夢と現実のあわいを満たす『ゴルトベルク変奏曲』
懐かしい人の夢を見て、夜中にハッと目が覚めた。
あまりにもリアルで、自分が今どこにいるのか一瞬わからなくなる。
寝ぼけまなこで辺りを見回し、安堵とも失望ともつかないため息をついた。
「夢だったんだ」
外はまだ闇に包まれている。
ブーン。カチャリ。
新聞配達の人が忙しく働いている音が聞こえる。
やがてバイクの音は遠ざかり、あたりはまたシーンと静まり返った。
ベッドから抜け出し、ソファの端に座って、さっきまで見ていた夢を思い返す。
目尻の下がった優しい顔、耳元に残る穏やかな話し声。
その一つ一つが脳裏に浮かぶたび、冷たい現実が足元から這い上がってくる。
「そっか、もう会えないんだ」
そのことに、いまさらながら打ちのめされた。
「もう一度、寝ようかな」
そう思い、ベッドに戻ったものの、次から次へと巡る思いは、なかなか静まってくれない。
こんな時に聴きたくなるのは、バッハの『ゴルトベルク変奏曲』
眠れない長い夜、「気分が晴れる曲を」と願った伯爵のために奏でられたという。
その旋律は、時を超えて今、わたしの迷子のような気持ちも落ち着かせてくれるような気がした。
夜の闇に、ぽつり、ぽつりと灯るようなピアノの旋律だけが、夢と現実のあわいを満たしていった。
ところが──
その柔らかな調べのなかに、何かのノイズが混じる。
ジージリジリ……。
「ん?これは耳鳴りだろうか」
音の正体を確かめるべく、ベッドから起き上がり、窓辺に歩み寄る。
外はいくらか明るくなりかけているが、空は分厚い雲に覆われて薄暗い。
気づけば、小鳥たちのオーケストラが賑やかに始まっていた。
懐かしいあの人は、鳥が好きだった。
散歩のたびに、「あれはシジュウカラ」「あっちはハクセキレイ」と、うれしそうに名前を教えてくれた。
だから、鳥のさえずりを聞くたび、わたしの中では優しい思い出も一緒に目を覚ます。

だが、そのさえずりの隙間を縫うように、相変わらずあの音が混じる。
ジージリジリ……。
そこでようやく気づいた。
アブラゼミの声!
今年、初めて耳にした。
耳鳴りではなかったことに、大いに安堵した。
雨を孕んだ雲の下はまだ少し肌寒い。
体を温めるものが欲しくなる。
いつもなら、迷わずコーヒーを淹れるところだ。
ところが、暫く前から流行っている謎の風邪をひいてからは、あんなに好きだったコーヒーを、不思議と身体が求めなくなった。
代わりに、温かい紅茶を淹れよう。
そう思い立ち、キッチンへ向かう。
たしか、いただき物の紅茶があったはず。
棚の奥を探ると、見覚えのあるオレンジ色のパッケージが顔をのぞかせた。
ラベルには「COOKIE」の文字。
封を開けると、香ばしい焼き菓子の香りが、ふんわりと鼻腔をくすぐる。
小鍋で茶葉を煮出し、たっぷりの牛乳を注ぐ。
縁がフツフツしてきたところでシナモンパウダーをひとふりし、マグカップに注ぐ。
またたく間に、キッチンが甘い香りに包まれた。

両手で包んだマグカップはこんなに温かいのに、胸の奥の冷えはなかなか取れない。
大切な人を亡くしてぽっかり空いた穴。
この所在なさと、会いたい気持ちは、きっとこれからも変わらない。
それでも、世界はわたしを、そのまま悲しみの中に置き去りにしたりはしない。
カップから立ち上る湯気を眺めながら、少しずつ明るくなっていく窓の外を見ていた。
湿り気を含んだ空気が、肌にやさしく触れる。
ふいに、遠くで犬が吠える。
「散歩に行こう!早く早く」と飼い主を急かす声。
その無垢なワクワク感が、わたしの足にまとわりついていた仄暗い靄を、ふっと遠ざけてくれるような気がした。
弾むような鳥たちの声も、波立っていた気持ちを丸くしてくれる。
あの日、教わった小さな歌い手たちを、明けていく空に見つけながら、この朝の続きを、今日も生きていこうと思う。
キッチンで、自作の「唐揚げの歌」を口ずさむわたしの横を、配偶者が笑いを噛み殺しながら通り過ぎる。
一瞬後、思い出したように、またアブラゼミが鳴き始めた。
夏は、もうすぐそこまで来ている。
