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花火大会と「ひまわり」。たぶん夏の終わり

「夏が終わり、ひまわりが枯れただけなんだ...。」


何やら言いたげなので、少し話を聞くことにした。


「いや、ちょっと花火大会がさ...。」




小さなコミュニティの中で自然に生まれていた「お祭り」が、規模を拡大し、実行委員会が組織され、花火大会のように「見せるもの」「集客するもの」へと変質していく過程。

そして、その過程でアテンションを求め、商業的な消費の回路に取り込まれていくか、あるいは規模を維持できずに消えていくか。



創作も、まさに同じ構造を抱えているように見える。もともと創作は、誰かに認められるためでも、大きくなるためでもなく、ただ「ここにいる人たちと、何かを共有したい」「自分の中にあるものを外に出したい」という、小さな循環から始まっていたはずと考えるわけで。



それが「創作という神話」ーー特別な才能を持つ者が、特別な場で、特別なものを生み出すーーという物語として膨らみ、産業化し、アテンションを燃料にして巨大化した。



それがこれからも続くのだろうか。そんな神話は揺らいでいないか。
AIが量産を可能にしたことで、神話の前提だった「希少性」や「特別さ」が相対化されつつあるのではないか。今度は、希少性という情報すらプロデュースして続けるつもりなのだろうか、それじゃインフォメーションを眺めてるだけである。


もう、巨大な花火大会のような構造は維持しにくくなっている。お祭りで街が「金もうけ」しか考えないのなら、その市民も金もうけしか考えない、そんな誰かを食わせるためだけの「お祭り」なんて誰が付き合うというのだ。


そもそも創作なんてものは、「飲食店のようなシンプルな経済」と「家庭菜園のような趣味性」の間に揺らぐ程度のものでよかったのではないかとすら思い始めている。


飲食店的なもの。

日々の生活の中で、必要とされ、対価を得て、続けられる規模の経済。大きくなることを目的とせず、「ここで食べてもらえる」「近所だから通う」という関係性の中で循環する。


家庭菜園的なもの。

誰かに評価されることを第一にせず、ただ自分が育てたいから育てる。できたものを近しい人と分け合うこともあるけれど、基本は自分の生活の一部として存在する。


どちらも「大きな花火大会」になることを目指してない。

むしろ、大きくなろうとしないことで、継続可能であり続けたのではないか。創作という神話が「いつまでも続くのか」という問いに対して、こう考える。大きな神話であるほどもう続きにくいのではないか。なぜなら継続させるためにすらコストがかかるように設計されてきたからだ。


特別な才能が特別なものを生み出し、大衆の注目を集め、商業的に成功するーーという物語は、もうすでに機能不全を起こし始めていないか。

「あの人の作るものが好きだから」「自分も何か作りたいから」という、ごく個人的で、関係性に根ざした物語は消えにくい。むしろこれからは、大きな神話が後退する分だけ、小さな循環の価値が相対的に上がっていく可能性がある。いや、そこに「価値」なんてもなくてもいいよ。そこら中にあるベランダのプランターで十分じゃないか?


近所の飲食店のように、生活の一部として成立させること。

家庭菜園のように、評価や規模を目的とせず、ただ作ること。


それは「創作の終わり」なんかではなく、創作が再び「生活に近い場所」に戻っていく過程なのだと思う。大きな花火大会をただ眺めるか、消えていくのを見るか、ではなく、自分の庭で何かを育て、近所の人と分け合うような規模で創作を続けていく。またはそれを受け取り楽しむ。その選択が、今の時代においては、むしろ最も持続可能で、神話めいたものにならない形の「答え」の一つなのだと思う。


でもやはり、個人一人の力で花火大会は到底運営なんてできないし、大勢の力を集めたものの素晴らしさというものを見た事があるから一概に大きなものを否定はできない。ただ、大きなものも小さなものも揃って注目を集めることにしか興味がないのであれば、『別に』となっているだけで。



運だけではない。才能のある人が更に努力し、また、たくさんの人が力を合わせて時間をかけ成し遂げるものは、すぐに消費されないし、時間をかけて評価されることもたくさん見てきたつもりだし、そういうものに影響を受けて育ってきた。



それにさ、


「子どもの頃は、自分の街の花火大会がどんだけの規模ですごいのかとかたぶん全然知らなかったんだよ。どこが三大花火かってわかんなかったし、夏になると勝手にあがるもんだと思ってたくらいだよ。」


「でもすごく楽しかった。ワクワクしながら自転車こいで河川敷に行って、打ちあがる花火を見上げた。花火のフラッシュが照らし出すみんなのどこか楽しそうな顔。音で地面が響くんだよ。」


「あの頃、オーディエンスも今より自由だった。今は、柵に跨って腰掛けて見てたら警備員に降ろされるし、誰かのスマホで晒されるんだろう?花火を背景にして素敵な写真を撮りたいんだろ?」


そういうと彼は、何かをペッと吐き出した。

ひまわりの種の殻だった。


彼はもう「枯れたひまわり」なんだと私は思った。


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