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最強に幸せになる方法

幸せになるって、実はとても簡単なことなのかもしれない


幸せになるために必要なのは、


何か大きな夢をかなえることでも、

誰かに特別に愛されることでも、

何もかも思いどおりにすることでもないのかもしれない。


幸せのハードルを下げること。


それが、いちばん強くて、

いちばん簡単な幸せのつくり方なのではないかと思った。


ドイツでは、水が高い。


場所にもよるけれど、レストランに入っても、水は無料では出てこない。


水を一杯飲むために、3〜5ユーロほど払うこともある。


日本では、レストランに入れば、何も言わなくても冷たい水が出てくる。


今までの私は、それを「幸せ」だと思ったことなどなかった。


水が出てくるのは当たり前。


蛇口をひねれば水が流れることも、

喉が渇いたときに水を飲めることも、


すべて普通のことだと思っていた。


けれど、ドイツに来て気づいた。


ただで水を飲めるって、

本当は、ものすごく幸せなことだったんだな。


私たちは、手に入らないものには敏感なのに、

すでに持っているものには、驚くほど鈍感になる。


足りないものなら、すぐに見つけられる。


愛されていない。


お金が足りない。


若くない。


夢がかなっていない。


あの人のようになれていない。


けれど、すでにあるものは、

いつの間にか風景の一部になってしまう。


眠る場所があること。


今日もご飯を食べられたこと。


自分の足で歩けたこと。


誰かが笑ってくれたこと。


それらは、人生を劇的に変えるような出来事ではない。


誰かに自慢できるものでもない。


けれど、本当は人生というものは、

そういう小さな出来事の積み重ねなのだと思う。


いつか大きな幸せが訪れるまで、

今を我慢して生きるのではない。


今日の中にある小さな幸せを感じる。


その「今日」を何度も重ねていくことが、

人生を幸せにしていくのかもしれない。


もちろん、誰かに傷つくことを言われたら悲しい。


腹が立つこともある。


悔しくて、その言葉を何度も思い出してしまう日もある。


だからといって、


「感謝しなければ」


「幸せを見つけなければ」


と、自分の痛みを無理に押し込める必要はない。


傷ついたなら、傷ついたと認めていい。


嫌だったなら、嫌だったと言っていい。


悲しい日は、悲しんでいい。


幸せのハードルを下げることは、

嫌なことを我慢することではない。


人生を諦めることでもない。


「これくらいで満足しなければ」と、

自分を小さくすることでもない。


むしろ反対だ。


たったひとつの嫌な出来事に、

今日という一日をすべて奪わせないこと。


誰かが投げた言葉に、

自分の人生の価値まで決めさせないこと。


傷ついた事実を消すことはできなくても、

傷ついたことだけを、一日のすべてにしなくていい。


悲しみの隣に、


「それでも、今日飲んだ水はおいしかった」


という、小さな事実を置くことはできる。


そうやって、自分の手で幸せを拾い直す。


それは、無理に前向きになることではない。


誰かに持っていかれそうになった自分の心を、

もう一度、自分のもとへ連れ戻すことなのだと思う。


私たちは、ときどき自分の幸せの鍵を、誰かに渡してしまう。


相手が優しくしてくれたら幸せ。


誰かに選ばれたら幸せ。


お金が増えたら幸せ。


夢がかなったら幸せ。


愛されたら幸せ。


もちろん、どれも手に入ったらうれしい。


愛されたい。


豊かになりたい。


夢もかなえたい。


その願いを手放す必要はない。


けれど、


「それがなければ、私は幸せではない」


と思った瞬間、

幸せの主導権は、自分の手から離れてしまう。


誰かの機嫌。


誰かの評価。


お金の残高。


年齢。


まだ分からない未来。


自分では完全に動かせないものに、

今日の幸せを預けることになる。


それでは、いつまでたっても安心できない。


手に入れたとしても、

今度は失うことが怖くなる。


愛されたとしても、

嫌われることが怖くなる。


お金が増えても、

減ることが怖くなる。


幸せになるための条件を増やすほど、

幸せは遠くへ逃げていくことがある。


だから、幸せになるためにつけていた条件を、

ひとつずつ外していく。


愛されている実感がなくても、

今日の中に幸せはある。


お金が十分でなくても、

今の私を満たしてくれるものは残っている。


若くなくても、

今の私だから見える景色がある。


夢がまだかなっていなくても、

そこへ向かって歩いている今日がある。


あの人のようになれなくても、

私は私の人生を生きている。


足りないと思っていたものが、

すべてそろうのを待たなくてもいい。


あっても幸せ。


なくても、私は今日の中から幸せを見つけられる。


この感覚を持てたとき、

人は何も望まなくなるのではない。


むしろ、前より自由に望めるようになる。


「これがなければ幸せになれない」ではなく、


「今も幸せだけれど、これもあったらうれしい」


と思えるようになる。


執着ではなく、希望として願えるようになる。


誰かに幸せにしてもらうことだけを待つのではなく、

自分で自分の今日を大切にできる。


それは、誰にも奪うことのできない力だ。


では、小さなことに幸せを感じられる自分になるために、

何をすればいいのだろう。


大きな幸せを探さなくてもいい。


一日の終わりに、


「今日、少しよかったことは何だろう」


と、ひとつだけ思い出してみる。


「幸せ」とまで思えなくてもいい。


「少しよかった」


「ちょっと安心した」


「嫌ではなかった」


それくらいで十分だ。


最初は、何も浮かばない日もあるかもしれない。


それでも毎日ひとつずつ探しているうちに、

今まで背景に溶けていたものが、少しずつ見えるようになる。


幸せが新しく増えたのではなく、

ずっとそこにあった幸せに、気づけるようになる。


そして、何にでも「ありがとう」と言ってみる。


心からそう思えなくてもいい。


無理にきれいな気持ちにならなくてもいい。


「今日も起きられた。ありがとう」


「水が飲めた。ありがとう」


「ここまで生きてきた私、ありがとう」


最初は、ただの言葉かもしれない。


けれど言葉にすることで、

今まで見えなかったものに、少しずつ光が当たり始める。


感謝とは、嫌なことを肯定することではない。


苦しみを忘れることでもない。


苦しみの中にも、

まだ自分のもとに残っているものを見つけることだ。


何もないと思う日にも、

全部失ったように感じる日にも、


まだ呼吸をしている。


自分の心に声をかけることができる。


今日という一日は、まだ自分の手の中にある。


幸せは、遠くにある豪華な宝物ではない。


いつか誰かが運んできてくれる賞品でもない。


毎日の中に静かに置かれている、

小さな光のかけらなのだと思う。


悲しみで見えなくなる日はある。


拾えない日もある。


そんな日は、無理に幸せを探さなくてもいい。


ただ、見えないからといって、

なくなったわけではないことだけは忘れないでいたい。


最強に幸せな人とは、


何もかも持っている人ではない。


傷つかない人でもない。


どんな日にも無理やり笑える人でもない。


悲しい日には悲しみながら、

それでも、自分の人生に残っている小さな光を、

もう一度見つけられる人。


誰かに奪われたように感じた幸せを、

自分の手で静かに拾い直せる人。


今日も、コップ一杯の水を飲む。


喉を通る冷たさを感じながら、

「おいしい」と思う。


それだけのことを、

幸せと呼んでもいいのだと思う。


幸せは、何かを手に入れた先にだけあるのではない。


すでにあるものに気づくことができたとき、


幸せになるって、実はとても簡単なことなのかもしれない。

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