「私からは特にありません」——期待の星が発していた、見逃したサイン
頑張り屋で、どんな困難にも前向きに取り組んでいたH君が、少しずつ変わっていく姿を目の当たりにしながらも、彼の異変を早期に察知できなかった自分を、今でも後悔しています。
徐々に減っていった発言と、遅くなる出社時間
マネージャーのH君は、それまでの実績が評価され、将来の幹部候補として育成していく対象の一人でした。実際、上級管理職の研修の機会が与えられたり、社内横断のプロジェクトを任されたりして、評価に値する結果を着実に残していました。私は直属の上司として、彼の育成進捗を定期的に人事部にレポートしていました。順調だと思われていたのですが、今から思えば様々な異変が起こっていました。H君は会議中、積極的に発言し、議論の主導権を握りたがるタイプでしたが、徐々に発言が減っていきました。最初は、マネージャーとして自分を抑え、部下に意見を促すようになったのかと考えましたが、具体的に部下に発言の機会を与えるようなこともなく、自分のPCの画面を見つめていることが多くなりました。朝の出社時間に関しても、いつも8時頃にはオフィスで仕事をしている姿を見かけていましたが、徐々にその機会も減り、始業時間の9時ギリギリに姿を現すことが増えていきました。
「私からは特にありません」——2週連続の異変
決定的だったのが、毎週の1on1でした。いつもなら、こちらが促すまでもなく「ご相談したいことがありまして……」とH君からトピックが提供され、30分の時間をオーバーすることが多かったのですが、「私からは特にありません」と、2週連続で言われたときのことです。さすがに私は、どう言葉をかけようかと考える前に「最近、どうした?」と口から出ていました。彼の表情は強張り、話すかどうか躊躇しているように見えました。私はその間に耐えきれなくなり、「無理しなくてもいいよ。別の機会でも」と、その場を切り上げようとしたとき、彼がその重い口を開きました。「今後のことを色々考えていて……」「つまり、今後のキャリアのこと?」と、彼の言いたいことを代弁しながら、私の中で一気に緊張感が高まりました。それは典型的な退職のシグナルだったからです。彼の本音をすべて聞けたとは思いませんが、H君によると、会社から期待され、様々な機会を与えてもらえるのは有難いものの、逆にその期待に応えなければならないというプレッシャーが徐々に大きくなり、精神的に不安定になっているとのことでした。そして、自分のペースで仕事ができる機会を探しているとのことでした。
「信頼関係」だと思い込んでいたもの
正直、私はとてもショックを受けました。自分の後継者として育てていたはずなのに、逆にそれが心理的負担になっていたことに全く気付かなかったのです。ー毎週1on1をやっているから、時々、仕事上がりに「一杯だけ」と言いつつ、終電まで飲んでいたから、ー彼との信頼関係が築けていると思い込んでいたのです。でも、後からよくよく考えれば、1on1では時間の制約もあったので、彼の方から業務の進捗を聞いて、それに対してアドバイスすることがほとんどで、私の方から、彼の体調を気遣うようなことは一切ありませんでした。また、飲みに行っても、あくまでも仕事の延長の話ばかりで、お互い腹を割って話すことはなかったのです。H君の頑張り屋な性格から、悩んでいてもなかなか相談することはなかったかもしれません。しかし、私の方から歩み寄って、本音を引き出す努力をしてこなかったことが原因だと思います。社内の別部署への異動なども提案しましたが、真面目な彼は、会社からの期待を裏切ってしまったという気持ちを抱いたまま、同じ会社で働き続けるのは辛いということで、結局は転職の道を選んだのです。私は、将来の期待の星の異変を早めにキャッチできなかったことで、結果的に彼を手放すことになってしまったことを深く後悔しました。
双方の心に架かる橋
それ以来、私は自ら「うちの子供が反抗期でさあ」などと、あえてプライベートをさらけ出し、部下が心を開きやすい雰囲気をつくることを意識するようになりました。『だから僕たちは、組織を変えていける』(著者・斉藤徹)は、自己開示によって「この人は自分に不利益をもたらす存在ではない」という確信が生まれ、相互信頼が成立すると説いています。自己開示を通じて双方の脳の共感機能が働き、「双方の心に橋が架かる」——これがラポール(信頼関係)の正体だというのです。H君のような頑張り屋なタイプほど、自分から弱さを見せることは難しいのかもしれません。だからこそ、上司である私の方から先に心を開き、橋を架ける必要があったのです。あなたの周りにも、頑張り屋であるがゆえに声を上げられずにいる誰かがいるかもしれません。
