旧東海道を東京から京都までぶっ通しで歩いてみた(ルート編)
令和7年5月14日ーー緋村剣心が再び流浪人に戻り漆黒の闇の中に一人消えていった明治11年5月14日から約150年後にあたる、その日。剣心が歩いた道のりがどんなものだったのか具体的に知りたくなり、東海道を実際にぶっ通しで歩いてみる一人旅企画を実行しました。
るろうに剣心とは
「るろうに剣心-明治剣客浪漫譚-」とは、1994〜1999年にかけて和月伸宏先生によって週刊少年ジャンプで連載されていた少年漫画です。
主人公「緋村剣心」は、かつて「人斬り抜刀斎」として剣を振るい、新時代・明治を切り拓いた維新志士。明治の世になり人斬りの剣から逆刃刀に持ちかえ、不殺の誓いを胸に自由に人を守りながら己の人斬りとしての罪を贖う道を探しています。
物語の舞台は明治11年、東京下町。神谷薫、明神弥彦、相楽左之助、高荷恵などの人々と出会う中で、剣心にとっては束の間の心休まる日々が続いていましたが……。
今回の東海道の旅は、るろうに剣心の原作コミックス7巻〜8巻で描かれている【大久保利通暗殺事件「紀尾井坂の変」のあと剣心が京都へ行くまでのルート】を考察し、実際に東京から京都までぶっ続けで歩いてみたものとなります。
「明治十一年五月十四日 ー午後ー」の足取り
この旅を始めるにあたって原作に描かれた「明治十一年五月十四日」の剣心の足取りをより具体的に考察してみました。
下記の「今昔浪漫地図」は私が独自に調べて作った漫画内に登場する場所の今昔を整理した地図(東京編)です。今回、私はこの地図で言えば【四】紀尾井坂の変が起きた清水谷→【五】江戸城の周り→【二】当時の警視庁(鍛冶橋第一次庁舎)→【ろ】日本橋を歩き、翌朝5月15日に日本橋から京都に向かって出発します。
5月14日の夜更けに神谷道場を出発した剣心はこの時点できっとすでに何里も先に進んでいますね。

第五十七幕「明治十一年五月十四日 ー午後ー」で出てくる「当時の警視庁」の場所は警視庁のホームページを確認すると八重洲町2の4です。道端に解説看板などは見つけられなかったのですが、現在の東京駅南側(八重洲口)のあたりがその付近となります。

また、原作では警視庁を出た後に剣心が橋から川を眺め佇むシーンがあります。橋や瓦斯燈のデザインからおそらく明治後期頃の日本橋なのではないかと推測しています。
これはるろうに剣心に限らず言えることですが、時代考証の正しさではなく「物語」としての面白さが第一だと思うのでこの辺りの「実際にはどうだったか」はそこまで厳密に重要視するべきではないと思います。そういう前提の上で、明治と現代を重ね合わせながら歩くことってなんて楽しいのだろう!と強く思うのです。

実際に歩いてみたルート
日本橋をスタートしたあとは江戸時代の旧東海道を網羅的に紹介した紙の地図本「ちゃんと歩ける東海道五十三次」(上下巻)を見ながら歩きました。Google マップでは記載のない細かい旧東海道のルートも載っている!
「旧東海道」と一口に言っても実は色々あるらしく、さらにはGoogleマップが間違っていることも多々あるため、紙の地図は必携です。紙の地図でもわかりにくい箇所などは現地の案内板にかなり助けられました。
また、「ちゃんと歩ける東海道五十三次」には載っていませんが、明治になって廃止された七里の渡し区間は新東海道である前ヶ須街道を歩いてみる等々、明治11年当時具体的に剣心が歩いたのはどんな道のりなのか検討しつつ進んでみます。
そんな道のりをざっくりとGoogleマイマップにまとめたものがこちらです!
※基本的には私が泊まった宿から宿を繋いでいます。途中、通行止めなどで迂回している箇所もあります。本当にざっくりと結んだだけなので、今後スポットなどの情報を加筆していく可能性があります。
こうして見るとやっぱり東京-京都間ってめちゃくちゃ遠い!!
私はスピードはそこまで重視せずに25日という時間をかけて歩きましたが、恐らく1週間ほどで歩いた剣心と操の健脚っぷりに慄きます。

剣心たちは途中「鬼ごっこ」をしていたり、新月村に立ち寄ったりしているため勿論このルートそのものが全て一致するわけではないのですが、大筋はこのような感じだったのではないかと思います。ちなみに私も途中で寄り道をしたり、迷子になりかけて道を間違えた地点まで戻って歩き直したりしているためすんなり歩けてはいません。数年前の台風の影響で通行止めになっている区間もありました。
歩いていると「この辺りで剣心と操が初めて出会ったのかな?」とか「原作に一コマだけ描かれている一休みしていた場所はこの辺りの一里塚?かな?」とか、めちゃくちゃ想像力を掻き立てられます。
そして実際に歩いたことで、新月村のエピソードは旅全体で考えるとだいぶ序盤に起きた出来事であることが体感としてはっきり分かりました。
原作では新月村のエピソード→左之助と安慈の中山道(下諏訪)でのエピソード→すぐに京都までひとっ飛びで話が進行しますが、沼津宿〜三島宿付近を通り過ぎてからの道のりが想像以上に長かった!!!そりゃそうだ!!!
この旅の5分の4くらいはもはや原作には登場すらしていない想像上の聖地巡礼となっていますが、各所のあらゆる土地の歴史や江戸から明治にかけての変化、風土、地形などを肌で感じながらじっくりと旅することができたことは本当に得難い経験です。
「旅篭おだや」の位置


日本橋を出発して三日目の夜に小田原宿に着きました。四日目の朝、剣心が小田原宿を歩いている時に声を掛けられた「旅篭おだや」について考えながら小田原宿を歩きます。小田原宿の中心がこの宮前町と西隣の本町とのことです。
常時90軒以上の旅籠があったとのことで、旅篭おだやの場所もこのあたり、かもしれない!
ちなみに1枚目の写真の場所は多分江戸時代と同じ道幅(約9m)で、2枚目の写真の奥に写っている国道1号は22mと拡幅されているようです。旧東海道を歩いていると、国道と重なっている区間もあれば細く狭い昔ながらの道幅の区間もあることに気づきます。
1830年から続く老舗蒲鉾店「いせかね」にて竹輪をいただきながら世間話をしていると、「創業以来ずっと工場の地下から汲み上げた天然の地下水を使用して作っている。道を拡幅したり工事で水脈が変わると地下水に影響が出るため地元の人の反対で旧東海道とは少し離れたルートで国道を通したと聞いたことがある」というお話を聞けました。
そういう地元の方のお話を聞きながら改めて当時の道幅で残っている街並みを見ると、かつてそこにあった風景をよりリアルに感じられます。竹輪もとても美味しく、過酷な旅路の中で大きな活力をいただきました!

道中、歴史の長いお店も多く、食事も旅の楽しみの一つだった。
剣心と操の歩く速度を考えてみる
原作では、新月村は沼津宿から少し離れたところにあるとされています。新月村については「正確な場所はここなのでは!?」と仮説を立てたい訳ではなく(特に新月村に関しては物語の背景も鑑み、実在する地名を名指しするのは良くないと思いました)、あくまで現実には存在しない場所として「沼津宿から少し離れたところ」という地形や距離が肌感覚としてわかったことがとても興味深かったです。
新月村に着いたのは神谷道場を出てから三日目であることは原作に明記されています。日本橋から沼津宿が123kmほど。剣心と操はここから京都までさらに370kmほど歩かなければなりません。
例えば剣心と操が時速5.5km(割と早歩き)で新月村から京都まで残り約370kmを4日で歩くと仮定します。一日約92.5km進むためには約16.8時間休みなく歩き続けることになります。
ただしこれはスピードを落とさず歩き続けられた場合で実際には峠や川を越える必要がありその度にタイムロスはあると思いますが、剣心の身長158cmの場合、時速6km以上を長時間維持しようとするなら歩くより走った方が身体的には楽かな〜、などとそんなことをつらつら考えながら自分の歩くスピードを気まぐれに計測してみたりもしました。徒歩で時速6kmは私でも頑張れば出るスピードですがかなりキツいです。剣心と操なら走った方が一気に距離を稼げそうだな、と思いながら黙々と歩き続けました。

でっかい川が多すぎ問題


今回の東海道旅での難所は箱根峠をはじめとした峠とともに、各地にある大きい河川(と海)でした。原作に登場する剣心が斬り崩した泪橋が比較にならないくらいでっかいでっかい川が多い!!風が強いと歩くのが本当に怖い!!
まだ軽く調べただけなので要確認ですが、江戸から明治に移り変わる過程で徒歩渡し(人が人を担いで川を渡る)は廃止され川を渡る方法というと船渡しや船橋、また、橋が架けられ有料で渡るところもあったようです。
なんにせよ路銀のない剣心はどうやったんだろう。こっそり泳いだのかな……。江戸時代だと旅人が泳いで渡るのは原則禁止らしいのですが、明治に入ってからはどうなったのか、今後引き続き調査してみたいと思います。
大きな川の前後にある宿場では「川留め(増水による通行止め)」の話もよく目にし、旅人にとって本当に大変な場所だったことを身にしみて実感しました。実際に私も宿場町に泊まろうと思った時に天候や宿場の距離の関係で当初の予定をだいぶ変更せざるを得なくなったので、昔なら尚のことそういう不測の事態もあっただろうと思いを馳せてしまいます。
宇津ノ谷峠の明治のトンネルは有料なので通行していないという考察

東海道の難所の一つに宇津ノ谷峠という場所があります。静岡県の丸子宿と岡部宿の間に位置し、平安時代から人々が行き交っていました。
ここは明治9年に日本初の有料トンネルが開通し、今は「明治のトンネル」として観光名所になっています(現在は無料で通行できます)。が!ここは路銀のない剣心たちは恐らく通っていないだろうと考え、江戸時代のルートである「山越えの旧東海道」を行くことにしました。
この場所は現在もとても美しい情緒あふれる集落の姿が残っています。しかしかつては山賊や追剝ぎが多く、暗く生い茂った峠道は旅人にとって難所でもあったようです。
今回、私の心強い旅の相棒であり旅装束が「菅笠」だったこともあり途中で多くの道ゆく人に「東海道歩いてるの!?頑張って!」と声をかけていただいたのですが、宇津ノ谷峠に向かう途中では「あのあたりは追剝ぎが出るから道中気をつけてね〜」と東海道ジョークを交えて声をかけてくれた人がいて、現代で『追剝ぎ』『道中気をつけて』って言ってもらえる機会があるんだ……としみじみ思いました。

最後に

思いついた瞬間からどうしても実行したくなったこの東海道旅。無事に京都まで辿り着けて心底ホッとしています。
まずは主にルートについてだけでもnoteに書いてみようとまとめてみました。今後、ここにまとめたことも含めて改めて紙の本としても形にできたらと思っています。
もしご興味ある方はぜひなんらかの機会でお手にとっていただけたら幸いです。どうぞよろしくお願いいたします!
