私たちは、本当に同じ世界を見ているのか?――『ホムンクルス』『ドラゴンボール』『呪術廻戦』『鬼滅の刃』『銃夢』『MIDNIGHT EYE ゴクウ』『ARMS』から考える、「見る」ということ | 第18夜 オーディンとの対話

PROLOGUE
同じものを見ている。
私はずっと、そう思っていた。
目の前に赤いリンゴがある。
私にも赤く見える。
隣にいる人も、
「赤いリンゴだ」
と言う。
だったら、私たちは同じものを見ている。
当たり前だと思っていた。
でも、本当にそうなのだろうか。
私が見ている「赤」と、あなたが見ている「赤」は、本当に同じなのか。
確かめる方法はない。
そして考えていくうちに、もっと大きな疑問が生まれた。
そもそも私たちは、
何をもって「見た」と言っているのだろう。
目に光が入ることなのか。
脳が認識することなのか。
意味が分かることなのか。
その先に何が起きるか予測できることなのか。
同じものを見ても、
経験した人には見えるものがある。
努力した人だから見えるものがある。
逆に経験しているからこそ、見えなくなるものもある。
さらに人は、
見たいものを見る。
探しているものを見つける。
望んでいる未来によって、現在の中から拾い上げるものまで変わる。
だとしたら――
「見る」という行為の中には、過去だけでなく、未来まで入っているのではないか。
今回は「見る」にダイブしてみたい。

1 同じ言葉すら、同じものには見えない
たとえば誰かに、
「もういいよ」
と言われたとする。
文字にすれば、たった五文字だ。
でも、その意味は一つではない。
「もう十分だよ」
なのかもしれない。
「許すよ」
なのかもしれない。
「もう諦めた」
かもしれない。
あるいは、
「もう二度と話したくない」
かもしれない。
どの意味に聞こえるかは、
どんな表情だったか。
どんな声だったか。
その前に何を話していたか。
そして何より、
その人と自分が、これまでどんな関係を作ってきたか
によって変わる。
同じ言葉を聞いている。
でも、同じ言葉を受け取ってはいない。
人間は「今」だけを使って今を見ているわけではない。
過去の記憶を連れて、現在を見ている。
だから私はこう考えた。
人間は世界を見てから解釈しているのではなく、解釈しながら世界を見ているのではないか。

2 『ホムンクルス』――人は本当に化け物に見えるのか
山本英夫の『ホムンクルス』では、名越進という男に、人間が異形の姿として見えるようになる。
もちろん作品の中では、非常に異様な現象として描かれる。
けれど今回、私はこれを「特殊能力」としてだけ考えないことにした。
もしかすると名越が見ているものは、
私たちが日常的にやっていることの極端な可視化
なのではないか。
一度裏切られた相手を見る。
以前と同じ顔をしている。
でも、もう同じ顔には見えない。
嫌いな人の笑顔は、
「何か企んでいる」
ように見えることがある。
逆に好きな人なら、
同じような表情でも、
「優しい」
と感じるかもしれない。
相手の顔が変わったわけではない。
変わったのは、
見る側だ。
私たちは、
顔だけを見ているのではない。
表情。
記憶。
感情。
過去。
信頼。
恐怖。
偏見。
期待。
それらを全部混ぜて、
「この人」
を見ている。
だったら名越に見える異形は、
その人そのものではなく、
「その人 × 名越」
によって生まれた姿なのかもしれない。
そして、もう一つ考えた。
なぜ名越には、それほど深いところまで見えるのか。
もしかすると、
名越自身が大きく歪んでいたからではないか。
劣等感を知っている人だから、他人の劣等感が見える。
孤独を知っている人だから、笑顔の奥にある孤独が見える。
もちろん、それが正しいとは限らない。
自分の傷を相手に投影しているだけかもしれない。
ここが重要だ。
深く見えることと、正しく見えることは同じではない。
それでも一つ言える。
他人を見るということは、同時に自分を見ることでもある。

3 強くなったからこそ、絶望が見えた
『ドラゴンボール』のベジータを考えてみる。
地球での戦い。
ナメック星での戦い。
ベジータは驚異的な速度で強くなっていく。
ところが、強くなったからこそ見えてしまうものがある。
フリーザとの、
絶対的な差だ。
弱すぎれば、その差さえ分からない。
山を遠くから見れば、
「大きな山だな」
で終わる。
でも実際に登り始める。
何時間も歩く。
苦しくなる。
ようやく少し登ったと思って上を見る。
そこで初めて、
「まだ、あんなにあるのか」
と分かる。
自分が登ったからこそ、山の高さが分かる。
だから、
相手の強さを本当に知ること自体、その相手の実力を認識できる場所まで近づいた証拠なのかもしれない。
努力したから見える。
経験したから見える。
失敗したから見える。
逆もある。
『呪術廻戦』の漏瑚は、五条悟という存在を自分の物差しで測ろうとする。
しかし、その物差しそのものが通用しないほど相手が外側にいたらどうなるのか。
見えている。
知っている。
それでも、
測れていない。
人間にとって恐ろしいのは、
「見えないこと」だけではない。
見えていると思っているために、見えていないことに気づけないこと
なのかもしれない。

4 プロには、何が見えているのか
ここで現実へ戻りたい。
掃除を仕事にしているプロが、同僚を自分と同じレベルまで育てたいとする。
汚れている場所を二つ用意する。
片方を同僚が掃除する。
もう片方をプロが掃除する。
終わったあと、並べて比較する。
残った汚れ。
仕上がり。
そして、かかった時間。
同僚はそれまで、
「綺麗になった」
と思っていたかもしれない。
ところが比較すると、
「あれ?」
となる。
昨日まで存在していなかった汚れが、突然出現したわけではない。
最初からそこにあった。
ただ、
見えていなかった。
そして一度その違いが見えるようになると、次から自分で気づき始める。
つまり上達とは、
できることが増えるだけではない。
見えるものの種類が増えることでもある。
初心者には、
「汚い/綺麗」
しかなかった世界が、
汚れの種類。
場所。
原因。
道具。
順番。
時間。
仕上がり。
再び汚れる可能性。
へと分解されていく。
世界そのものは変わっていない。
世界を見る解像度が変わった。

5 型とは、「見る目」を作る装置なのか
ここから武術の「型」を考えてみたい。
なぜ同じ動作を何百回、何千回と繰り返すのだろう。
身体に覚え込ませるため。
もちろん、それもある。
でも、もう一つあるのではないか。
同じものを繰り返すことで、昨日までは見えなかった「差」が見えるようになる。
最初は、
手をこう動かす。
足をここへ置く。
それだけだった。
繰り返していくと、
重心。
脱力。
呼吸。
距離。
タイミング。
身体の連動。
相手との関係。
が見えてくる。
型は変わっていない。
変わったのは自分だ。
だから、
型とは、変わらないものを置くことで、変わっていく自分を観測する装置なのかもしれない。
ジャッキー・チェンの『酔拳』や『蛇拳』の動きを、テレビで子供たちが真似する場面を見ても面白い。
本人たちは一生懸命コピーしている。
でも完全には同じにならない。
単に身体能力が足りないだけではない。
そもそも、
プロと同じものが見えていない。
子供には「ふらふらして殴る」に見える。
熟練者には、
重心移動、脱力、タイミング、足運び、腰と肩の連動、間合い、フェイントまで見える。
だから、
見えていないものは、真似することさえできない。
そして成長の途中には、苦しい瞬間がある。
違いは見えるようになった。
でも、身体ができない。
昨日までは、
「できている」
と思えた。
今日は、
「できていない」
ことが見えてしまう。
しかし、それは退化ではない。
むしろ、
「できる」の少し前に、「見える」がやって来た
のかもしれない。
ベジータがフリーザとの絶望的な差を見られるようになったのと、どこか似ている。

6 上手い人と、教えられる人は違う
私はスキーの指導員資格を取る過程で、忘れられない経験をした。
初心者に見せるためのボーゲンを滑った。
自分では綺麗に滑れているつもりだった。
ところが評価は、
「違う」
だった。
私は知らないうちに、初心者にはまだ使えない技術を使っていた。
脚部の回旋など、自分にとっては自然になっていた動作が入ってしまう。
求められていたのは、それを使わず、荷重とスキー板のたわみなど、その段階の初心者が理解し再現できる要素でターンすることだった。
これが難しかった。
今なら理由が分かる。
完成形を見せることと、見本を見せることは違う。
上級者は、たくさんの技術を無意識に使う。
初心者には、その内部構造が見えない。
だから優れた指導者は、
自分ができることを全部見せるのではなく、
相手が今持っている能力だけで再現できる世界まで、自分から降りていかなければならない。
つまり本当に教えることができる人は、
技術が見えるだけでは足りない。
相手に「何が見えていないか」まで見えている。
「見る」は、ここまで広がる。

7 型破りは、型の外側が見えた人にしかできない
「型破り」という言葉がある。
型を知らずに好き勝手やることとは違う。
型を学ぶ。
繰り返す。
違いが見える。
なぜその型なのかが分かる。
そしてやがて、
型が通用しない場所まで見えてくる。
そこで初めて、
型を破る意味が生まれる。
だから、
型を学ぶことは、自由を失うことではない。
自由に選べる範囲を増やすことなのかもしれない。
「木を見て森を見ず」も同じだ。
木を見る能力と、森を見る能力は違う。
初心者には木しか見えない。
経験すると木の細部が見える。
さらに経験すると、木と木の関係が見える。
最後にもう一度、森を見る。
最初に見た森と、最後に見た森。
同じ森だ。
でも、
同じ世界ではない。

8 スーパーサイヤ人のバーゲンセール
『ドラゴンボール』には、これを考えるうえで象徴的な世代差がある。
悟空がスーパーサイヤ人へ到達する。
ベジータは凄まじい努力を重ね、それでも届かず、自分自身への激しい感情の果てに変身へ至る。
ところが次の世代では、悟天やトランクスが驚くほど自然にスーパーサイヤ人になる。
ベジータの、
「スーパーサイヤ人のバーゲンセールだな……」
という感覚が面白い。
ここでは作品内の設定とは分けて、ひとつの思考実験として考えてみたい。
悟空やベジータにとって、
スーパーサイヤ人は、
「本当に存在するのか?」
から始まる。
悟天やトランクスにとっては違う。
生まれたときから、
「人はスーパーサイヤ人になれる」
という世界にいる。
一世代目が命懸けで発見した可能性が、
次の世代には最初から選択肢として存在する。
これは現実でも起こっている。
先人が何年もかけて発見した技術を、次の世代は教科書で学ぶ。
先人が何度も失敗して作った道を、私たちは歩くだけで進める。
先人の到達点が、次世代の出発点になる。
でも、そこには逆の問題もある。
簡単にできてしまったものは、
「なぜできるのか」
を深く考えないことがある。
悟空、ベジータ、悟飯は、スーパーサイヤ人という状態そのものをさらに使い、鍛え、その先を探していく。
これを「型」として読むなら、
型を知る。
型を使う。
型を極める。
型の限界を見る。
そして、
型の外へ行く。
だから「遊びに師なし」という言葉も面白い。
努力によって見えるようになるものがある。
しかし遊ぶ人は、
「これをやったらどうなる?」
と、まだ誰も見ていないところまで手を伸ばす。
努力とは、
見えなかったものを見えるようにすること。
遊びとは、
まだ存在するかどうかさえ分からないものを探しに行くこと。
そこから新しい型が生まれるのかもしれない。

9 彼岸朱眼――一秒の中に、どれだけの世界があるのか
『鬼滅の刃』の栗花落カナヲには、「花の呼吸 終ノ型・彼岸朱眼」がある。
動体視力を極端な領域まで引き上げ、相手の動きを非常に細かく捉える一方、目には大きな負担がかかる。
ここで重要なのは、
世界そのものの時間が遅くなったわけではない
ということだ。
変わったのは、
見る側だ。
初心者には、
「速い!」
で終わる動き。
経験者には、
踏み込みが見える。
重心移動が見える。
予備動作が見える。
達人には、そのさらに前兆が見える。
同じ一秒。
でも、その一秒から取り出している情報量が違う。
だとしたら、
同じ時間を生きているからといって、同じ時間を見ているとは限らない。
そして彼岸朱眼には代償がある。
ここも面白い。
見えることは、必ずしも幸福ではない。
ベジータは強くなったから絶望的な差が見えた。
名越には、人の異形が見えてしまう。
プロには、素人なら気にならない欠点が見える。
解像度が上がるということは、
世界が美しくなることではない。
美しさも、醜さも、凄さも、絶望も、以前より鮮明になる。

10 複眼――たくさん見えれば、世界は分かるのか
『銃夢 Last Order』の絶火には、複眼を思わせる特徴的な眼がある。
ここではその細かな能力設定を断定するのではなく、「複数の視点」という象徴として考えてみたい。
視点が増えれば、世界は正しく見えるのか。
必ずしもそうではない。
カメラを十台に増やしても、
十台分の映像を理解できなければ、ただ情報が増えただけだ。
見る能力には、
入力する。
違いを見つける。
必要なものを選ぶ。
意味を与える。
統合する。
という段階がある。
プロが凄いのは、
すべてを見ているからではない。
むしろ、
何を見るべきで、何を捨てていいかを知っている。
だから視野が広いことと、
世界を正しく理解していることは同じではない。
「木をたくさん見ること」と、
「森を見ること」は違う。

11 ゴクウの神の目――人間には見えない世界を見る
寺沢武一の『MIDNIGHT EYE ゴクウ』。
ゴクウの左目にある「神の目」は、「見る」という行為をさらに広げてくれる。
ここではもう、
目の前の物理世界を見るだけではない。
ネットワークやコンピュータを介し、
普通の人間には直接見えない情報世界へアクセスする。
現代の私たちも、すでに小さな「神の目」を持ち始めている。
スマートフォンだ。
目の前に店がある。
肉眼で見れば、ただの店だ。
しかしスマートフォンを開けば、
営業時間。
地図。
口コミ。
写真。
価格。
さまざまな情報が重なる。
さらにAIが加わる。
「これは何?」
と聞けば、目の前にあるものについて、自分が知らない情報まで引き出せる。
すると「見る」の問題は、
どれだけ情報を得られるか、
だけではなくなる。
何を見るのか。
何を探すのか。
何を問うのか。
情報が無限に近づくほど、
「見る方向を決める力」が重要になる。
すべてを見ることは、
何も見ていないことに近づく可能性さえある。

12 バロールの魔眼――現実との誤差を見る
『ARMS』のキース・バイオレット。
その「バロールの魔眼」から考えたいのは、
現実と認識の誤差
という問題だ。
私たちは現在を完全にそのまま捉えているわけではない。
目から情報を受け取り、
脳が処理し、
過去の経験と照合し、
次に何が起こるか予測しながら動いている。
スポーツなら分かりやすい。
速いボールを、
「ここに来た」
と確認してから動いたのでは遅い。
相手の姿勢。
肩。
腰。
視線。
これまでの傾向。
そこから、
「ここへ来る」
を読む。
熟練者が見ているものには、
観測だけでなく予測まで含まれている。
しかし予測は外れる。
経験が豊富だからこそ、
「これはこうなる」
と思い込むこともある。
だから重要なのは、
予測能力だけではない。
自分の予測と現実がズレた瞬間に、その誤差へ気づくこと。
科学もそうだ。
仮説を立てる。
観測する。
違う結果が出る。
そこで都合の悪いデータを捨てるのか。
それとも、
「なぜ違った?」
と考えるのか。
誤差は失敗ではない。
まだ見えていない何かがあることを教えてくれる。

13 結局、見ているのは脳だった
ここまで「目」の話をしてきた。
でも本当に重要なのは、眼球だけではない。
目は外界から情報を受け取る。
しかし私たちが経験する「見えている世界」は、脳の処理を経ている。
輪郭。
色。
動き。
奥行き。
注意。
記憶。
知識。
感情。
予測。
それらが統合されて、
「私が見ている世界」
が生まれる。
だから、
目に入っているものと、脳が見ているものは同じではない。
初心者とプロが同じ滑りを見る。
網膜に入る光は大きく変わらない。
でも初心者には、
「上手い」
と見える。
プロには、
「ここで荷重が変わった」
と見える。
指導者にはさらに、
「この動きは初心者には再現できない」
と見える。
違うのは、
世界から何を取り出せる脳なのか。
だから経験とは、単なる過去の記録ではない。
経験とは、現在を見るための目なのかもしれない。

14 人は、見たいものを見る
しかし脳は、過去だけから現在を見ているわけではない。
未来も現在の見え方に入り込んでくる。
たとえば、
「赤い車を探してください」
と言われる。
それまで気にならなかった赤い車が、急に目につく。
赤い車が増えたわけではない。
自分が探し始めた。
家を買おうと思えば住宅広告が目につく。
転職を考えれば求人情報が気になる。
何かを始めようと思えば、それに成功した人が目につく。
人は、
探しているものを見つける。
だから、
未来に何を求めているかによって、
現在から拾い上げる情報まで変わる。
ここには希望もある。
「できる方法はないか」
と探す人には、
昨日まで見えなかった方法が見えることがある。
でも危険もある。
「絶対にこの人は信用できない」
と思えば、
信用できない証拠ばかり探す。
「自分の考えが正しい」
と思えば、
都合のいい情報ばかり拾う。
これは確証バイアスにもつながる。
だから必要なのは、
見たいものを見る力
だけではない。
見たくないものを見る力
でもある。
望む未来を見る。
同時に、
現実との誤差を見る。
この二つが必要なのだと思う。

15 未来は、「見る」ところから選び始めている
ここで私は気づいた。
選択とは、
「右へ行くか、左へ行くか」
を決めた瞬間から始まるのではないのかもしれない。
その前に、
何を見つけようとしたか
がある。
見たい未来がある。
その未来につながるものを探す。
情報を見つける。
意味を与える。
行動する。
結果が変わる。
だから、
見る → 意味を与える → 選ぶ → 行動する → 未来
となる。
超常的に「願えば宇宙が未来を与えてくれる」と言う必要はない。
未来を思い描くことで注意が変わり、
注意が変われば選択が変わり、
選択が変われば未来の確率は変わる。
つまり、
未来は、選択した瞬間から始まるのではない。
その未来につながるものを「見つけよう」とした瞬間から、すでに選択は始まっているのかもしれない。

16 現実にも「4次元的に見る人」がいる
ここで少し思考を飛ばしてみる。
もし4次元的な存在がいて、
時間を点の連続ではなく、
過去から未来まで含めた一つの形として見ることができたらどうなるのか。
私たちは、
過去を記憶し、
今を生き、
未来を想像する。
でも時間全体を一つとして見られる存在なら、
誕生。
出会い。
選択。
失敗。
後悔。
成長。
死。
それらを別々の出来事ではなく、
一人の人間という時間的な形
として見るのかもしれない。
もちろん現実の人間に、未来そのものを見る能力があるという話ではない。
それでも、
4次元的に「見る」ことに近い人
はいる。
経験者だ。
初心者は、
「今、問題が起きている」
を見る。
経験者は、
「なぜ今こうなったのか」
を見る。
さらに、
「このまま進めば、次にこうなる」
まで考える。
現在という一点の中に、
過去の原因と未来の結果を見る。
掃除のプロなら、
汚れだけでなく、
「なぜここが汚れたか」
「この方法ならまた汚れる」
まで見る。
指導者なら、
現在のフォームだけでなく、
「この癖を放置したら、この先どこで困るか」
まで見る。
つまり熟練者には、
時間が見えている。
予知ではない。
経験によって、点と点が線として見えるようになったのだ。

17 点を見る、線を見る、分岐を見る
では、その先はどうなるのだろう。
初心者は、
点を見る。
経験者は、
点と点をつないで線を見る。
達人は、
線の先を見る。
さらに優れた指導者は、
複数の線を見る。
「このままなら、こうなる」
だけではない。
「ここを変えれば、こちらへ行ける」
「別の方法なら、こうなる」
「今はこれを教えない方がいい」
と考える。
一本道だった未来が、
未来A
/
過去───現在──未来B
\
未来C
へ変わる。
ここで、私が書いている物語『メビウスの蓮』の世界観ともつながった。
3次元的な私たちは、
今という点を生きる。
4次元的な存在なら、
一つの時間全体を線として見る。
しかし『メビウスの蓮』では、
時間は一本ではない。
選択によって分岐し、
選ばなかった可能性もあり、
別れたものがどこかで近づき、
似た選択が繰り返され、
時にはループする。
それは一本の線というより、
可能性そのものが作る構造
なのかもしれない。
物理学上の「5次元」と断定する話ではない。
これはあくまで、私たちが考えている思考モデルだ。
それでも面白い。
人間は完全な高次元存在ではない。
けれど経験と想像力によって、
今という点から少しだけ離れ、線や分岐を眺めることができる。
もしかすると、
昔から「知恵」と呼ばれてきたものの一部は、
こういう能力なのかもしれない。

18 それでも、私たちは同じ世界を見ていない
ここで最初の問いへ戻ろう。
私たちは、本当に同じ世界を見ているのか?
たぶん、
完全に同じ世界を見ることは難しい。
同じ情報を持つ。
同じ知識を持つ。
同じ経験をする。
同じ角度から観察する。
同じものに注意を向ける。
同じ感情を持つ。
同じ関係性を持つ。
同じ未来を望む。
そこまで一致して、
ようやくかなり近い世界を見ることができる。
でも、もしそこまで全部同じなら――
それは本当に「別の人間」なのだろうか。

19 誤差が、未来を作る
ここで最後に、考えが反転した。
これまで私は、
認識と現実との誤差を小さくすること
が、「見る目を育てる」ことだと思っていた。
それは間違っていない。
現実との誤差は修正した方がいい。
自分ではできていると思っている。
でも実際にはできていない。
相手は弱いと思っている。
でも実際には圧倒的に強い。
自分の理論は正しいと思っている。
でも観測結果が違う。
その誤差から目を背ければ、
世界ではなく、自分の思い込みを見ることになる。
しかし、
人と人との誤差
まで消す必要があるのだろうか。
同じ山を見る。
一人は、
「登りたい」
と思う。
一人は、
「美しい」
と思う。
一人は、
「危険だ」
と思う。
一人は、
「なぜこんな地形になった?」
と思う。
一人は、
「ここに道を作れないか?」
と思う。
山は一つ。
でも、見え方が違う。
だから、
登山が生まれる。
芸術が生まれる。
安全技術が生まれる。
科学が生まれる。
新しい道が生まれる。
もし全員が完全に同じものを見て、
同じ意味を与え、
同じ答えを出したら、
未来は一つになってしまう。
だとしたら、
人間同士の「誤差」は、不完全さであると同時に、可能性なのではないか。

EPILOGUE
赤いリンゴを見ている。
私は赤いと言う。
あなたも赤いと言う。
それでも、
私とあなたが同じ赤を見ているかは分からない。
以前なら、それを人間の限界だと思った。
でも今は少し違う。
同じものを違って見るから、
「なぜ?」
が生まれる。
「私は違うと思う」
が生まれる。
「こうしたらどうなる?」
が生まれる。
型を学ぶ。
違いが見える。
型を極める。
型の外側が見える。
経験を積む。
過去が見える。
未来を考える。
線が見える。
さらに想像する。
別の線が見える。
そして選ぶ。
その選択が、また新しい未来を作る。
だから私たちに必要なのは、
全員が同じ世界を見ることではないのかもしれない。
世界との誤差は、できるだけ小さくする。
しかし、
他者との誤差は、無理に消さない。
私には見えないものを、あなたが見ている。
あなたには見えないものを、私が見ている。
だから人は、
教える。
学ぶ。
比べる。
話す。
物語を作る。
そして、ときには誰も見ていなかった場所を見る。
もしかすると個性とは、
世界と違うことではない。
同じ世界から、他の誰かとは少し違うものを見つけることなのかもしれない。
私たちは同じ世界を見ていない。
それは人間の不完全さであると同時に、
人間の可能性でもある。
そして――
未来は、選んだ瞬間に初めて分かれるのではない。
その未来につながる何かを、
「見つけよう」
とした瞬間から、
すでに分かれ始めているのかもしれない。
世界には、まだ見えていないものがある。
では、それは本当に存在しないのだろうか。
それとも――
まだ、私に見る目がないだけなのだろうか。
⸻
想像から、創造を。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
同じ文章を読んでも、私とあなたが見つけるものは、きっと少しずつ違います。
でも、その「違い」こそが、新しい問いや物語を生み出すのかもしれません。
第18夜を読んで、
「自分にも、こんなふうに見えている世界がある」
と少しでも感じていただけたなら、スキで教えてください。
その一つが、私とオーディンに、まだ見えていない次の世界を探す力を与えてくれます。
