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愛は個別的な物語のメタファー

見終わってしまったNetflix『ボーイフレンド2』。
様々な背景を持つボーイズたちが交差する番組で、印象に残ったのはフーウェイが放った言葉だった。

「愛ってなにって考えたときに個別的な物語のメタファーだなと思っちゃう。愛という言葉によって正当化されるものは世界中にあるが、誰もそれを批判できない。でもその中で愛と愛がぶつかり合うことで争いが起きている。自分が嬉しい悲しいと思うものの全ての中に、愛が含まれている。」

「愛は個別的な物語のメタファー」

フーウェイのこの考えは、私たちが普段口にしている「愛」という概念を揺さぶるものだった。


愛の裏にあるもの

私たちは「愛」という言葉を、あたかも唯一無二の正解が存在するかのように使用する。
しかしその実態は一つの「比喩(メタファー)」に過ぎない。

その実態は、一人ひとりが歩んできた「個別的な物語」つまり、その人が過去に何に傷つき、何を喜び、どんな環境でどのように自己を形成してきたかという、リアルな経験の集積ということではないだろうか。

例えば、
寂しい思いをして育った人の愛は「常にそばにいること」かもしれない。
束縛に苦しんだ人の愛は「自由にさせてあげること」かもしれない。

本来、一人ひとりまったく違う色や形をしているはずの感情を、私たちは「愛」というたった二文字の便利なラベルでひとまとめにし、一つの共通な概念であるかのように錯覚している。


愛という名の「正義」

愛の「実態」がその人の物語であるならば、それは自ずとその人の「正義」や「価値観」と同義になると考えられる。
私たちは「愛」をロマンチックで特別な、キラキラしたものだと思いがちだが、甘美で至高な理想ではない。
それはもっと泥臭く、執着的で、個人の「こうあるべきだ」というこだわりに基づいたもの。

「愛しているからこそ、こうしてあげたい(=これが正しい)」
「愛があるならば、こうするべきだ(=これが正義だ)」

そう思った瞬間、愛は単なる優しさではなく、他者への介入を正当化する「正義」へと変わる。


なぜ「愛」が争いになるのか

「愛があれば平和になる」という期待は、この「正義としての愛」の前では通用しなくなる。

争いは「善と悪」の間で起きるのではなく

「Aさんの正義(愛)」と「Bさんの正義(愛)」が、それぞれの物語を背負ったままぶつかることで生じるのだ。

「あなたのためを思って」という言葉が、受け手にとっては自分の物語を否定する「押し付け」に感じられてしまう。双方が「自分は正しい(愛がある)」と信じているからこそ、衝突が起き、歩み寄るのが難しくなる。

特別なものではない

フーウェイの言葉は、愛をあまりに美化しすぎてきた私たちへの静かな示唆であり、同時に一種の救いのように感じた。

愛を特別なものではなく、「その人が日々を懸命に生きる中で形づくられた人生観」と捉え直すことができれば、私たちの視界はもっと穏やかなものになるはずだ。

だれかと分かり合えないと感じる時、それは「愛が足りない」のではく、ただ、「互いが大切にしている物語が、今はちがっているだけ」という捉え方ができるのではないだろうか。

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