「有名だから好き」は、本当に自分の感性なのか?
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第9回で、このシリーズを終えるつもりだった。最後に考えたのは、「美しいと感じる瞬間に、人は何を見ているのか」という問いだった。そこまで考えて、どうしても一つだけ残った問いがある。私たちが「好きだ」と感じているものは、本当に自分自身が選んだものなのだろうか。
美術館で「この絵、好きだな」と思ったことがあるだろう。では、その「好き」は、いつから始まったのだろう。
たとえばゴッホの《ひまわり》を見る。鮮やかな黄色、厚い絵具、独特の筆触。その画面そのものに惹かれているのかもしれない。けれど、私たちは《ひまわり》を見る前から、「ゴッホ」という名前を知っている。生前は評価されなかったこと、弟テオが支えたこと、精神的な苦悩の中で絵を描いたこと、死後に世界的な画家になったことも知っているかもしれない。つまり私たちは、絵だけを見ているわけではない。絵の周りに積み重なった物語まで含めて、その絵を見ている。
これはゴッホだけの話ではない。ピカソなら「20世紀を代表する巨匠」というイメージがついてくる。ダ・ヴィンチなら「万能の天才」という物語がついてくる。モネなら「印象派」という美術史上の位置づけがついてくる。作品を見る前に、その作品について知っていることが、すでに私たちの見方を準備している。
しかも、その準備は美術館に入る前から始まっている。学校の教科書で見たことがある。テレビで紹介されていた。美術館のポスターで何度も目にした。SNSで誰かが「人生で一度は見るべき名画」と紹介していた。そうやって何度も目にしているうちに、作品は「知らないもの」から「知っているもの」へ変わっていく。そして実物を見たとき、「やっぱりこの絵が好きだ」と感じる。
実際、美術作品への好みと「見慣れていること」の関係は研究されている。ただし、「何度も見れば見るほど好きになる」という単純な話ではない。2021年のSong、Kwak、Kimによる研究では、親しみと新奇性への選好は、作品の内容や視覚的な複雑さ、見る人の美術経験などによって変化することが示されている。つまり、過去に何を見てきたかは好みに関係しうるが、その影響は作品と鑑賞者の条件によって変わる。
ここで重要なのは、「だからあなたの感性は偽物だ」という話ではない。むしろ、もっと厄介なことが分かってくる。私たちの感性は、自分だけで作ったものではない。
私たちは、自分の「好き」を自分自身の内側から自然に湧いてきたものだと思いがちだ。しかし実際には、これまで見てきたもの、教えられてきたもの、繰り返し目にしてきたもの、誰かに薦められたもの、そして社会の中で「価値がある」とされてきたものが、少しずつ自分の判断に入り込んでいる。
たとえば、ほとんど知られていない画家の作品を見て「好きだ」と感じたとする。そのとき、私たちは比較的素直に「自分はこの絵が好きなのだ」と思うことができる。しかし、同じ絵に「ゴッホ作」と書かれていたらどうだろう。「19世紀を代表する作品」と説明されていたらどうだろう。さらに、その作品が美術史上きわめて重要な作品だと知ったら、私たちの見方は本当にまったく変わらないだろうか。
ここには、興味深い研究がある。2024年に『Scientific Reports』に掲載されたKaubeとAbdel Rahmanの研究では、同じ絵画について、作者に関する否定的な伝記情報を与えられた場合、作品の好ましさや品質評価が低下し、感情的な反応も強くなった。また、その影響は有名な画家と無名の画家の双方で確認された。ここで大切なのは、この研究が「有名な画家だから好きになる」ことを証明したわけではないということだ。むしろ逆に、作品そのものとは別に与えられた作者についての情報が、作品の知覚や評価に入り込むことを示している。
考えてみれば、これは当たり前のことなのかもしれない。私たちは作品を真空の中で見ているわけではないからだ。
美術館の壁に掛かっている作品には、作者名があり、作品名があり、制作年があり、時代背景がある。ときには価格や評価までついている。その情報をすべて消して、ただ画面だけを見せたとしたら、同じような感想になるとは限らない。私たちが「作品を見ている」と思っているとき、実際には作品と、それを取り巻く環境を同時に見ているのである。
ここで、第1回のピカソの話がつながってくる。あのとき考えたのは、ピカソが売っていたのは絵だけではなく、「ピカソ」という神話そのものだったのではないか、ということだった。作品に神話がまとわりつけば、私たちは作品を見ると同時に、その神話を見る。そして、その神話が「この作品には価値がある」という感覚を支える。
第7回で考えたSNSの問題も、ここにつながる。SNSによって私たちの審美眼が似てきているのではないか、という問題を考えた。しかし、もっと根本にあるのは、SNSが新しく私たちの感性を作っていることだけではない。私たちはもともと、自分の「好き」がどのように作られているのかを、あまり意識していない。SNSは、その仕組みを極端な形で見せているだけなのかもしれない。
もちろん、SNSだけを悪者にすることはできない。美術館も、学校も、美術史も、批評も、市場も、それぞれの方法で「何を見るか」を決めてきた。私たちは世界に存在するすべての作品を見ることはできない。だから、誰かが選び、残し、展示し、紹介したものを通して、美術を見ることになる。
つまり、「自分の感性」とは、最初から完全に自分だけのものとして存在しているわけではない。では、「本当の自分の感性」を探せばいいのか。私は、そうは思わない。そんな純粋な感性が、どこかに存在するとも思わないからだ。
むしろ重要なのは、自分の感性が何によって作られてきたのかを知ったうえで、それでも何を好きになるのか、ということだ。たとえば、ゴッホが好きなのは、ゴッホだからなのかもしれない。それでもいい。ただ、「ゴッホだから好きなのかもしれない」と知っている人は、次に美術館へ行ったとき、ゴッホではない画家にも目を向けることができる。「名画だから見よう」と思っていた人が、誰も知らない作品の前で立ち止まることもできる。「印象派が好き」と思っていた人が、印象派とはまったく違う絵に惹かれることもある。
自分の感性がどこから来たのかを知ることは、感性を否定することではない。自分が次に何を見るかを、自分で選び直せるようにすることなのだ。
感性は完全に自由ではない。しかし、完全に決められているわけでもない。私たちは、これまで見てきたものの影響を受けながら、次に何を見るかを選ぶことができる。その「次に何を見るか」が、また自分の感性を変えていく。
美術館へ行く意味も、ここで少し変わってくる。有名な作品を見るためだけではない。自分が何に反応する人間なのかを知るためでもある。そして、ときには自分の予想を裏切る作品に出会うためでもある。「これは名画だから好きなはずだ」と思っていた作品に何も感じないことがある。「こんな作品のどこがいいのだろう」と思っていた作品が、数年後には気になって仕方なくなることもある。その変化は、感性が固定されたものではなく、見てきたものによって更新され続けるものだからこそ起こる。
美術を見るということは、作品を理解することだけではない。自分自身が、どのように世界を見ているのかを知ることでもある。自分の「好き」がどこから来たのかを知ったとき、初めてその先を選ぶ余地が生まれる。
「私はこの絵が好きだ」と思ったとき、その理由を考えてみる。色なのか、形なのか、記憶なのか、物語なのか、それとも単に何度も見てきたからなのか。答えがすぐに出なくてもいい。大切なのは、理由を決めることではない。自分の「好き」が、これまで見てきた世界の中で作られてきたものだと知ることだ。そのことが分かれば、私たちは「好き」を運命のように受け入れるのではなく、次に何を見るかを選ぶことができる。
そして、次に見るものが変われば、感性もまた変わっていく。
あなたが今日「好きだ」と思ったその作品は、本当に今日、あなた自身が見つけたものだろうか。
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