イージー♡ライター|第二話 私の左手
この話の音。
PARANMAUM「Bokuno Migite」
イージー♡ライターという名前がついてから、ミナ先輩は急に忙しそうな顔をするようになった。
といっても、実際に忙しいわけではない。
部室の机に文化祭の申込用紙を置いて、古いコード譜を広げて、ジンジャーエールを飲みながら、
「うちら、そろそろ本気出さなあかんな」
と、一日に三回くらい言うだけだった。
「本気って、何するんですか」
スミレが聞くと、ミナ先輩はギターを抱え直した。
「まず、雰囲気」
「音楽で雰囲気から入る人、だいたい怪しいです」
「うちは雰囲気ギタリストやから」
「そんなジャンルないです」
「作ったらええねん。イージー♡ライターやから」
ミナ先輩は、そう言って笑った。
そのギターは、ミナ先輩の私物だった。
高そうには見えなかった。むしろ少し古くて、角には小さな傷がいくつもあった。誰かのお下がりなのか、中古で買ったのか、詳しいことは知らない。
ただ、ミナ先輩はそのギターを、ほとんど家に持って帰らなかった。
「重いやん」
理由は、いつもそれだった。
だから、そのギターは部室の隅に置きっぱなしになっていた。部の備品の古いギターたちに混ざりながら、でも少しだけ自分の場所を主張するみたいに、壁にもたれていた。
ミナ先輩は、そのギターでコードを鳴らした。
ジャラン。
鳴った。
でも、全部は鳴っていなかった。
コード譜に書かれた形は合っている。
右手も、ちゃんと弦をはじいている。
けれど、左手がネックの上でほんの少し迷う。
中指だけが、遅れる。
押さえたい場所に届く前に、力が逃げる。
その一瞬だけ、音が薄くなる。
ミナ先輩は、すぐに笑った。
「あかんわ。今日、爪長いから無理」
「そんな長くないです」
「見た目より長いタイプ」
「爪にタイプあります?」
「ある。ギャルの爪は概念やから」
「便利ですね、概念」
スミレは笑った。
それでも、ミナ先輩の左手からは目を離さなかった。
別の日もそうだった。
ミナ先輩がコードを押さえる。
右手が弦を鳴らす。
でも、一本だけ音が詰まった。
「このギター、機嫌悪いわ」
「昨日も機嫌悪かったですよ」
「反抗期やな」
「ギターに?」
「うちに似たんやろ」
ミナ先輩は笑っていた。
部室の中では、誰かがチューナーを探していた。
窓の外では、運動部の声が遠くに聞こえていた。
机の上では、スミレのアイスティーの氷が、少しずつ小さくなっていた。
ミナ先輩は、いつものように笑っていた。
でも、スミレはその日、初めてちゃんと見てしまった。
ギターを押さえる、ミナ先輩の左手を。
左手の中指には、小さな跡があった。
大げさな傷ではない。
ぱっと見ただけでは、気づかないくらいのものだった。
でも、コードを押さえようとした時だけ、その指は少し違う動きをした。
伸びる。
止まる。
迷う。
逃げる。
「ミナ先輩」
「何」
「その指、痛いんですか」
ミナ先輩の右手が止まった。
部室の空気が、ほんの少しだけ硬くなった。
スミレは、聞き方を間違えたかもしれないと思った。
ミナ先輩は、すぐに笑った。
「痛ないよ」
「でも」
「昔、ちょっとやっただけ。チャリでこけた」
「チャリで」
「ドラマないやろ」
「別にドラマ求めてません」
「求めてそうな顔してたで」
「してません」
ミナ先輩は、またギターを鳴らした。
さっきと同じように、一本だけ音が詰まった。
「ほらな。ギターがうちを嫌ってる」
「違うと思います」
「何が」
「ミナ先輩がギター弾けないんじゃなくて」
スミレは、少しだけ迷った。
正論を言う時、自分の声がきつくなることを知っていた。
でも、言わない方がもっと変な気がした。
「今のギターの形が、ミナ先輩に合ってないだけじゃないですか」
ミナ先輩は、何も言わなかった。
ジンジャーエールの泡だけが、ペットボトルの中で小さく動いていた。
「……何それ」
「この前、この雑誌で読んだんですけど。ジミヘンって知ってます?」
「ジミー大西?」
「違います」
「親戚?」
「違います」
スミレは、棚の上に置いてあった古い音楽雑誌を引っ張り出した。いつ誰が持ってきたのかわからない、角の折れた雑誌だった。
「ジミ・ヘンドリックスです。左利きで、右利き用のギターをひっくり返して、弦を張り替えて弾いてたんです」
「急に雑学出してきた」
「雑学じゃないです。解決策です」
「うち、左利きちゃうで」
「でも、今しんどいのは左手ですよね」
ミナ先輩は、自分の左手を見た。
いつもなら、そこで何か言い返す人だった。
でも、その時は黙っていた。
「普通の右利き用ギターって、左手でコード押さえるじゃないですか」
「うん」
「逆にしたら、押さえるのは右手になります」
「右手にそんな責任負わせたことない」
「これから負わせましょう」
「スミレ、たまに怖いな」
「褒めてます?」
「怖がってる」
それでも、ミナ先輩はギターをスミレに渡した。
「壊したら泣くで」
「泣くんですか」
「ギャルも泣く」
「ギャル便利ですね」
二人は、部室の机の上にギターを寝かせた。
弦を緩める。
一本ずつ外す。
そして、並びを逆にして張り直そうとした。
でも、太い弦は溝にうまく収まらなかった。
どうにか張ってみても、音はビリついた。
チューニングも、すぐに狂った。
ミナ先輩はギターを逆に抱えるたびに、体ごと迷子みたいになった。
翌日、顧問に相談して、ギターを近くの楽器店へ持ち込んだ。
店員は、右利き用のギターを逆向きでも使えるように、弦を張り直し、溝や弦の高さを最低限調整してくれた。
完全な左利き用になったわけではない。
それでも、二人だけで張った時より、音はずっと鳴りやすくなった。
そこから何日も、二人は部室でそのギターを触った。
最初は一つのコードを押さえるだけで、何度も指の位置を確かめた。
ミナ先輩はそのたびに、
「あかん、右手が家出した」
と言った。
スミレは、
「探してください」
と言った。
夕方の部室。
アイスティーの氷。
ジンジャーエールの泡。
チューナーの小さな針。
何度も合わない音。
それでも、少しずつ変わっていった。
ミナ先輩の肩から、余計な力が抜けた。
自分の左手を見て、笑ってごまかすことも減っていった。
右手はまだ頼りなかったけれど、少しずつコードの場所を覚え始めた。
ある日、部室に二人だけだった。
雨が降りそうな夕方で、窓の外が少し暗かった。
ミナ先輩は、いつものようにギターを逆に抱えた。
「いくで」
「はい」
「鳴らんかったら、ギターのせいやから」
「今日は先に言うんですね」
「保険や」
ミナ先輩の右手が、ネックの上に置かれた。
左手が、弦の上を軽く走った。
ジャラン。
音が鳴った。
全部ではない。
完璧でもない。
少し揺れていた。
でも、今まで詰まっていた場所が、ちゃんと開いた。
ミナ先輩は、ギターを抱えたまま固まった。
「……今、鳴った?」
スミレは、チューナーではなく、ミナ先輩の顔を見た。
「鳴りました」
「ほんまに?」
「鳴りました」
ミナ先輩は、もう一回だけ同じコードを鳴らした。
ジャラン。
今度は、自分でもわかったみたいだった。
ミナ先輩が笑った。
いつもの派手な笑い方ではなかった。
誰かに見せるための笑い方でもなかった。
「私、ギター弾けるやん」
スミレは、何も言わなかった。
言ったら、何かがこぼれそうだった。
ただ、机の上のチューナーを見た。
針は少しだけ揺れていた。
でも、真ん中に近かった。
その日、部室の中で鳴ったのは、たった一つのコードだった。
でもスミレには、それがただの音には聞こえなかった。
できないのなら、できる形に変えればいい。
その人の音が鳴る場所を探せばいい。
その考え方に、まだ名前はなかった。
ただ、スミレの中で、小さく鳴った。
第二話 終わり
次回
第三話 デイ・ドリーム・ビリーバー
