【R18】禁じられた花、夜に咲く 上 ~胸の鼓動は、もう母親じゃない~
R18作品です。この作品には成人向けの表現が含まれています。
18歳未満の方の閲覧はご遠慮ください。
エプロンの紐を背中で結びながら、私はそっと深呼吸をした。
息子の部屋に漂う洗剤の匂いに、私の手から移った生姜の香りが、どこか混ざり合っている気がする。
流しに向かって、茄子を水にさらし、まな板に置いた。
ぬめりを帯びた表面に包丁を入れる感触が、妙に柔らかくて、生々しい。
後ろのリビングからは、スマホのスピーカーで流れる音楽がかすかに聴こえる。
懐かしいイントロに、私は一瞬だけ手を止めた。
「……これ、懐かしいね」
「え?ああ、宇多田ヒカル。最近ちょっとハマってて。お母さん世代っぽいけど、曲がいいんだよ」
「そう……学生のとき、よく聴いてたの。部屋に籠もって、イヤホンして。あの頃の恋とか……全部、そのまま入ってる曲」
茄子を千切りにしながら、私は過去の私に戻っていた。
無防備に恋していた頃。
……あの人。
息子によく似ていたあの人。
まな板の上に細く並んだ茄子の切れ端が、なんだか、私の記憶を一枚ずつ剥がしていくように見えた。
「今の、First Love?」
「うん、そう。七恵さんも、そういう……忘れられない人、いる?」
「……いるよ」
包丁を拭きながら、私は答えた。
でもその忘れられない人が、リビングで足を組んでスマホをいじっている、この子と重なってしまっているなんて……口にはできない。
「へぇ……なんか意外。七恵さんって、ずっと冷静な人って感じする」
「そうかしら。…そういうふうに見せてるだけ、かも」
しそを細かくちぎりながら、私は息子の方を振り返った。
息子はふと視線を上げて、笑った。
その笑顔に、目の奥が熱くなる。
エプロンの腰元を無意識に握りしめた指先に、自分の体温が染みていく。
汗ばむ夏の空気と、記憶の熱と、目の前の息子がもたらす火照りと。
私はいま、料理ではなく、ひとりの女として、恋をしていた。
「七恵さん、料理してるとき、なんか……色っぽいね」
「ちょっと、何言ってるの……」
「だって、そう見える。包丁持ってるのに、指先まできれいで……」
ほんとうに、わかって言ってるの?
そう問い返したくなるほど無邪気な目で、息子は私を見ていた。
まっすぐで、何も混じっていない。
でも、それが余計に怖い──私のほうが汚れて見えてしまいそうで。
音楽がそっと切り替わり、今度はMISIAの「Everything」が流れ始めた。
さっきよりも、少し苦しくなるくらい、やさしいメロディ。
“あなたのすべてが 愛のすべて…”
私は背を向けて、冷蔵庫から豚肉を出した。
包丁を置いた指が、小刻みに震えていた。
息子の視線が、私の口元から、そのまま鎖骨の辺りへと滑るのを感じる。
シアーカーディガン越しの肌が、ふわりと熱を持つ。
私はすぐにまな板に視線を戻し、再び玉ねぎを刻み始めた。トントントン、と軽快な音がキッチンに響く。
この音だけが、今の私の動揺をかき消してくれるようだった。
「なんか、今日の七恵さん、いつもより可愛いね」
不意に、息子がそんなことを言った。心臓が跳ね上がる。私は思わず、手に持っていた包丁を危うく落としそうになった。振り返ると、息子はニヤリと悪戯っぽい笑みを浮かべていた。
「な、何を言ってるのよ。からかわないで」
声が上ずったのを悟られないよう、私はわざと怒ったふりをした。私の頬が赤くなっているのが、自分でもわかる。
「冗談だよ。でも、キャミワンピ、よく似合ってるよ。涼しそうでいい感じ」
息子は、何気ない口調で褒めた。しかし、その言葉一つ一つが、私の心を揺さぶる。まさか、息子がこんなにもストレートに褒めてくるなんて。私は、ただ嬉しいばかりで、どう反応していいか分からなかった。
そのとき、息子がふと眉を上げた。
「あ、思い出した。今日さ、河川敷で納涼祭やってるんだった。大学の帰りにポスター見て。…行ってみない?」
「……お祭り?」
「うん。浴衣とか着てなくても全然大丈夫なやつ。屋台がたくさん出てるはず。混む前なら、まだゆっくり歩けるかも」
私は、手を止めて息子を見た。
冷蔵庫の扉を閉めかけたまま、ぽかんとしていた自分に気づいて、小さく笑った。
「夕飯、どうしようと思ってたけど……それ、いいかもね」
「ほんと?じゃあ、用意してくる」
「ちょっと待って。支度、こっちが先よ」
「はーい」
楽しそうに返事して、息子が立ち上がる。
Tシャツの裾が少しだけめくれて、引き締まった腰がちらりと覗いた。
その一瞬に、息を飲みそうになる。
夏の夕方。
お祭りという言葉ひとつで、空気が変わっていく。
母としての私と、女としての私を、無理やり引き離すように。
私は火を止めたコンロに目をやりながら、ひとつだけ深く、息を吐いた。
河川敷の光のなかで、私はどんな顔をして息子の隣を歩くのだろう。
風に揺れる髪を、もし息子が無邪気に払ったりしたら……
私の心は、もう戻れなくなるかもしれない。
私はキッチンの端に置いたミラーを手に取って、ソファの肘に腰を下ろした。
小さな化粧ポーチを開けて、コンパクトの蓋を静かに開ける。
午後の日差しに照らされたパウダーが、微かにきらめいた。
「少しだけ、直そうかしら……」
指先でファンデーションを軽く叩く。
頬のあたりに、うっすらと浮かんでいた赤味を、そっと隠してゆく。
それが汗なのか、期待なのか、自分でもわからない。
キャミワンピの肩紐がずれていることに気づいて、指先でそっと直す。
胸元まで伸びた髪が、その肩に落ちて、肌に触れた。
……ああ、ダメね。
こんなに女を意識してる自分が、いちばん恥ずかしい。
「着替えてくるね」と息子の声がして、私は無意識に顔を上げた。
部屋の奥の引き戸が開いた。
Tシャツを脱ぎかけた息子の背中が、一瞬だけ見えた。
細く引き締まった腰。
肩甲骨が滑らかに動いて──そのまま、胸板が目に飛び込んできた。
……あ。
一瞬、視線を逸らそうとしたけれど、間に合わなかった。
目が離せなかった。
肌が、汗ばみながらも、若さの輪郭を保っている。
胸筋の奥に、昔の彼の面影が重なった。
十数年前、恋人だった彼と、大学の部屋で過ごした夏。
ベッドに横たわった彼の胸に、そっと耳をあてたときの鼓動。
その記憶が、フラッシュバックのように胸の奥で再生された。
「……どうしたの?」
息子がふと、こちらに顔を向けた。
私は、あわてて目を伏せた。
ミラーを手にしているふりをして、頬のあたりを何度もパフでなぞった。
「ううん、何でもない。ちょっと……顔がテカってるだけ」
声が震えそうだった。
まさか今日、外へ出ることになるなんて……。
河川敷の納涼祭りに行ってみない?と、息子が軽く言ったとき、心臓が跳ねた。
一瞬で全身の感覚が冴えて、体温がふわっと上がった気がした。
想定していなかった“外”の空気。
しかも、人の多いお祭り。
洗濯をして、掃除をして、冷蔵庫の野菜室を整えて。
息子の部屋で過ごす家事の延長のはずの時間。
それが、ふいに「特別な時間」に切り替わった気がして、私はとっさに自分の服装へ意識を向けてしまう。
キャミワンピ。
背中が緩く開いた、ラフだけど女っぽさのあるデザイン。
上にはシアーカーディガンを羽織っていたけれど、布は薄い。
肩の細いストラップが、動くたびに肌にすれる。
ふたりきりの部屋の中では気にならなかったそれが、いまは急に……恥ずかしい。
私はソファ脇のポーチを手に取り、鏡の中を覗いている。
パウダーを指に取り、Tゾーンを軽く抑える。
もう一度、全身を映す鏡で自分の姿を確認する。
まつ毛をくるりと上げて、目尻に少しベージュの影を足す。
艶やかなグロスを唇に塗る。指先で軽くポンポンと叩いて馴染ませると、ぷるりとした潤いが加わった。
ほんの少し、艶を足しただけなのに、なぜだろう。
鏡に映る自分の顔が、どこか“誰かに見せるため”に変わっていく。
「着替えるね」と声がして、私は無意識に目線をそちらへ向けてしまった。
息子が、Tシャツの裾をつかんで一気に脱ぐ。
めくれ上がる布とともに、腹筋から胸元まで、すらりとしたラインが露わになる。
その一連の動作が、妙にスローモーションに感じた。
視線を逸らさなきゃ……と思うのに、身体が動かない。
艶やかなグロスを唇に塗る。指先で軽くポンポンと叩いて馴染ませると、ぷるりとした潤いが加わった。もう一度、全身を映す鏡で自分の姿を確認する。
鏡越しに、息子の部屋のドアがわずかに開いているのが見えた。息子の部屋は、私の立つ位置からは死角になるはずだった。しかし、視線を滑らせたその先に、映り込むのは鏡の中の、息子の肌。
シャツを脱ぎ捨てたあとの、白い、若い胸元。そして、腹筋から腰へと続く、緩やかにカーブを描くライン。筋骨隆々というわけではない。ただ、息子自身のしなやかさと、高校時代の運動部で作られたであろう、無駄のない引き締まった体。息を呑む。ドキリと、心臓が大きく脈打った。まるで、見てはいけないものを見てしまったかのような、背徳感。
同時に、抗えない熱が身体の中心から広がっていくのを感じた。
目をそらして、鏡の自分を確認する。
今の私、どこまで「女」として息子に映っているのだろう。そして、私はどこまで「女」をさらけ出してしまっているのだろうか。そんな羞恥心と、それ以上の高揚感が、私の内側でせめぎ合っていた。
そのとき、鏡越しにふと、息子の目線がこちらに重なった。
一瞬だけ、息子の動きが止まる。
私が見ていることに気づいて、わずかに、口の端が上がった。
……え?
笑ってる……ような、探るような視線。
無邪気とは少し違う。
気づかれてる?私の視線に。
着替え終わったのだろう。息子のサンダルの音が近づいてくる。
「七恵さん、準備できた?」
息子の声に振り返ると、Tシャツから黒のシンプルなシャツに着替えた息子が立っていた。いつもより少しだけ大人びて見える。そのカジュアルなシャツの首元から、息子の鎖骨が覗いていて、私の視線は吸い寄せられるようにそこへ向かった。
「ええ、もう大丈夫よ。……って、あなた、そのシャツ、誰かと出かける時しか着ないんじゃなかった?」
私の口から、思わずそんな言葉が滑り出た。
息子は、目を瞬かせ、少しだけ驚いたような顔をした。普段、息子が友人と遊びに行く時は、もっとラフなTシャツ姿が多い。このシャツは、私と二人きりの時や、少し特別な場所へ行く時に着るもの、と息子が言っていたのを、私は知っている。
息子が、小さく息を吸い込んだのが分かった。
「……七恵さんと行くんだから、それなりにね。七恵さんも、可愛い服着てるじゃないか」
息子がそう言って、私のキャミワンピをじっと見つめた。
私の体全体が、息子の視線に包まれるような錯覚に陥る。それは、まるで私を「女性」として、しっかりと認識している証のようで、私の頬はさらに熱くなった。この場所で、この距離で、こんなやり取りができること。それは、罪悪感をも凌駕するほどの、甘い、甘い喜びだった。
「七恵さん、その服……似合ってるよ」
息子がそう言ったとき、私は息が止まりそうになった。
「え……?」
「あ、いや。なんか、夏っぽいっていうか……軽やかで、うん」
言葉を探してごまかすようなその声が、かえって真っ直ぐに心を突いてくる。
私は、何かを隠すようにリネンシャツの前をきゅっと留め直す。
鏡の前に座ったまま、唇にもう一度グロスを重ねて、目を伏せた。
「ありがとう。でも……ちょっと、背中が開いてて、派手かしらね」
「……別に。俺は、好きだけど」
その一言が、体の奥に落ちてきて、広がっていく。
脈が、さっきより明らかに早くなっているのを感じた。
私はゆっくり立ち上がって、かすかに揺れる裾を押さえながら、息子のほうへ向き直る。
「じゃあ……行きましょうか。冷やしきゅうり、食べたいな」
そう言った私の声も、どこか震えていた。
……息子は、私が母親じゃない瞬間を感じている。
それが嬉しくて、怖くて。
息子が私の隣に立つ。息子の腕が、すぐそこにある。触れるか触れないかの距離で、私の身体は微かに震えた。まるで初めてのデートに向かう少女のように、私は胸を高鳴らせていた。
河川敷へと続く小道は、想像以上に人でにぎわっていた。
風に乗って、ソースと醤油と焼けた油の混じる甘じょっぱい匂いが鼻をくすぐった。
どこか懐かしくて、胸がきゅう、とした。
「すごいね、人。意外と本格的だ」
息子が隣で言う。
私はうなずきながらも、どこか上の空だった。
人混みの中、息子と並んで歩く。
息子は私の一歩前を歩いては、すぐに振り返って私の歩調を確認してくれる。
その仕草が、どこか彼氏のようで……心がざわめいた。
……私たち、どう見えてるんだろう。
この歳の差、この距離感。
母と息子?それとも……。
視線を感じた気がして、私は思わず背筋を伸ばした。
風に揺れるキャミワンピの裾が、ふくらはぎをかすめる。
背中はシアーカーディガンで隠しているけれど、それでも人混みに揉まれるたびに、どこか心許ない。
若いカップルの女の子が、彼氏の腕にそっと寄りかかって笑っていた。
……私は、どこにいるの?
「ほら、あった。冷やしきゅうり、買ってくるよ」
息子が列に並んでくれる。
その姿を見て、私の中の女がまた、静かに目を覚ます。
数分後、氷の上に並べられた青々とした胡瓜を一本、串に刺したものを手渡された。
「どうぞ、お嬢さん」
息子がわざと芝居がかった口調で差し出す。
私は笑って、それを受け取った。
ひんやりした胡瓜を唇に近づけると、ほんのり塩が効いていて、体にすっと染み込んでいく。
カリ、とかじる音が、花火の音と重なって遠くで消えた。
「美味しいわ……」
口の端を拭おうとして、指でそっと唇の横をなぞったとき、ふと息子の視線を感じた。
「なに?」
私は少し照れて笑う。
息子はほんの一拍のあと、首を傾けて言った。
「……なんか、今の顔、ずるいなって思った」
「え?」
「その……楽しそうに食べてるとことか。可愛いっていうか、そういうの」
一瞬、時間が止まったような錯覚。
言葉の意味を咀嚼する前に、顔が熱を帯びた。
「やだ、からかわないで」
笑って返した声が、自分でも少し上ずっているのがわかる。
でも、嘘じゃない。
いま、私は母親としてじゃなく、女として笑っていた。
息子の目の奥が、それをちゃんと見ていた。
……もっと、見ていてほしい。
心の奥で、そんな声が小さく響いていた。
口には出せないけれど、今夜の風と、匂いと、光の中で、
少しずつ、形になりそうで、怖いくらいだった。
河川敷に近づくにつれ、人々の熱気が増していく。色とりどりの提灯が灯り、屋台からは香ばしい匂いが漂ってくる。手をつないで歩く親子連れ、肩を寄せ合う若いカップル……。誰もが夏の夜の祭りの雰囲気に浮かれている。
そんな雑踏の中、私はふと、私たち二人が周りからどう見えているのか、気になって仕方なかった。
隣を歩く息子の横顔を盗み見る。息子は、お祭りの雰囲気に少し興奮しているのか、目がきらきらと輝いていた。先ほど着替えた黒いシャツが、息子の肌の白さを際立たせ、いつもよりずっと大人びて見える。私の今日のキャミワンピとシアーカーディガンも、夜の灯りの下では、昼間とはまた違う、しっとりとした色気を帯びているかもしれない。
私たちは、親子。でも、傍から見たらどうだろう?
きっと、誰もが私たちを「少し年の離れたカップル」として見ているに違いない。そう思うと、私の胸の奥に、甘く、熱いものがこみ上げてきた。息子はもう大学生の立派な男だ。私がこんなに若々しい服装をしているのも、息子と並んで歩く時に、少しでも釣り合うようにという、無意識な願望なんだと思う。
浴衣姿の若いカップルが、楽しそうに笑いながら私たちの横を通り過ぎていく。彼らの目に、私と息子はどんな風に映ったのだろうか。あのカップルの未来の姿? あるいは、年の差恋愛を楽しむ、自由な大人たち? どちらにせよ、そこに「親子」という関係は読み取られないだろう。
そのことに、私はぞっとするほど喜びを感じていた。まるで、私の秘めたる願いが、現実の景色に溶け込んでいるかのような感覚。人々の視線が、私たちの「特別な関係」を肯定してくれているようで、私は密かに、そして深く、その状況に酔いしれていた。
「七恵さん、こっち」
息子の声に反応して振り向こうとした、そのとき。
ふいに、背後から息子の手が私の腰に添えられた。
驚きと、どこかくすぐったいような甘い動悸が、瞬時に胸に広がる。
思わず足を止めてしまった私に、息子は小さく笑って言った。
「流れに巻き込まれないように、ね」
……そんな理屈、いまはどうでもよかった。
ただ、その手のひらのぬくもりが……
私を誰かのもののように包んでいる感覚に、心がふるえた。
息子の身体がすぐ後ろにあって、肩と肩が時折触れ、私の首筋に、息子の体温がわずかに伝わってくる。
そして……香り。
少し汗を含んだTシャツの布越しに感じるその匂いは、子どもじゃなかった。
無防備で、でもどこか野生的で、思わず吸い込んでしまいそうな、男の匂い。
こんな場所じゃなければ、たぶん私は……
その匂いごと、息子に寄りかかってしまっていたかもしれない。
足元に小さな段差があって、ふらりとバランスを崩しそうになった私を、息子はさっと腕で受け止めてくれた。
「だいじょうぶ?」
「……うん、ごめんなさい」
そのまま息子の腕にそっとつかまる。
自然と、腕の内側に身を寄せるような形になっていた。
なんだろう、この感じ。
やっぱり彼女みたい。
甘えてもいい、守られていい、って……体が勝手にそう思ってしまっている。
「……人多いね」
私の声は、たぶん掠れていた。
「うん。でも……」
息子の手が、私の腰から離れないまま少し力がこもる。
「こうやって一緒にいられるの、悪くない」
その言葉に、胸の奥で何かが静かにほどけた気がした。
母親じゃなく、ただの女として、いま私はここにいる。
この人混みの中、誰もが私たちをどう見ようとも、息子の腕の中は、小さな楽園のようで、私は安心して、許されているような気持ちになる。
「ありがとう……ね」
そう言いながら、息子の腕にもう一度、そっと体重を預けた。
気づかれたくないこの心の震えが、
夜風に溶けて、どうか届きませんように――
でも、ほんの少しだけ、伝わってしまってもいいと思っていた。
「焼きそば食べたい、でしょ?」
焼きとうもろこしの匂いに紛れて、どこかでソースの香ばしい香りがした。
私が何気なくつぶやいたのを、息子が聞きとがめて目を細める。
「バレてるし。……じゃ、買ってこようか?」
「一緒に行くわ。ほら、列できてるし」
並んで焼きそばを受け取って、少し人混みを抜けた先――
提灯の光がぽつぽつと落ちる植え込みのそばに、空いたベンチを見つけた。
「座ろう?」
「うん、助かる……人酔いしそう」
ふたり並んで、紙皿から湯気の立つ焼きそばに割り箸を差し込む。
屋台のそれは、少し油が多くて、そしてなぜかいつも、豚肉が少ない。
「……あれ? 肉、これだけ?」
「それ思った。肉探しゲームだね、これ」
息子が笑いながら、細い肉片を箸でつまんでみせた。
「もう……今度、ちゃんと豚肉たっぷりで焼きそば作ってあげるわよ」
私はちょっとむくれたフリをしてそう言った。
「ほんと? やった。七恵さんの焼きそば、マジでうまいからなぁ」
「なによ急に……それ、ちゃんと録音しておこうかしら」
息子が笑って、私も笑った。
お祭りのざわめきから少しだけ距離を置いたこの場所が、まるで時間ごと切り取られたような、静かな空間に感じられる。
焼きそばを頬張る息子の横顔を、ちらりと見る。
うっすら光る喉元、浴衣ではなくシャツだからこそ浮き上がる、若い筋肉のライン。
思わず目を逸らした。
いけない、いけない。
だけど、もうずっと前から、
私はこの子にごはんを作るのは、母親としてでなく、恋人としてなんだと思う。
「……じゃあ、また今度作ってあげるわ」
けれど息子は、どこか少し照れたような顔で答えた。
「うん。……また」
ソースの匂いと、花火の音と、重なったその返事は、今夜の空気に、ゆっくり溶けていった。
焼きそばを食べ終えたあと、ちょっと待ってて……と、屋台に向かう息子。その背中を見ながら、やっぱり大きくなったな…と考えてしまう。
「はい、これ。チョコバナナあったから買ってきた」
差し出された串の先には、チョコがとろりとかかったバナナ。
カラースプレーがちょこんとのっていて、子ども向けのようで、でも……なんだか妙に、視線が気になった。
「えぇ……甘いのって……いまお腹いっぱいなんだけど」
そう言いながらも、渡されたものを拒めない。
「別腹でしょ、こういうのは」
そう言って笑う息子の顔が、どこか意地悪そうで。
なんとなく負けたくなくて、私は素直に受け取った。
「じゃあ……ひとくちだけね」
細長い串の先を、ちょっとだけ口元に近づける。口元に運んだ瞬間、甘い香りと、ふわっとしたチョコの匂いが鼻先をくすぐる。
細長いバナナの先端に、舌が触れた瞬間……息子の視線を感じた。
冷えたチョコレートの感触が指先に伝わる。口に近づけ、小さな一口。唇が、とろりと溶けたばかりのチョコレートに触れる。その甘さが、舌にじんわりと広がり、ねっとりとバナナの柔らかさが絡まる。息子の視線が、私の口元に注がれているのが分かる。 そのことに、身体の芯が熱くなるような、抗いがたい快感を覚えた。
「……そんな顔で食べると、ちょっとヤバいかも」
息子の言葉に、私はドキリとした。この、まるで恋人のような甘い言葉。そして、私を子供のように見守る息子の眼差し。その全てが、私の心を掴んで離さない。棒の先を少しだけ噛むようにして、また一口。無意識に、舌で唇に残ったチョコレートをそっと拭った。 この甘い時間は、どこまで続くのだろう。
息子が笑いながら、「ヤバいって」と、どこか目を逸らすようにして言った。
「え?なにが?」
わざと聞き返したくなる。
けれど私自身、今どんな顔をしていたのか想像がついてしまって、頬がほんのり熱くなるのがわかった。
そのまま、わざと舌先でチョコを掬う。
当然その舌使いは息子にも時折している口での奉仕の動き。
薄暗いけれど人通りがある場所で、チロチロと舌で先を刺激するように……そしてゆっくりと舐め上げ、パクッと咥えてみたりする。
通りすがりの人からは、単にチョコバナナを食べている風にしか見えないであろうが、人がいる場所でのその動作が背徳的でもあり、私は心の中でドキドキしていた。
当然その動きは、息子にとって床に膝をついて、見上げながら奉仕している私の舌先を想像しているに違いない。
息子のデニムの中で熱く硬くなっていることを想像するだけで、私自身が潤んできている気がした。
多分、今ショーツの内側は湿っている。
「うん?」
横目で初めて気が付いたような表情で息子を見る。
「なんでもない。……美味しそうだなって思っただけ」
その声が妙に低くて、くすぐったい。
それが甘い香りのチョコバナナのせいなのか、
それとも、私の表情のせいなのか――もう、わからない。
「じゃあ、これ、一緒に食べる?」
「いいよ。それ、結構溶けかけてるし…俺はこっち」
確かに唾液とバナナの粘着的な表面が妙にエロく見える。
息子は、そう言うと小さなりんご飴をぺろりと舐め上げた。息子のその舌の動きもわざとだろうか…ちょっとエロく見える。
「それも美味しそうね」
軽く笑ってチョコバナナのチョコを舐め上げた。
「……なによ、そんな顔して」
「いや……似合うな、と思って」
さらりとした声。
でも、どこか熱を帯びている。
そう感じてしまった私のほうが、もうダメだった。
「バナナが?それとも私が?」
冗談めかしてそう返したつもりなのに、
言葉が思ったより甘く、熱を帯びていた気がする。
息子は答えず、少し目をそらして笑った。
「……ちゃんと食べなきゃ溶けちゃうよ」
そう言われて、私はまたひとくち、口に含んだ。
花火の音が、ひとつ。
夜の空に弾けて、視界が一瞬だけまぶしくなる。
その光の中で、私は……息子の視線の熱と、手のひらの感覚を、いつまでも忘れられないでいた。
チョコバナナをひとくち、ふたくち。
少しずつ食べ進めながら、私は夜空を見上げていた。
音よりも先に光がひらいて、パッと色づく。
「わ……」
思わず口からこぼれた声は、
甘いチョコと一緒にどこかへ飛んでいったみたいだった。
串を持ったまま、口元にくわえたまま――
見上げていた私を、ふと隣で息子が見て、くすっと小さく笑った。
「……なによ」
視線を向けると、息子はほんの少し口の端をゆがめたまま、私の顔を見ている。
「いや……なんか、かわいいなって。マヌケだけど」
「……えっ。ひどい」
私は慌ててチョコバナナを口から離し、急いで口元をぬぐった。
頬が、わずかに熱い。
花火のせいなのか、息子の視線のせいなのか、それはもう、わからなかった。
「ほら、溶けてる。唇、チョコついてた」
息子がそう言いながら、そっと指でチョコを拭ってその指を舐めた。
「えっ……やだ、教えてよ……」
「言ったよ?今」
私の手からそっとチョコバナナを受け取ると、息子はそのまま一口かじった。
……それだけのことなのに。
なぜか心臓が、とくんと鳴る。
間接キスなんて言葉を思い出すのも、バカみたいだけど、やっぱり、胸の奥がざわつく。
どうせチョコを拭うなら直接、キスしてくれても良いのに……直接、その唇で拭ってくれたら……
私の欲望は、もはや抑えきれないほどに膨れ上がっていた。
口の中のチョコバナナの甘さが、別の甘さに変わっていく。
息子の視線が、私の唇を追っているような気がした。
その瞬間、ドォォォォン! と腹の底に響くような、大きな音が夜空を震わせた。
ほとんど反射的に、私たちは同時に空を見上げた。
夜空いっぱいに広がる、色とりどりの大輪の花。赤、青、金色の光が、私たちの視界を埋め尽くす。花火がパチパチと音を立てながら、夜の闇に消えていく。
見上げた空の下、私たちは繋がれたままの手を忘れ、ただ隣り合って立っていた。息子の横顔が、花火の光を受けて、幻想的に浮かび上がる。この非日常が、私たちの関係を、さらに特別なものへと高めているようだった。私の横で、息子もまた、花火の美しさに息を呑んでいる。この一瞬が、永遠に続いてほしい。そう、強く願った。
花火が、また上がった。
今度は大きな音で。
夜空に咲いた光の輪が、私たちのあいだの空気までも、明るく染めた。
花火がひとつ、またひとつ、夜空に咲いては散っていく。
そのたびに空がふわりと明るくなって、周りのざわめきさえ、ほんの少し遠のいた気がした。
さっきまで笑っていたはずなのに、ふたりのあいだに、ふと訪れた沈黙。
私は言葉を探さなかった。
息子も何も言わないまま、ただ隣に立っていた。
気づけば……そっと、肩に腕がまわされていた。
強くない。
ただ、守るように。
押しつけるのではなく、こちらが身を預けたくなるような、そんな力加減。
一瞬、息が詰まった。
でも、次の瞬間には私は、何の抵抗もなく、その腕に寄りかかっていた。
音もなく、胸の奥がとろけていくようだった。
どうして、こんなにも自然に……。
いや、自然すぎて怖いくらいだ。
息子の体温が、しっかりと背中越しに伝わる。
祭りのざわめきの中、私はまるで、誰にも見つからない場所で抱きしめられているような気持ちになっていた。
納涼祭……。
きっと、この空気のせいだ。
夜のにぎわい、光、音、夏の熱気、非日常。
「……人、多いね」
息子がぽつりとつぶやいた。
「うん……迷子になっちゃいそう」
私のその声に、息子の手が少しだけ強く、肩を引き寄せた。
迷子になったって、もういい。
この腕の中なら、それでも、いいのかもしれない。
続き↓
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