痩せ薬がもたらす「生物学的負債」――次世代にツケを回すダイエットの代償

美しさという名の牢獄、そこに鍵はあるのか
少し立ち止まって考えてみてほしいのですが、「痩せていて当然」という感覚が、いつの間にかこの社会の空気になっていませんか。
テレビを見れば細身のタレントが画面を占め、SNSを開けば加工された写真が「理想の姿」として視界に飛び込んでくる。街を歩けば、過度な食事制限をしているとしか思えない体型の女性を珍しくなく見かけます。それが「健康的」に見えるかどうかより、「細い」かどうかが評価の軸になっているような違和感——筆者は、その感覚を講演のたびに会場の参加者と共有してきました。
日本の20代女性の約5人に1人が、医学的に「低体重(BMI 18.5未満)」の状態にあるというデータがあります。先進諸国の中でも際立って高い数値です。栄養不足が慢性化すれば、生理不順、骨密度の低下、将来的な骨粗鬆症リスク、そして摂食障害——どれも笑い飛ばせない話です。にもかかわらず、この問題が「美意識の問題」として個人の領域に押し込まれ、社会的な議題として正面から扱われることは少ない。その「なんとなくの沈黙」が、問題の根を深くしている気がしてなりません。
本稿で取り上げるのは、そこへさらに深く踏み込んだ話です。糖尿病の治療薬が、ダイエット目的でオンラインクリニックから処方されている現実。医師免許が「痩せ願望の認証スタンプ」として機能しつつある現実。そして、その構造の先に待ち受けるものについてです。
「細さ=美しさ」という呪文はどこから来たのか
正義の顔をした偏見が、この国では長く続いた
オールドメディアの罪、と書くと語弊があるかもしれませんが、率直に言います。テレビドラマ、バラエティ番組、女性誌——これらが長年にわたって「スレンダー=魅力的・健康的」というメッセージを視覚的に反復し続けた事実は否定しようがありません。
画面に映るモデルやタレントの体型が「標準」として提示され、それと異なる体型を持つ人たちが「改善すべき状態」として扱われてきた。ダイエット特集が雑誌の定番企画となり、本来それほど体重を落とす必要のない層まで「痩せなければ」という強迫観念を植え付けられてきた。これを「文化」と呼ぶことに、筆者は少々躊躇いを感じます。どちらかといえば、「刷り込み」と表現する方が正確ではないでしょうか。
もちろん、昨今では「ボディ・ポジティビティ」という言葉も広がり、多様な体型を肯定する動きが生まれています。ただ正直なところ、その流れがどこまで根付いているかは疑問で、SNSを眺める限り「見せるための細さ」への圧力はむしろ強まっているようにすら見えます。
「世間体」(=他者の視線を内在化した自己規制の鎖)という名の測定器
ここで少し立ち入った話をしたいのですが、日本社会には「世間体」というコンセプトが根強く機能しています。これは英語で言えば "internalized social gaze"——他者の目線を自分の内側に取り込み、それに照らして自分の行動を制御するメカニズムのことです。欧米の文脈でいえば、フーコーが論じた「パノプティコン(全員が互いを監視し合う監獄)」の構造に近いかもしれません。
「太っている=自己管理ができていない、だらしない人間だ」という見方は、日本では今も根強く残っています。そしてそれが、「体型を維持することは個人の努力の問題だ」という論理と結びついたとき、過度なダイエットは「美容」の話ではなく「道徳」の話に変わります。
道徳にまで昇格した自己規律は、否定しにくい。周囲から「少し痩せた?」と言われれば、それが褒め言葉として機能する環境の中では、体重を減らすことへの強化学習が無意識に積み重なっていきます。「ちょっと食べすぎた」という罪悪感が常態化するのも、構造的に見れば当然の帰結です。
SNSは、この相互監視をさらに可視化・強化しました。「いいね」の数という数値指標が、承認の代理物となり、加工された「理想の姿」が24時間リアルタイムで更新される環境で、自分の生身の体を「誤り」のように感じる女性が増えているとすれば、それは個人の脆弱性の問題ではありません。構造の問題です。
治療薬が「痩せ薬」に変容する日
医師免許という名の万能チケット、その裏面
ここからが、本稿の核心部分に近づきます。
「マンジャロ(一般名:チルゼパチド)」という薬を聞いたことがあるでしょうか。インクレチン(GLP-1およびGIP)と呼ばれるホルモンの働きを模倣し、胃の動きを遅らせて食欲を抑制する2型糖尿病の治療薬です。高い食欲抑制効果から体重減少の作用もあるため、医学的に重篤な肥満症の治療としても使われています。
問題は、日本で現在起きていることです。本来の適応対象——すなわち糖尿病患者や、健康障害を伴う高度な肥満の方——ではなく、見た目を変えたいという理由でこの薬を求める、標準体型や痩せ型の女性への処方が急増しています。オンライン診療を経由して、対面での十分な診察なしに処方されるケースが後を絶たない。
念のため付け加えておくと、適応外使用——すなわち本来の承認された目的以外での使用——は医師の判断によって行われる場合があります。しかしそれは本来、十分な医学的根拠と丁寧な経過観察を前提とするものです。「オンラインで問診票に答えて、翌週には薬が届く」という現状は、その前提とはかなりの距離があります。
「副作用が出ている=薬が効いている」という逆転
急性膵炎のリスク、重症低血糖のリスク、嘔吐や下痢といった消化器症状——これらはマンジャロの既知のリスクです。特に、他の薬との組み合わせや、もともと栄養状態が良くない状態での使用は、リスクをさらに高めます。
ところが、SNS上では「吐き気が出てきた、ということは薬が効いてる」「副作用が辛いけど痩せてきた」というような投稿が賞賛を集める場面があります。これは、医学的には由々しき話です。副作用を成功の証明として脳が解釈し始めたとき、それはもはや「ダイエットの手段」ではなく、別の何かに変質しています。
さらに深刻なのは、適応外使用でこうした健康被害が生じた場合、「医薬品副作用被害救済制度」の対象外となる可能性が高い点です。つまり、体を傷つけるリスクを全て個人が引き受けた上で薬を使い、何か起きても公的な救済は受けられない——そういう構造の中に、気づかないまま足を踏み入れている人が少なくない。
経験の浅い医師と、ビジネスとしてのクリニック
もう一点、触れておかなければならない話があります。
近年、保険診療の経験を積まないまま美容医療の領域に直接進む若手医師が増えており、業界では「直美(ちょくび)」と呼ばれています。内科的な疾患の全体像を把握する経験なしに処方権を持つ医師が、副作用のリスク管理を十分に行えるかどうか——これは単なる倫理の問題ではなく、患者の身体に直接関わる話です。
営利目的で患者を集めるオンラインクリニックの中には、「医師免許さえあれば誰でも処方できる」という構造を巧みに利用しているところもあります。インフルエンサーを活用したSNS広告が薬機法のグレーゾーンを泳ぎ、「絶対痩せる」「安全です」といった誇大な表現で患者を誘引する——医療広告ガイドラインが明確に禁じている表現が、日々ネット上に溢れています。
「痩せること」が抱える、見えにくい代償
身体を省エネモードに追い込む仕組み
極端な食事制限が続くと、身体は飢餓状態に入り、エネルギー消費を抑えようとする「省エネモード」に切り替わります。脳の主なエネルギー源であるブドウ糖が枯渇すると、生命維持のために交感神経が過剰に活性化し、慢性的な緊張状態が続きます。これが自律神経の乱れとして現れ、胃腸の不調、睡眠の質の低下、気分の波——といった症状につながります。
同時に、女性ホルモンの分泌をコントロールしているのは脳の視床下部であり、自律神経の中枢と同じ場所です。栄養不足がここに影響を与えると、生理不順や無月経が起きやすくなります。「少し生理が乱れた」という状況を「体が変わっている証拠」と捉えてしまう場合があるとすれば、それは身体が発している警告を見逃しているのと同じです。
また、「痩せ型でも糖尿病リスクがある」という話は、まだあまり知られていないかもしれません。極端なカロリー不足は筋肉量を低下させ、筋肉は血糖を処理する重要な器官であるため、痩せていても食後の血糖値が異常に高くなる「耐糖能異常」が起きやすくなります。細ければ健康、という等式は医学的には成り立ちません。
今の「細さ」が、未来の子どもへ何を渡すか
もう一つ、見落とされがちな話です。
低体重状態の女性が妊娠・出産した場合、低出生体重児(小さく生まれる子ども)が増えることが指摘されています。そしてその子どもたちは、将来的に糖尿病などの生活習慣病リスクが高まる傾向があるとの研究データもあります。「今の自分の体型の話」が、生まれてくる子どもの生涯の健康に影響を与える可能性がある——この問題は、個人の美意識の話として片付けられるものではありません。
少し大げさに聞こえるかもしれませんが、「今この瞬間に細く見えること」のために健康の先払いをしているとすれば、その請求書は必ず未来に届きます。自分自身に届くこともあれば、次の世代に届くこともある。その構造に無自覚でいることの代償は、思いのほか重い。
「果糖中毒」という罠——カロリー制限の盲点
食事を減らしながら、甘い飲み物やスイーツで気分を紛らわせているというパターンは珍しくありません。ここに一つの落とし穴があります。
果糖(フルクトース)は、ブドウ糖と異なり、脳の満腹中枢を刺激しにくいという性質があります。過剰に摂取しても「もっと甘いものが欲しい」という欲求が収まらず、肝臓で速やかに中性脂肪へ変換されやすい。「カロリーを抑えているはずなのに体調が優れない」という状況の背景に、このメカニズムが関わっているケースもあります。ダイエットをしているつもりで、身体には別の負荷がかかっている——こうした「見えない矛盾」が積み重なったとき、人は手軽な解決策を探し始めます。その先に「痩せ薬」があるとすれば、問題の構造は単純ではありません。
医療倫理という防壁は、なぜ崩れたのか
「治す」から「叶える」へ——医師という職業の変質
医療というものを、筆者はずっと「生命を守るための知的インフラ」だと思ってきました。おそらくほとんどの人が、そう認識しているはずです。ところが現在起きていることは、その前提を静かに、しかし着実に書き換えています。
美容クリニックの一部において、医師は今や「患者の望みを叶えるサービス提供者」として機能しています。「治癒」ではなく「顧客満足」が評価指標になる瞬間、医療は本質的に別のものに変わります。これは批判でも皮肉でもなく、ビジネス構造として見れば合理的な帰結です。自由診療は保険診療と異なり、行政による価格規制や適応範囲の制約が緩い傾向にあります。つまり市場原理が直接働き、その環境で「顧客が求めるものを提供する」方向に最適化が進むのは、経済的には当然の流れです。
問題は、「医療」という言葉が持つ権威が、その変質を覆い隠すことです。「医師が処方した薬だから安全だ」「クリニックが勧めているから大丈夫だ」——そうした信頼が、実態とは乖離した状態で維持されており、消費者は「医療を受けている」と感じながら、実際には「欲望の充足サービスを購入している」という状況に置かれるこのギャップが、健康被害の温床になります。
責任が霧散する構造——誰も悪くない、だから誰も止めない
インフルエンサーがSNSでダイエット薬を紹介し、視聴者がそれを見てオンラインクリニックに問い合わせます。問診票を埋めれば処方が下り薬が届きますが、何か起きたとき責任はどこにあるのでしょうか。
インフルエンサーは「自分の体験を共有しただけ」、クリニックは「患者の意思に基づく同意書がある」、薬のメーカーは「適応外使用の責任は処方した医師にある」、医師は「患者が強く希望した」と全員の言い分が、ある意味で筋が通っていますからこそ、誰も止められません。
これを「責任のブラックホール」と表現する研究者もいますが、言い得て妙だと思います。重力が全てを吸い込んで光さえ出てこないように、この構造は問題を内側に飲み込んで外に出しません。健康被害が積み重なっても、それが「社会の問題」として可視化されにくいのはそのためです。
医療広告のグレーゾーンという名の戦場
薬機法や医療広告ガイドラインは、一定の規制を設けています。「絶対に効く」「医師も推奨」「副作用なし」——こういった表現は明確に禁止されています。しかし現実のSNS上では、禁止表現をギリギリ避けながら実質的に同じ意味を伝える手法が横行しています。
「私はこれで◯kg落ちました」という個人の体験談という形式を取れば、薬そのものを宣伝しているとは言いにくい。対価を受け取っていても「PR」の表記が曖昧だったり、医療機関名が伏せられていたりする。行政がこうした投稿一つひとつを把握して対処するのは、現実的に困難です。法律と実態の間に常に隙間が開いており、その隙間でビジネスが動いています。
「グレーゾーン」という言葉は便利ですが、被害を受けるのは灰色の中で判断を誤った個人です。その個人が「自分で選んだ」という事実は残りますが、その「選択」が十分な情報に基づいていたかどうかは、別の話です。
同調圧力という名の牢獄——「細ければ勝てる」という幻想
競争の場が変わると、ルールも変わる
SNSというプラットフォームの登場が、女性同士の「比較」の構造を根本から変えました。かつての比較は、せいぜい身近な友人や職場の同僚との間で起きるものでした。範囲が限られていた分、ある程度の現実感がありました。
今は違います。インスタグラムを開けば、世界中の「最も映える姿」が一瞬で視界に入ります。比較の相手が、現実の知人から「加工と照明と角度とフィルターの組み合わせによって作られた画像」に変わりました。しかもアルゴリズムは、ユーザーが反応しやすい——つまり「理想的な体型」の投稿を優先して表示します。これは偶然ではなく、エンゲージメントを最大化するための設計です。
その環境で「普通でいること」は、思った以上に難しい。比較の相手が人間の生物学的限界を超えた存在になっているとき、「自分が足りない」という感覚は構造的に生まれやすくなっています。
「マウント」の可視化が生んだもの
「少し痩せた?」という言葉が褒め言葉として機能する文化は、以前から日本に存在しました。SNSはそれを可視化・定量化しました。フォロワー数、いいねの数、コメントの内容——これらが承認の指標となり、「細くなること」がその指標を上げる手段の一つになりました。
「マウント(優位性を示すこと)」という言葉が日常語になったのは最近のことですが、現象自体は昔からあります。ただ以前は、その場に居合わせた人々の間でしか発生しませんでしたが、今は何千人、何万人という単位で同時進行します。「誰かより細くいること」の報酬が、一度に大量の承認という形で返ってくるとすれば、その行動が強化されるのは心理学的に見て不思議ではありません。
問題は、その報酬のためにどこまでのリスクを許容するか、という判断が個人に委ねられていることです。薬を使うことへのハードルが下がり、副作用を「代償」として受け入れる心理が育ちやすい土壌が、そこにあります。
「自由に見える不自由」というパラドックス
「自分で選んでいる」という感覚は重要ですが、選択肢が構造的に絞られているとき、その選択はどこまで自由と言えるのか——これは哲学的な問いですが、決して抽象的な話ではありません。
「細くなければ評価されない」という圧力の中で「細くなることを選んだ」場合、それは選択なのか、それとも適応なのか。アルゴリズムによって「こういう姿が美しい」という情報を繰り返し見せられ続けた結果として形成された欲求が、「自分の本当の望み」と区別できるかどうか——これは、当事者にとって非常に難しい問いです。
外から見れば「なぜそこまでするのか」と感じることが、当事者にとっては「生き延びるための合理的な行動」として経験されているとすれば、問題の根はかなり深いところにあります。
医学は誰のためにあるのか——構造への問い
治療薬が届かない人たちの話
視点を少し変えます。
マンジャロは本来、2型糖尿病の治療薬です。血糖値のコントロールが難しく、日々の生活に支障をきたしている患者にとって、この薬は文字通り生活の質を左右するものです。ところが、ダイエット目的の処方が急増した結果、薬の供給が逼迫し、本当に必要としている糖尿病患者のもとへ薬が届きにくくなるという事態が起きています。
これは感情的な言い方をすれば、「誰かの美容欲求が、別の誰かの治療を妨げている」という構図です。ただ私は、この話を個人の「悪意」の問題として語りたいわけではありません。個々の利用者は、自分の選択が医療資源の配分問題につながっているとは、おそらく考えていません。情報が届いていないか、あるいは届いていても自分の問題として実感しにくい。それ自体が、制度設計の失敗だと思います。
「個人の自由」と「公共の健康」はどこで折り合うのか
美容医療を受けるかどうかは、最終的に個人が判断することです。自分の体について自分が決める権利——これは尊重されるべきものです。私もその前提は崩したくはありません。
ただ、医療資源は有限であり、医師の判断には社会的な影響があります。「医師が処方した」という事実が持つ社会的な信頼性が、本来の適応外での使用を正当化するために使われるとき、それは個人の選択の問題を超えています。
中道的な視点から言えば、「完全な禁止」でも「野放し」でもない、第三の道があるはずです。適応外処方を行う場合には、医師がリスクを等価に説明し、副作用発生時の責任を明確にした上で処方する。インフルエンサーによる医療広告には、法的拘束力のある開示義務を課す。オンライン診療においても、対面診察と同等の全人的な確認を義務付ける——制度としての「入り口」を整備することで、「誰も悪くない構造」に楔を打ち込む余地はあります。
知識の非対称性、という問題の核心
最後に、一番根本的なことを言います。
医療情報は専門的です。一般の人が、ある薬の適応範囲や副作用のメカニズムを正確に理解するためには、相当な知識と時間が必要です。その非対称性を、一部のクリニックやインフルエンサーは利用しています。意図的かどうかに関わらず、「専門的に見える言葉」が消費者の不安と欲求に刺さるとき、情報は説明ではなく広告として機能します。
「医師が言うから正しい」「SNSで評判だから安全だ」——こうした判断のショートカットが働くのは、人間として自然なことです。だからこそ、その判断を支える環境——つまり情報の透明性と、医療者のゲートキーパーとしての機能——が社会的に保証されている必要があります。それが崩れているとき、しわ寄せは最も情報へのアクセスが難しい層に集中します。
「医学は誰のためにあるのか」という問いへの答えは、本来シンプルなはずです。病を治し、生命を守るため。その答えが揺らいでいるとすれば、それは個人の問題ではなく、時代の問題として受け止めるべきものでしょう。
「退行」を食い止めるために——処方箋としての社会設計
禁止でも放任でもない、第三の現実解
「美容医療を全面的に禁止せよ」という主張は、感情的には理解できますが、現実的ではありません。医療技術が進歩し、個人の選択肢が広がること自体は否定できません。問題は技術や選択肢の存在ではなく、その周囲に張り巡らされるべき「安全網」が機能していないことです。
私が執筆の場でよく使う比喩があります。高速道路は便利なインフラですが、速度制限も中央分離帯もガードレールもない状態で開放すれば、それは「自由」ではなく「危険な空間」です。医療も同じで、自由診療という道を開放すること自体は一概に悪ではありません。ただ、安全のための設計が追いついていない状態で走り続けるのは、事故を待っているのと変わりません。
では何が必要か。まず、適応外処方を行う場合の「開示義務の法的整備」です。リスクの説明が形式的な同意書の一行で済まされている現状は、情報の非対称性を解消しているとは言えません。副作用が生じた際の補償メカニズムの明確化も含め、処方する側の説明責任を実質的に担保する仕組みが必要です。
次に、SNS上の医療広告に対する実効性のある規制です。現行のガイドラインは存在しますが、個人の「体験談」という形式を取った事実上の広告を網羅できていません。プラットフォーム事業者への開示義務と、対価を伴う医療関連情報の発信に対するペナルティの強化が、現実的な選択肢として浮上します。
そして、オンライン診療における診察水準の底上げです。対面でなければできない確認事項——栄養状態、服薬歴、精神的な背景——を問診票だけで代替することを、少なくとも適応外処方においては認めない方向の議論が必要だと思います。
「直美」問題と医師教育の再設計
保険診療の経験を積まないまま美容医療に進む医師が増えている現状は、単に個々の医師の倫理観の問題ではありません。そうしたキャリアパスが成立する構造が問題の根にあります。
内科や救急の現場では、患者の全身状態を複合的に把握しながら判断を下す経験が積み重なります。「この患者に今この薬を出して大丈夫か」という問いに対し、複数の変数を同時に考慮する能力は、そうした経験の蓄積によって育まれます。その経験なしに処方の権限を持つことのリスクは、美容医療の現場でこそ見えにくく、しかし確実に存在します。
医師免許制度そのものを急に変えることは難しいにしても、適応外処方に関しては専門的な研修の修了を条件とするなど、段階的な制度改正を議論する余地はあるはずです。
哲学としての身体——「細さ」を問い直す
身体は誰のものか、という根本の問い
ここで少し、視座を引いた話をしたいと思います。
「身体は自分のものだ」という感覚は、現代社会においてほぼ自明の前提として扱われています。ところが現実には、私たちの身体に関する認識や欲求は、メディア、アルゴリズム、文化的規範、周囲の視線によって絶えず形成されています。「自分が望んでいる」と感じる欲求が、どこまで「自分の内側から生まれたもの」で、どこからが「外部からインストールされたもの」なのか——その境界は、思うよりずっと曖昧です。
哲学者のシモーヌ・ド・ボーヴォワールは「人は女に生まれるのではなく、女になるのだ」と書きました。現代風に言い換えれば、「人は『細くなりたい』と思うのではなく、そう思うように育てられるのだ」とも言えるかもしれません。欲求そのものが社会的に構築される——この視点は、個人を責めるためではなく、問題の根をより正確に見るために必要です。
「不完全さ」を取り戻す、ということ
生命というものは、本来的に揺らぎを持っています。空腹になれば食べ、疲れれば休む。季節によって体重が少し変わることも、年齢とともに体型が変化することも、生物としての正常な機能です。その揺らぎを「制御すべき誤差」として処理し始めたとき、身体は管理の対象になり、生きることの感触が薄れていきます。
「ありのままの身体」という言葉は、今や陳腐に聞こえるほど使われ過ぎていますが、その背景にある思想は案外深いものです。完璧に管理された身体の先に何があるのか——それは「生きている実感」なのか、それとも「管理されている安心感」なのか。この二つは、似ているようで全く異なるものです。
SNSで賞賛される「理想の姿」は、撮影、加工、照明、角度の掛け合わせで作られています。その画像と自分の鏡の前の姿を比べることは、フィクションと現実を同じ土俵で測るようなものです。そのことに気づいていても、繰り返し見続けるうちに感覚が麻痺していく——これは意志の弱さではなく、人間の認知の特性です。
「世間」の外で自分を測る、という難しさと可能性
「世間」(=個人を包む匿名の共同体的規範——英語圏で言えば "the generalized other" に近い概念)の視線から自由になることは、日本社会においては特に難しいことです。それは文化的な土台に深く埋め込まれているからです。ただ、難しいことと不可能なことは違います。
「自分の身体を、他者の評価ではなく自分の感覚で測る」という習慣は、一朝一夕に身につくものではありません。しかし、「細ければ価値があり、そうでなければない」という等式が絶対的な真理でないことを、誰かが言葉にし続けることには意味があると思っています。
筆者がこうして講演や文章を通じて話し続けているのも、その積み重ねが、一人でも多くの人の「測り方」を変えるきっかけになるかもしれないという、地味な期待からです。
この問題の「当事者」は誰か——意外と広い射程
メディア、クリニック、プラットフォーム——共犯の構図
「痩せ信仰」と医療の美容奴隷化という問題の当事者は、薬を使っている女性たちだけではありません。
オールドメディアは長年、「細さ=魅力」という価値観を視覚的に刷り込んできました。SNSプラットフォームは、そのメッセージを増幅・加速させるアルゴリズムを設計し、運用しています。美容クリニックは、その欲求に応える形でビジネスを構築しています。インフルエンサーは、そのビジネスの広告塔となっています。そして社会全体が、「痩せていることは自己管理の証だ」という価値観を空気のように維持してきました。
責任の所在をどこか一点に絞ることは難しく。むしろ、それぞれのアクターが「自分は問題の一部ではない」と言える構造になっているところに、この問題の狡猾さがあります。
医師は「患者が望んだ」と言います。プラットフォームは「コンテンツの責任はユーザーにある」と言います。インフルエンサーは「個人の体験を共有しただけだ」と言います。全員が部分的に正しく、全員が問題の一端を担っているこのような構造における変化は、どこか一点への劇的な介入ではなく、複数の箇所への地道な圧力によってしか起きないのが現実です。
声を上げにくい人たちのことを、忘れないために
この問題を語るとき、筆者がいつも頭に置いているのは、議論の場に登場しない人たちのことです。
SNSで「自分の体験」を発信できる人は、ある意味で社会的なリソースを持っています。問題を認識し、言語化し、発信する力が備わっています。しかし、その輪の外に、情報へのアクセスが限られ、選択肢も限られ、何か起きても声を上げる場を持たない人たちがいます。
医療資源の逼迫が最初にしわ寄せを生むのも、規制の不備が最初に被害をもたらすのも、往々にしてその層です。「個人の自由と自己責任」という論理は、前提として十分な情報と選択肢が保証されているときにのみ成立します。その前提が欠けているとき、自己責任の論理は弱者への転嫁として機能してしまう。
おわりに——それでも、問い続けることの意味
問題が「見えにくい」ことが、最大の問題かもしれない
骨折や発熱は、誰の目にも見えます。しかし、20代女性の5人に1人が低体重であるという事実は、日常の風景の中に溶け込んでいて見えにくくなっています。糖尿病患者に薬が届かなくなるという問題は、数字の上では現れても、顔の見える形では伝わりにくい状況です。次世代への健康リスクの継承は、20年後に初めて姿を現します。
「見えにくい問題」は、緊急性を感じさせないからこそ後回しにされやすく、気づいたときには構造が固まっています。本稿でこの問題を取り上げたのも、そのタイミングを少しでも早めたいという思いからです。
「細さ」の外側に、何があるのかを想像すること
最後に一つだけ、問いを残したいと思います。
「細くなること」が達成されたとして、その先に何があるのか——この問いを、多くの人が棚上げにしたまま走り続けている気がします。承認が得られれば次の承認が必要になり、理想の体型に近づけば次の理想が現れ、薬で欲求を抑えれば薬なしには戻れない身体になっていく。終わりのない最適化の中で、「今、ここにある自分の身体」を感じる時間は、どんどん失われていきます。
医療は本来、その「今ここにある身体」を守るためにあるはずです。それが欲望の増幅装置に変質しているとすれば、変えるべきは制度でもあり、問いの立て方でもあります。
「痩せていれば、それでいいのか」——この問いに、単純な答えはありません。ただ、問い続けることをやめない社会には、答えへの道が残されていると、私は思っています。
