【ミッドナイト・イン・ラフトレード】第3話「写真は、赦さない」
理子の写真は、たいてい少しだけ残酷だった。
別に、被写体を醜く撮るわけではない。むしろ逆で、その人が一番見せたい顔より、半歩だけ奥にある“逃げ切れていない部分”を写す。本人が気づいていない自意識の形まで、画面に残ってしまう。だから、うまく撮れた写真ほど、見ていてちょっと腹が立つ。
共有フォルダの一枚目にいた瀬尾海斗は、たしかにその残酷さに向いていた。壁際に立っているだけの写真なのに、強がっていることと、本当に前に出たいことの両方が写っている。目線は外しているのに、注目される前提の顔をしていた。若いのに、諦めが悪い。そういう顔だ。
翌日、夕方前にLATE CITY RECORDSへ行くと、店は見た目にはいつも通りだった。
いつも通り、がいちばん信用できない時もある。
今日はDinosaur Jr.がかかっていた。
雨じゃない日は、こういう“慰めないけど放っておいてくれる”音が似合う。
「二日連続」と燈子が言う。
「寂しいんですか」
「営業妨害だな、その訊き方」
レジ横に、更新通知の封筒がまだ置いてあった。昨日と同じ場所なのに、今日はただの紙じゃなく見える。一晩置くと、現実は少しずつ具体的になる。
「片岡さん、今日来るって」と燈子が言った。
「あと理子さんも」
「何でそんな平然と言うの」
「平然と言わないと、店の空気おかしくなるから」
階段に足音がした。
一人じゃない。先に聞こえたのは片岡の声で、その少し後ろに、理子の低い返事が混じる。
ドアが開いて、片岡が先に入る。
「おつかれ」といつもの調子で言って、その一歩後ろから理子が入ってきた。
久しぶりに見る理子は、驚くほど変わっていなくて、同時にちゃんと変わっていた。
「久しぶり」と理子が言った。
「そうだね」と僕も言った。
それ以上の言葉は、その場には多すぎた。
久しぶりに見る理子は、驚くほど変わっていなくて、同時にちゃんと変わっていた。
黒いジャケット、白いシャツ、細いパンツ。髪は前より短く、顔立ちが少しだけ鋭くなったように見える。たぶん実際に変わったというより、余計な柔らかさを自分で削ったのだと思う。昔からそうだった。人より少しだけ、人生を編集するのがうまい。
「久しぶり」と理子が言った。
「そうだね」と僕も言った。
それ以上の言葉は、その場には多すぎた。
燈子が、何事もない顔で言う。
「こんばんは。噂の写真、見ました」
理子は軽く会釈した。
「噂になるほどじゃないよ」
「なるでしょ。店狭いんだから」
片岡が、空気を雑にほどこうとする声で言った。
「とりあえず、盤見せてよ」
彼はそう言って店内を歩き出した。こういう場面で気を遣えるのに、たまにその気遣い方が雑で、それが少し救いでもある。
理子は新譜棚の前で立ち止まり、The Cureの再発盤を手に取った。
「まだこういうの、ちゃんと売れるんだ」
梶谷さんが答える。
「売れるよ。人が弱った時に戻ってくるから」
「店の言い方じゃないですね」
「うちは昔からそう」
理子が小さく笑う。その笑い方を見て、昔、一緒に恵比寿の小さなギャラリーへ行った帰りを思い出した。Placeboの話をして、僕が安っぽい感想を言って、彼女がそれを鼻で笑って、それでもなぜか機嫌は悪くなかった夜。思い出す必要のないことほど、体が勝手に思い出す。
片岡は梶谷さんに資料を見せながら、瀬尾たちの話をしていた。初出しのタイミング、ロゴの方向、最初の写真の印象。仕事の話になると、彼は早い。言葉が具体的で、迷っている時ほど具体的になる。
「最初の写真で“今っぽい”って言われるのはいいんですよ」と片岡。
「でも、“今っぽいだけ”で終わるのが一番まずい。どっかでちゃんと雑味を残したい」
理子が横から言う。
「雑味って便利な言葉だよね。コントロールできてない部分を美化する時にも使えるから」
「だから、できる人に頼んでるんでしょ」と片岡は返す。
「コントロールしたうえで、してないみたいに見せられる人に」
理子は肩をすくめた。
「褒めても値段は下がらないよ」
「下げなくていいよ。こっちも安く見せる気ないし」
そのやり取りを聞きながら、僕は少しだけ笑いそうになった。片岡は理子みたいな相手と仕事をする時、妙に相性がいい。どちらも、表面だけの“いい感じ”が嫌いだからだろう。
「透は何か言わないの」と理子がこっちを見る。
「何について」
「写真」
「まだ全部は見てない」
「逃げたね」
「仕事じゃないからね」
「仕事じゃない時の方が、あなたは見ない」
その言い方が昔と変わっていなくて、少しだけ腹が立った。腹が立つのは、当たっているからだ。
「理子さん、写真って被写体と仲良くなる派ですか?」
いつの間にかミナトが来ていた。音もなく入ってきて、普通に会話へ入るのが本当に今っぽい。
理子はミナトを見て、少し考える。
「仲良くなれた方が楽な時もある。でも、仲良くなると見えなくなるものもある」
「写真って怖いですね」
「怖いよ。だから面白い」
「音楽も同じですね」とミナトは言った。
「好きになりすぎると、見えなくなるとこあるし」
片岡がすぐに反応する。
「いいこと言うじゃん。最近ほんと誰だよおまえ」
「そのくだり二回目です」
笑いが起きる。笑いが起きると、少しだけ助かる。誰かと再会した時にいちばんしんどいのは、喋ることより、周りが気を遣って静かになることだから。
それでも、理子と目が合うたび、言葉にしない何かが残る。昔のことを後悔しているのか、していないのか、自分でもよくわからない。ただ、あの頃の自分は、今より少しだけ“音楽の近くで何かになる”と信じていた。その信じ方ごと、彼女は見ていた気がする。
閉店時間が近づいて、ミナトが先に帰り、片岡も外で一本電話をすると言って階段を下りた。店内に、僕と理子と燈子と梶谷さんだけが残る。梶谷さんは空気を読んだのか読んでいないのか、奥で段ボールを潰し始めた。
理子はレジ横の手書きPOPを見ていた。
「この店、変わらないね」
「変わってるよ」と燈子が言った。
「変わらないように見せるのがうまいだけで」
理子はその返しを気に入ったみたいに少し笑い、
「そういうの、いいね」
と言った。
燈子は笑わない。
「よくないですよ。維持コストかかるんで」
その言葉に、理子は一瞬だけ表情を変えた。たぶん、昨日の更新通知のことをここで初めて知ったのだろう。
「何かあったの」と理子が僕を見る前に、燈子が先に言った。
「家賃、上がるんです」
「どれくらい」
僕は昨日と同じ額を口にした。
理子は短く息を吸って、黙った。その黙り方が、数字をちゃんと現実として受け取った人のものだった。
「それは、きついね」
「まあ、世の中的には店なんて面積ですから」と燈子。
言い方は淡々としているのに、少しだけ棘が見えた。
理子は何か言いかけて、やめた。外から戻ってきた片岡が、その空気を見てすぐ察する。
「話したのか」
「話しました」と燈子。
片岡は軽く頭を掻いた。
「いや、変に隠すことでもないけど」
「隠しても改善しないですし」と燈子。
梶谷さんがようやく口を挟む。
「改善って言い方すると、病気みたいだな」
「病気みたいなもんでしょ」と燈子。
「じわじわ悪くなって、本人が一番平気なふりするやつ」
その言葉で、店の中が少し静かになった。
梶谷さんは段ボールを持つ手を止め、片岡は何も言わず、理子は視線を落とした。僕だけが、燈子の声の温度に驚いていた。彼女は普段、ここまで踏み込まない。
閉店後、理子と片岡が先に外へ出た。僕が会計台の横で財布を探していると、燈子が小さい声で言った。
「透さん」
「なに」
「この店、たぶん本当に危ないです」
冗談も、皮肉もなかった。その声だけ、妙にまっすぐだった。
「梶谷さん、まだ“何とかなるかも”って顔してるけど、あれ半分は癖だから。片岡さんは動くと思う。でも、動く人がいると、動かない人も出る」
「それ、誰のこと」
「みんなです」
彼女はレジを閉めながら言った。
「透さんも含めて」
僕は何も返せなかった。たぶん図星だった。店がなくなるかもしれない、と聞いて真っ先に思ったのは、ここがなくなったら寂しい、ではなく、その話を誰かがちゃんと書くのか、だった。つまり僕は、また一歩引いたところから事態を見ようとしていた。
「あと」と燈子が言う。
「理子さん、また来ますよ。あの感じ」
「何の感じ」
「終わってない人の感じ」
言ってから、彼女はようやく少し笑った。
「店って、そういうの集まるから嫌ですね」
外へ出ると、理子と片岡が階段の下で立っていた。理子が煙草に火をつけ、片岡はスマホを見ている。二人とも仕事の顔をしていたのに、その実、仕事だけでは説明できない立ち方だった。
理子がこっちを見て、
「ライブ、来る?」
と訊いた。
「まだわかんない」
「そういう返事、昔から嫌い」
「昔の話ばっかりするなよ」
「昔の話じゃないから言ってる」
片岡がそこで口を挟む。
「おまえら、店の前でだけはやめろ。梶谷さんに悪い」
「誰のせいだと思ってるんだよ」と僕が言うと、
「仕事のせい」
と片岡は即答した。
それが半分冗談で、半分本当なのが、いちばん厄介だった。
理子は煙草を落として踏み消し、
「じゃあまた」
と言った。
また。便利で、乱暴で、期待を残す言葉だ。
二人が歩き出したあとも、僕はしばらくその場を動けなかった。二階の店はもう暗く、階段の踊り場の小さな看板だけが見えている。LATE CITY RECORDS。いつもと同じ文字なのに、急に期間限定のものみたいに見えた。
その夜、帰っても何も書けなかった。代わりに、昔理子が撮った写真の載っている古い雑誌を引っ張り出して、開きもせず机の上に置いた。捨てていなかったこと自体が、もう答えみたいで嫌だった。
翌朝、片岡からメッセージが来た。
金曜、十九時、下北BASEMENT。
瀬尾ら出る。理子も来る。
あと、ちょっと相談ある。店の件も。
その下に、珍しく一行だけ余分な文があった。
逃げるなら今のうち。
僕はしばらく画面を見たあと、返信せずにスマホを伏せた。
逃げるなら今のうち。
そう言われると、人はだいたい、逃げられなくなる。
