深夜のスープ、朝のコーヒー(遥香と朝海)
「何か晩ご飯食べたの?」
「……多分。おにぎりか何か摘んだと思うよ」
玄関の明かりの下、朝海は力なく笑って、くたびれたビジネスバッグを床に置いた。
遥香は朝海のコートを優しく脱がせる。外の冷気と、満員電車の匂いがほんのり残っていた。
「おかえり。遅くまで頑張ったね」
「ただいま……。ありがと。ごめんね、早く帰るって言ったのに。明日から休みだから、どうしても今日中に仕事終わらせたくて。一旦製造に話を戻したから、あとは週明け……」
「そっか、こんな時間まで。お疲れ様」
すぐにでも抱きついてきそうな朝海の胸を、遥香は手のひらで優しく押し止めた。
「朝海、まずは手洗って。うがいも。はい、洗面所行って」
「うん」
「ダメ、風邪引いたら困るでしょ。ほら」
6歳も年下の遥香が姉のように促す。着ていたジャケットを預けて朝海は大人しく洗面所へ向かう。
冷え切った朝海の手が温水に温められていく。ガラガラ、と真面目にうがいする様子を上着を片づけた遥香が後ろから鏡越しに見守った。
コップを置いた朝海が、水滴がついた唇のまま振り返った。
「これでいい?」
「うん、よくできました。」
遥香が手渡したタオルで手を拭くのもそこそこに、朝海は遥香の腰に腕を回して引き寄せた。
ハンドソープの清潔な匂いが、朝海の肌からふわりと漂う。
「待たせてごめんね」
朝海は小さく溜息をつくと、遥香の肩に額をうずめた。
「ううん、大丈夫。大変だったね」
遥香が朝海の背中を宥めるようにやさしく撫でる。一緒に暮らすようになって半年、朝海は遥香が思ったよりずっと忙しくて、毎日機械のように出ていき、くたくたになって帰ってきた。
甲斐甲斐しく世話を焼いていた遥香も耐えかねて「私はお母さんでも家政婦さんでもない!」と怒ったのがつい先週のこと。
「今週は必ず早く帰るし、週末は一緒にいる」と約束していたが、トラブルで一昨日から帰宅が遅くなっていた。
「うん、でもこれで明日から休み」
遥香の肩に顎をのせたまま朝海がつぶやく。
「野菜のスープあるけど、食べられそう?」
「……スープ、ありがと」
「うん。あっためてる間にお風呂入っちゃう?」
「うん……もう少しこのまま」
朝海の手が、遥香の部屋着をぎゅっと掴む。外での緊張を解きほぐすように、遥香の首筋に鼻先を押し当てて、ゆっくりと呼吸をしている。
「遥香」
「うん?」
「……名前を呼びたかっただけ」
「うん」
普段はここまで甘えないのに、最近疲れて帰るとまるでバランスを取るように子供みたいな甘え方をする。
遥香としては甘やかす一択なのだが、朝海が精神的に不安定になっているようで心配だった。
「お風呂、入れそう?」
「うん。着替え……」
「はいはい。準備してあげるから、このまま入っちゃって」
「パジャマ、パンダのがいい」
「わかった。いいから入って」
パンダのTシャツは元は遥香のものだが、いつの間にか朝海のパジャマになっていた。
遥香は朝海が脱いだスーツを寝室のハンガーにかけ、新しい下着とパジャマを脱衣所に置いて、スープを温め直す。
「私はお母さんでも家政婦さんでもない!」なんて怒り方をしながら、その原因の一端は遥香の甘やかし方にもあると自覚していた。
ガスコンロの小さな青い火を見つめながら、遥香はゆっくりとスープをかき混ぜる。
廊下の向こうから、湯船に浸かる水音が微かにする。
朝海の疲れが、温かいお湯に融かされていく音が聞こえるようだった。
朝海は日本人なら誰でも知っているようなメーカーで管理職をしている。前例はあるものの、もともと女性の少ない会社で責任のある立場にいるのは相当のプレッシャーだろう。
お風呂の扉が開く音がした。
朝海にスープを出す。ショートカットの髪はタオルドライだけで、まだ濡れている。Tシャツは色褪せてきているが、小さく刺繍されたパンダは健在だ。
スープマグを両手で包むようにして飲む朝海を眺める。
「飲み終わったら、髪乾かしてあげるから」
「うん。」
少し湿った耳の後ろを撫でながら言うと、朝海はくすぐったそうに目を細める。遥香はこの顔が好きだった。
「美味しい。お腹空いてたみたい。」
「おにぎりしか食べてないなら、当たり前だよ」
「お昼が少し重かったから、大丈夫だと思ったんだよ」
全部を飲み終えて、ふぅ、と深い息を吐き出した朝海の手からマグを受け取り、シンクに置く。
遥香が洗面所からドライヤーを持ってきてソファに座ると、朝海はその足元の床に座り、膝の間に背中を預けてきた。
低い音を立ててドライヤーの温風が吹き出す。
遥香は朝海の濡れた髪に指先を通し、地肌を優しくマッサージするように乾かし始める。
ドライヤーの音にかき消されて、何も聞こえなくなる。暖かい風と、朝海から漂う同じシャンプーの匂い、そして指先に触れる柔らかい髪の感触。
朝海が猫のように目を細めて、遥香の膝に頭をコツンと預けてくる。
朝海の安心しきった顔に遥香も安堵する。
ドライヤーのスイッチを切り、静寂が戻った部屋で、遥香は朝海の柔らかくなった髪をもう一度優しく撫でた。
「ほら、髪乾いたよ。歯を磨いて、ベッド行こっか」
「ん……」
彼女たちの寝室はセミシングルを二つ並べたクイーンサイズのベッドが部屋の真ん中を占めている。
でも二人とも相手が触れる場所でしか寝ないので実際にはダブルベッドの大きさがあれば十分だった。
今も朝海は遥香の肩に額を押し付けながら眠っていた。
規則正しい、小さな寝息が遥香をくすぐる。
(お疲れ様。)
遥香は朝海の柔らかい髪にそっと唇を寄せると、彼女の寝息の心地よいリズムに合わせるように、ゆっくりと目を閉じた。
翌朝、遥香はコーヒーの匂いで目が覚めた。
前日どんなに疲れていても、朝海は6時には起きている。こういう人だから出世したんだろうなと思う。
「おはよ」
「うん」
リビングのソファでコーヒー片手に新聞を読んでいる朝海に声をかける。画面で読むと記憶に定着しないとか言って、いまだに紙の新聞を買っている。
「コーヒーもらうね」
「どうぞ」
リーディンググラスをかけた視線を新聞から動かさずに返事をする彼女の後ろを通りながら、その髪を指先で撫でる。すでにジョギングから帰ってシャワーを浴びたところのようで、ドライヤーをかけたばかりの髪は暖かい。
背中から抱きしめて、彼女の柔らかい髪にキスすると、朝海は遥香の腕をとって抱き寄せた。
優しい口づけを交わして、朝海の首元に顔を埋める。
今日は遥香が甘やかしてもらう日だ。
