【創作大賞】悔しがれない悔しさ
創作大賞の中間選考。ボクが応募した3本は、一作品も通過しなかった。
悔しかった。
ただし、それは「落ちたこと」への悔しさではない。「落選したのに、悔しがることができなかった自分」に対しての悔しさだったのだ。
これまで小説の世界には編集者として少し関わってきた。漫画家さんと組んで単行本も何冊も出した。雑誌に関しては自分でも原稿を書き200冊以上出版した。けれど、自分で物語を書いたことは一度もなかった。そんな折、久しぶりに開いたnoteで「創作大賞2026」の開催を知る。
「よし、自分でも小説を書いてみよう。書けるはずだ」
そう思い立ち、衝動に任せて一気呵成に3本の作品を書き上げて応募した。
だが、当時のボクは「とにかく書き上げること」にしか意識が向いておらず、「創作大賞」という賞が何を求めているのかをまったく理解していなかった。
処女作となった『硝子の夜』は、ただただ自分の中に溜まっていたドロドロしたものを形にすることだけを考えて書いた。書いている瞬間の思い入れや情熱は、凄まじかったと思う。けれど、それは「創作大賞」に向けられたパッションではなかった。ただ単に、自分の中の膿を文字として吐き出すためのエゴに過ぎなかった。
だからこそ、書き上げて応募した時点でどこか満足してしまっていた。あとから「創作大賞」の傾向や求められる要素を理解したとき、「ああ、ボクが書いたものはこれじゃないな」と、誰より自分自身で分かってしまっていたのだ。結果を待つまでもなく、冷めていた自分がいた。
中間発表のあと、noteで選考に落ちて悔し涙を流したというある作家さんの文章を読んだ。
不躾かもしれないけれど、ボクはその感情がたまらなく羨ましかった。泣けるほどまっすぐに、すべてを賭けて取り組めたことが羨ましかったのだ。
その方は「自分にはパッションが足りなかった」と振り返っていた。けれど、ボクはそうは思わない。泣けるほどの情熱があったからこそ、それだけの痛みを抱えているはずだ。
ただ今回は、たまたまnote編集部側の読み手と波長が噛み合わなかっただけではないだろうか。もし協賛メディアの直接審査であれば、まったく違う結果になっていた気がしてならない。
勝手ながらその方の作品を振り返ると、0話のプロローグから実質的な冒頭である1話目へ進んだ段階で、人物像や世界観の輪郭を掴むまでに少し思考の体力を使う印象を受けた。初登場する人物の肩書、関係性、現在地を冒頭でスッと明記してあげる。ただそれだけのチューニングで、選者の没入感は激変したはずだ。
協賛メディアの編集部であれば、多少読み進めた先でそれらの情報を脳内補完し、物語を再構築してくれる。けれど、膨大な作品群を審査するWebコンテストの中間選考において、「掴みの部分で読者にカロリーが必要になる構造」は致命手になりやすいように思う。
作品自体は良かった。読了して2ヵ月ほど経つが、まだ心に残っている作品のひとつだ。
涙を流せるほどの熱量を持った書き手と、冷めた頭で分析ばかりしてしまう自分。パグナシティ(闘争心)の欠如。その自覚。
自分の中の膿を吐き出すだけの執筆は、もう終わった。次はボクも、物語と賞の向こう側にいる読者にどこまで本気で向き合えるか。涙を流せるくらいのパッションを持って、原稿に向かいたいと思う。
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