランダに出てくると、小さく鼻を動かした。
「わからない。近くの排水溝が臭ってるとか?」
「そうなのかな」
「それより」彼女は手すりに手をかけ、私の横顔をじっと見つめた。「まだ聞こえるの? その、波の音」
「日によって音の大きさは変わるけど、ずっと鳴ってるよ」
「どんな風に?」
「普通の波の音だよ。ザー、ザーって。引くときの方が少し長いかな」
彼女は何も言わずに、自分の耳に両手を当てた。貝殻を耳に押し当てるようなその仕草を、私はただ黙って見ていた。
それから、妻は波の音についてさらに訊ねてきた。
「今はどう?」
「さっきより大きい?小さい?」
「眠っている時も鳴っているの?」
彼女の矢継ぎ早の質問は、心配というよりは、熱を帯びた好奇心のようだった。
「そんなに気になるの?ただの不快な耳鳴りだよ」
私がそう言うと、彼女は私の横顔を覗き込んだ。いや、横顔というよりは、耳の奥を覗くようにして、私に視線を向けていた。
「不快なのかな?」
「え?」
「だって、波の音なんでしょ?しかも、静かな波の音。夏の夜の穏やかな浜辺なんて、それだけでロマンチックな気分になれるでしょ?それってちょっと羨ましいなと思って」
彼女の声はやけに真剣さを伴っていた。
「羨ましい?」
「ええ。だって、普通の人には、テレビの音とか冷蔵庫の唸り声とか、そういう音しか聞こえないもん」
妻はそれだけ言うと、口を閉ざした。彼女の表情はいつも通り穏やかだったが、その瞳はどこか遠くの、私の視線の届かない場所を向いているように思えた。

数日後の金曜、仕事を終えて十九時半に帰宅した。
玄関の鍵を開けると、家の中は妙に静まり返っていた。いつもなら点いているリビングの明かりも消えていた。
「ただいま」
靴を脱ぎながら声をかけたが、返事はなかった。
キッチンに行くと、シンクには洗われたコップが一つ、ぽつんと置かれていた。リビングのテーブルの上には、小さな白いメモ用紙が置かれていた。
妻の几帳面な字で、こう書かれていた。
『少し、出かけてきます』
それだけだった。どこへ行くのか、いつ戻るのかは書かれていない。電話をかけてみたが、「電波の届かない場所にあるか、電源が入っていない」という無機質なアナウンスが流れるだけだった。クローゼットを開けてみると、彼女の普段使いのリュックと、数日分の着替えがなくなっていた。
深夜の一時を過ぎても、妻は戻らない。しかし、私は不思議と落ち着いていた。ソファーに座り、テレビも点けずに、ただ耳の奥で鳴り続ける波の音を聞いていた。
ザー、ザー。
音はいつもと変わらない規則性で、耳の奥で冷たく響いていた。
午前二時前、テーブルの上でスマートフォンが短く震えた。
画面を見ると、妻からのメッセージだった。テキストはなく、十秒ほどの動画ファイルが一つ添付されているだけだった。
指先で画面をタップして、動画を再生する。
画面は真っ暗だった。街灯も月明かりもない。深い闇が映っていた。何かの音も聞こえたが、鮮明ではなかった。ただ、時折、スマートフォンのライトの光が不規則に揺れて、足元のごつごつとした岩肌を照らした。
闇の映像に目を凝らして見ると、頼りない光の先に映ったのは、白く砕ける波頭だった。それは一瞬だけ浮かび上がり、すぐに闇に吸い込まれて消えた。不鮮明だと思われた音も、轟々という激しい本物の波の音なのだと分かった。風の音に混じって、ざざざざーっと小石が擦れ合うような重い音が響いた。
どこの海なのかは分からなかった。砂浜ではなく、岩場の海岸のようだった。
動画は、波が足元まで押し寄せ、白い泡がカメラの光を反射したところで唐突に途切れた。彼女の声も、姿も、そこには一切映っていなかった。
私はもう一度、動画を最初から再生した。
スマートフォンから流れる本物の海の音と、私の耳の奥で鳴り続ける平坦な波の音。
二つの音は、重なり合うことも、調和することもなく、私の頭の中で別々に響いていた。
いったいどこにいるのだろうか。私の耳鳴りの波の音を羨ましいと言い、やけに強い好奇心を示した彼女の言葉がよみがえる。彼女にしては珍しく、ひとつのことに興味を惹かれていることを隠そうともしなかった。
窓を開けると、熱を帯びた夜風の中に、やはり、潮の香りが立ち上ってきた。気のせいではなかったのだ。
私は、妻からのメッセージを待ちながら、スマートフォンを握りしめたまま、耳の奥で遠くの波の音を聞いていた。

(written by sakai_tama

#シロクマ文芸部 さん(お題企画「波の音」)に参加させていただきました!

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