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【短編小説】意地悪をひとふり

↓この小説はこちらのストーリーの続編です。

日焼け止め、やっぱ、もう塗った方がいいのかな。

大きな銀色の車の運転席におさまる島くんの薄い色のサングラス姿を見ながら、私はリュックの中の冷たいスプレー缶に触れた。待ち合わせに指定されたスーパーの店舗に沿って、車のスピードはどんどん緩む。

おはよう。
手を振る私が声に出さず口をぱくぱくさせると、車はそのまま店舗に沿って角を曲がった。

私の少し先でキッ、と音を立てて停まった車を追いかけると、島くんは助手席を指差して促した。朝7時のスーパーの駐車場は、まだロープで区切られている。私は扉を開け、どこか懐かしいシルエットのその車へと身体を滑り込ませた。
ドアを内側から引くと、バン、という重たい音が響く。それを心地良さそうに聞きながら、島くんはドリンクホルダーの缶コーヒーを一口飲み込んだ。

「よし。じゃ、行くか」

私はリュックを膝に置きなおし、シートベルトを掴んだ。カーラジオからは、ザラザラとした音で交通情報が流れている。10年も住めば流石に少しは首都圏の地名にも慣れてきたが、古い民話にでも出てきそうな「美女木」の響きに私はついふふふと笑みを漏らしてしまう。

「何が面白いんだ、変な奴」

彼はあくびをしながら、寝癖のついた頭をぽりぽりと掻いた。

「うちのお父さんも、昔はこういうのに乗ってた。今はなんか、もう一回り小さいのに変えたけど」
「コンパクトカーか。うちの親父もそんな感じ」

古い車の匂いを嗅ぎながら、つぶつぶしたグレーの樹脂が覆う内装を私は指でなぞった。

家族でドライブに出かけると、はしゃいだ私は運転席と助手席の間から顔を出そうとしてよく叱られていた。母の膝の上のバッグから取り出されたチョコレートを食べる間だけはおとなしく窓の外を眺めて…でもまたすぐに飽きて、何度も、まだ?と父に問いかけた。

私は、ぐう、と大きな音を鳴らした自分の腹につい手を当てた。
「ねぇ、おやつ食べていい?」
リュックのジッパーを開きながら島くんに尋ねてみる。
「こぼすなよ」
そう、前を向いたまま彼はぶっきらぼうに答えた。
さっそく、私は開封済みのファミリーパックの包装をゴソゴソと探る。ウエハースにチョコが挟まれた菓子の包みを慎重に破り、こぼさないよう一度に口に入れる。

「まだあるなら、あとで一個くれ」

サクサクという咀嚼音を聞いて、彼はそう呟いた。

「混んでるみたいだし、下道から行くか。別に急ぎでもないしな」

ぼそっとそう口にした島くんは、ちらりと横目で私を見た。
「座席の位置、前過ぎるな。あとでどっか停まった時にでも直すか」

なるほど、言われてみれば私は、島くんより確かに前方に押しやられるように座っている。

「でも、別にいいよ。苦しくないし、やり方分かんないから」

「…じゃ、後でやってやるから」

島くんは、迷いのない様子で車を操っている。後付けしたらしいカーナビはあるものの、特に何の設定もされていないようだ。家族みんなで、かつては恋人と、あるいは一人で。きっと何度も通った道なのだろう。

私は、電車の広々とした窓から眺める風景も、タクシーの車窓が切り取る景色も、どれも好きだった。特に、郊外の街が途切れてはまた現れる様子は、地図や路線図の中に生きている幾万もの人の存在の確かさを私に感じさせた。

「車の助手席に乗せてもらったのなんて、久しぶり」

私は、エアコン周りや古めかしいカーラジオ、シガーソケットを撫で、たたまれていたドリンクホルダーを起こした。リュックから小さな水筒を取り出し、一口中の温かい麦茶を飲んでからそこへしまう。

「最近、実家帰ってないからな」
一息つくと、そう私は続けた。島くんは黙って前だけを見ていた。

実際のところ、私が助手席に乗せてもらった記憶は、帰省した時の父の車のものしかなかった。学生時代の同級生の車で一度数人でドライブしたときは後部座席だったし、日枝くんとはいつも電車、たまにタクシーでしか移動していなかった。

景色はどんどん移り変わり、大きな橋を車は渡ってゆく。

「釣りの人、早起きだね」
「そうだな」

何ということもない会話と、ざらついたカーラジオの音。それだけで、何の不足もない。私は満ち足りていた。

向こう側から、まだ頭の方が重たそうな自転車の子供たちが野球のユニフォーム姿で走り去ってゆく。背中に刺さったバットを左右に揺らすその群れのしんがりは、コーチか保護者だろうか。

「こんなに朝早くから、試合するんだね。あんな小さい子たちが」
私は島くんを覗き込んだ。
「昔、ああいうのやってた?」
目線を、一瞬私の顔に移して彼はまた前を向く。

「野球じゃなくて、サッカー。結構頑張ってた。今は、たまーに甥っ子の相手、してるよ」
「へぇ、島くん甥っ子と遊んだりするんだ」
ほとんど運動らしい運動をしてこなかった私が、もし子供の相手などしたらすぐに倒れてしまうだろう。
ナビの現在地にふと目をやると、車は、しばらく真っ直ぐな道を進み続けるようだった。

「そろそろ、一回停まるか。あそこのコンビニな」

彼は、スピードを徐々に緩めた。

「じゃ、ついでにトイレ行っとく。ガムとか要る?」
私が尋ねると、
「一番強い、ブラックガムな」
島くんはそう答え、大きく伸びをした。
自動扉とチャイムに出迎えられた私は、まずトイレを済ませると小さなカゴを手にした。

ブラックガム、それと…、コーヒーはどうしようかな。まだ要らないかな。

私は、ちいさなのど飴のパックとボトルのガムを選んでレジに差し出した。そっと広々とした駐車場に目をやると、島くんが助手席のドアを開けてなにやらあれこれ直している様子が伺えた。

会計を済ませ小さな袋を手に戻ると、彼は運転席でまた一口コーヒーを飲んでいた。

「はい、これ。ガム。あ、チョコも今食べる?」
助手席の扉を開け、私はガムのボトルをカーラジオの真ん前のスペースに置くと座席に乗り込んだ。
膝を伸ばせる足元のスペース。そして島くんとの距離の近さを、私の膝と右腕が感じ取る。

「…座席、直してくれたんだね。ありがと」

「おお」

短くそう言うと、彼は私が差し出したチョコウエハースを受け取って包みを破り、食べ始めた。

ラジオから流れる気象情報が、今日一日の晴天を晴れやかに告げている。
《…まさに、ドライブ日和ですね。…》
流れ出したいかにも古そうな曲に耳を傾けると、ボンネットやらダッシュボードという歌詞がやたらと目立つ。

《…最近の若者は車離れしてる、なんて言いますが、我々世代はやっぱりドライブばっかりしてましたよね、デートといえば、必ずドライブ…》

年配らしい司会者のそんなトークが流れる中、私たちは互いの飲み物や食べ物だけを見つめ、口に運んだ。水筒の中の麦茶は徐々に温んでいた。
「じゃ、また出発だ」

少しの沈黙の後、彼は首の後ろを指圧のように指で押すと、ガムを口に放り込みシートベルトを再び締めた。私も水筒の蓋を閉めて慌ててシートベルトを締め直し、リュックを抱き抱えた。

スピードに乗って、車はどんどん進む。店が、住宅が減り、その代わりを埋めるように現れた大きな工場や緑の木々が、車窓に流れる。空は青く、陽射しは私たちの膝を温めた。

「この辺から、カーブが多いんだ。安全運転で行くからな」
真剣な眼差しで前を向いている島くんに、私は黙って頷いた。
「…別に、黙ってなくていいって」
彼はふっと力を抜いた笑い声を立てた。
「そうだよね、なんか、つい。…ねえ、この先になんかお店あったら入ってみる?」

私は、スマートフォンをリュックから取り出して地図アプリを開いた。

「コーヒーカップのマークがあるよ。15キロ、道なりに行った先だって」

「ふーん、…そんなのあったかな。じゃ、行ってみるか」

私が地図を見せるより、ざっくりした案内の方がよほど良さそうだな。

そう感じて、私はその店で軽食を出していることと今現在営業中であることだけを確かめ、またリュックにスマートフォンをしまった。

「…今日、どんくらい混んでるかな。さっきの交通情報の感じだと大したことなさそうだな」

「ねぇ、この辺は道路も電車みたいだよね。円になってたり、いくつも交差しててさ」
私はふと、ナビの小さな画面を眺めて呟いた。
「私の田舎の方なんて、一個の太い線が走ってるだけだよ。電車も車も。ちょこっと分岐してるだけでさ」

私の言葉に、彼は頷いた。
「そうだよな、ちょっと東京から離れると…全然、違う景色で、同じようで違う人たちが住んでる」
続く対向車に注意を払うように彼は少しスピードを緩めた。

「自分が当たり前だと思ってたもんが通用しないって、面白いけど不安だよな」

かつての赴任地を思い出しているのだろうか。彼は目を細めた。

確か中国地方だったかな。島くんが一時期、初めて「地元」を離れて赴任したのは。私はテレビで見る穏やかな海や、地図上で山並みに追い立てられるように広がる平地の面積の少なさに、自分の故郷とも首都圏とも違う文化を想像したものだ。

「…あ、これ。この看板か?ちょっとも一回確かめといて」

カフェのものらしき立て看板が、ひたすら続きそうな山道の景色に突然現れた。私はスマートフォンを再び取り出し、画面上の店名とそれが同じであることを確かめた。

「もう少しみたいだね。あと、…2km、左側」

ラジオの音声は電波状況のせいか、車自体の老朽化のせいか、途切れ途切れになっていた。ざ、ざ、ざっと不規則なノイズが車内に響くのを聞き、島くんはそっとスイッチを捻ってその電源を落とした。

「そろそろ、ステレオだけは交換するかと思ってたんだ。まぁ、ナビに携帯繋げばいいんだけど」

エンジン音だけを低く響かせながら、車は私たちを運ぶ。
やがて洒落た雰囲気のカフェの看板がフロントガラスの左側に姿を現すと、島くんはスピードを緩めた。

「駐車場、狭いな」
自転車とバイクが数台と、ピカピカの海外製らしき車が一台。その隣のスペースへ、彼は慎重に車を収めた。

「今日は私が奢るから。好きなの頼んでよ」
私は、ラミネートされたメニュー表を島くんに差し出した。レジの列には、一組のカップルが並んで、オーナーと思しき男性と談笑しながら注文をしている。

「…あったかいコーヒーと、…んー、なんか腹に溜まりそうなやつ。このサンドイッチでいいかな」
私は投げやりな言葉を聞きながら自分もメニュー表を眺め、途端に島くんと同じ投げやりな気分になった。
コーヒー豆の名前と、製法に関する豆知識が並び、どこを見るべきかわからない。

隅の方に記載された、本日のコーヒーと、本日のサンドイッチ。これを二つずつ。それでいこう。

私は、空いた列へと進んだ。島くんは、席を確保するから代わりに頼む、とばかりに店内の奥へと進んでしまった。

「…本日のコーヒー、と、本日のサンドイッチ二つずつ。お願いします」
いかにも玄人といった風体の店主に、私は指を差しながら注文を述べた。

「はい、…コーヒーはプアオーバーとフレンチプレス、どちらに」
「…」
私はつい、黙ってしまった。

どこにも、そんなこと書いてなかったじゃん。

しかし、ここまで来たからには私にもほんの少しだけ意地があった。わからないことを質問するだけの図太さも。

「プアオーバーって何ですか。詳しくなくて。教えてください」
私は満面の笑みを作り、店主に尋ねた。

「あ、はい。いわゆるドリップです。フレンチプレスはこの器具を使って…」

…静かに、私は達成感に浸りながら告げた。
「ふぅん、そうなんですか。ありがとうございます。じゃ、プアオーバー。二つとも」
しかし、まだ終わらない。
「…サンドイッチが、申し訳ありませんが終わってしまって…」

私は満面の笑みをもう一度、作り直した。
「このケーキ一つ。以上で」

小気味良くボサノバのようなBGMの流れる店内。スツールに腰を下ろして眉をおかしなくらい上げてニヤニヤとこちらを見ている島くんを、私は睨み返した。

私は、特段怒ってはいなかったが、睨みをきかせたまま彼の隣のスツールに腰を下ろした。

「もう…人が困ってんの、笑って見てるんだから」
「…ごめん、…ははっ…お前に任せて、正解だったよ。俺、あんな素直に聞けねぇもん。サンドイッチ無かったらじゃあいいよって、店出てるし」

「だいたいなんだよ。ドリップコーヒーって書いてくれれば分かったのに」
ふくれた私の顔を、彼は満足そうに眺め、すぐに愉快そうにからかった。
「外面いいな、ヨリコは」

ヨリコ。

島くんがそう呼んだのを聞いて、私は反射的に顔を彼に向けそうになった。しかし、そうはせずに、そのまま手元のまだ温かいレシートを見つめていた。


ホンジツコーヒー 750×2
フルーツパウンド 550×1


私と島くんは、コーヒーを待つ間、黙って道路を行き交う車と、駐車場で待機する自転車、バイク、コンパクトカー、そして私たちを運ぶ役目を静かに待っている銀色の車を見つめていた。

「お待たせしました」
柔らかな声と共に運ばれてきたコーヒーとケーキが、静かに木のカウンターテーブルに置かれる。

「あれ、これ…頼んでない、です」
私は、小さな可愛らしいレモン色のアイシングがかかったケーキを指差した。
「こちら、新商品なんです。良かったら、どうぞお試しください。瀬戸内産のレモンをたっぷり使ったケーキです」

私は目を輝かせた。

「ぜひ次はサンドイッチ、食べてくださいね」

そう言い残すと、店主はにこやかに、バックヤードへと消えていった。

「かわいい、おいしそう…嬉しいな」

私がにこにことコーヒーをトレイから自分の前へ移すと、彼はビニールに包まれた小さなケーキを手のひらに載せた。

「きっと、…お前の愛想が良かったからだな」
そう笑いながら彼はビニールを丁寧に開ける。
「お、…いい香り」

島くんは皿の上のパウンドケーキの隣にレモンケーキを載せ、小さなフォークでそっと二つに割った。よく見ると、アイシングの上には、丁寧に削られたレモンの皮が飾られている。

「おいしい。ここのコーヒー」
私がカップを一度置くと、彼はフォークで刺したレモンケーキをちょうど口に入れたところだった。彼の表情で、そのおいしさやかつて暮らした土地を懐かしんでいるのがなんとなく私にも伝わってきた。
「私も、食べよ」
フォークをその香ばしい色の柔らかな生地へと突き立て、口へと運ぶ。レモンの香りと酸味が、いっぱいに口へと広がる。小さなそのケーキはすぐに消えてしまったが、鮮烈な香りは強く私たちの口の中で主張し続けている。

「広島にいた時のこと、たびたび思い出してるけど…やっぱ、食い物は特別だな」
しばらくレモンの残り香を味わうように間をおいてから、少し冷めたコーヒーを口にして島くんがそう呟いた。

「土産は何にでも、レモン味があってさ。俺、自炊できないままだったけど、丸のままのレモン、上司の親戚からもらったりして、家で絞ってた。たまに車借りて、レモンの木が植えてあるあたりをバーっと走ったりな」

「へぇ…。いつか私も行ってみたいな。大阪までしか、まだ行ったことないの。西側」

私は青い海と黄色いレモンの組み合わせを目に浮かべてうっとりした。

「しんどいこともあったけど、やっぱ行って良かったよ。俺、地元しかほとんど知らなかったしな。いつか、また行きたいと思ってる」

私は、フルーツパウンドを半分、そしてさらに半分にカットし、1/4を口に運んだ。濃いシナモンと洋酒の香り、そしてそれらをしっかり含んだフルーツの歯触りが、レモンの香りを塗り替えてゆく。
また一口含んだコーヒーは、今度は別な飲み物のように憂いを帯びた味わいに変わった。

「…飲み終わったら、また出発するか」

島くんは、ケーキを一気に半分口に放り、コーヒーを一口含んで言った。
自転車の数はいつの間にか減り、店内には熱い議論を交わすバイク乗り2人とおしゃれなカップルがそれぞれの世界に没頭していた。

「そうだね。今日、湖まで行くの?」
私は最後の一口を啜った。
「ん…天気もいいし、混雑も大丈夫そうだしな。行ってみよう」

私たちは、ゆっくりと立ち上がった。
太陽はますます眩しく、私たちは走り出す前にそれぞれ一枚ずつ上着を脱いで後部座席に放った。

「なんか、スマホで適当に流してよ」
エンジンをかけながら島くんが私に声をかけた。
「んー、じゃ、ちょっと待って…」
私は、シートベルトを締めると小さな画面をしばし操作した。
《90〜00年代J-POPドライブMIX》
そう書かれたアイコンをタップして、私は音量を上げる。子供の頃聞いた曲、そして、全然知らない曲。私たち2人がまだ互いを知らない頃のヒット曲たちが、車内に次々と流れてゆき、2人とも知っている部分だけを歌った。

時々、これ好きー、うわ、まじで?俺苦手だったわ、とか、これドライブ関係なくない?とか。そんな軽口を叩きながら。

「お、そろそろだな」

視界が開け、緑の木々の影からきらきらと輝く湖面が顔を出した。

「わぁ…」

私は、その風景に目を奪われた。反射する光のひとつひとつが大切な宝石のように美しいのに、惜しげもなく太陽と湖はそれを何度も作っては消している。

島くんも、ちらりとその景色に目を向けてすぐまた視線を元に戻した。
「よし…じゃ駐車場空いてたらそこに停めるから」

湖畔の賑わいを横目に少しだけ車を走らせながら、彼は注意深く前方を見やった。目論見通り、目的の駐車場はまだ空いているようだ。車は滑らかに、そのスペースへと滑り込む。

「お疲れさま、ありがとう」
「おう」

私たちは車を降りると、湖畔の公園へ歩き出した。日差しは強いが、湖畔からの風は少しひんやりとしている。

「なんかさ、ボート乗り場あったよね」
「乗りたいか?」
「うん、ちょっとだけ」
「少し腹減ったな」

話しているうちに、箱型のボートがいくつも繋がれたボート乗り場に私たちは辿り着いた。どうやら、足漕ぎ式らしい。

先客は、ダブルデートらしい若者4人組。二手に分かれて、湖へと散ってゆく。
そして、大きなカメラを抱えた中年男性と、ひらひらふわふわとした真っ白なワンピースの女性の2人連れ。女性の広げている大きな日傘が大きな影をつくる。塗っていない日焼け止めのことを私はふと思い出し、リュックの上からスプレーボトルを撫でた。
女性に向けて男性は幾度もシャッターを切る。乗る前に3ポーズ、乗ってから2ポーズ、漕ぎ始めて5ポーズ。ボートが準備されるまでの時間、つい私はそれをカウントしてしまった。

「はい、次の方」
案内された私たちは、繋がれたボートを揺らさないようそっと乗り込む。さっきまでとは反対に、私が右側に乗っている。
「いってらっしゃい、気をつけて」

ボート乗り場のおじさんに見送られ、私たちは出航した。
すぐさま、直前のカメラマンと白い衣装の女性を追い越すように、島くんはスピードを上げた。するとまもなく、彼らは岸に向かって戻り始めるのが見えた。

「写真撮るためだけに、借りてんのか。…すげぇな」
「なんか…妙な雰囲気だったね」
私たちは顔を見合わせてつい笑った。

「よーし、俺らは端までたどり着いてやるか」
島くんは、船体を掴むとやたらに足をガシャガシャと動かした。
「無理だよ、何言ってんの」
私もそう言いながら、出鱈目に足を動かした。

バシャ、バシャと飛沫をあげてボートは進んだ。いい雰囲気でゆったりと進むカップルたちが、異様な水音に振り返っても、私たちははしゃぎ続けた。
「あー、もう、無理。足動かない…」
私がくたくたになって動きを止めると、いい年の2人が、ムキになって漕いだボートがぐんとカーブする。

「…はー、俺も疲れた」

島くんもその足を一度止めると、ボートの中には静かな水音だけが響いた。キラキラとした光が、ボートの天井に反射している。土産物売り場や公園が、だいぶ遠ざかっている。観光客はまるで米粒のように小さい。

「そろそろ戻るか。…明日、筋肉痛かもな」
私は、「たしかに」と呟いて、デニムを履いた自分の太腿とふくらはぎをさすった。明日目が覚めたら、起き上がれなかったりして。

しかしそれを想像した私は、なぜか愉快だった。微笑みながらぼうっと向こう岸を眺める私の膝を、軽く島くんが叩いた。
「ほれ、ヨリコも漕げ。サボるなよ」
「…筋肉量がある人が、いっぱい漕ぐべきなんじゃないの」
「はいはい」
私は再び足をガシャガシャと、先程の半分にも満たないスピードで動かした。

ボートは、ぐねぐねと何度もおかしなカーブを描きながら岸に近づいた。
あのカップルたちはとっくに上陸しているようで、他のボートの姿はもうない。

「なあ」

小さな呼びかけに、私は彼の方へ顔を向ける。動力を失ったボートが揺れる。
まっすぐ私を見据えている、島くんの瞳がただそこにあった。

「また、来ような」

少しの沈黙のあと、彼はまた前を向いてボートを漕ぎ始めた。

彼が見たかどうかは分からないが、私は首を縦に振った。そして、彼の半分のスピードで足を動かした。
もう岸は目の前だった。

ボートから降りた私たちは、すでに予定を決めていたかのような足取りで、車通りの多い道に沿って歩き出した。2人とも、少し右手に見慣れたマークのファミレスがあるのを見逃していなかったようだ。
競うように店内に入ると、私はグラタン、島くんはミックスフライ定食を注文した。

「やっぱ、小さいケーキだけじゃ足りねぇな」
「…おしゃれな人は、胃が小さくできてんのかな」
「ばーか」

私たちは、午後の柔らかな光が注ぐボックス席で互いに「いつか」の提案を頭に浮かべながら湖面を見つめた。
時々、こっそりと声に出さずに「ばーか」と呟きながら。


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