4候補から1つを選び、4万人で確かめた。速さは、雑さではなかった|カタリン・カリコ 第5話
4候補。
4万3,548人。
約10か月。
2020年、世界には待つ時間がなかった。
未知のウイルスが広がり、人が亡くなり、日常が止まっていった。
ワクチンは、早く必要だった。
けれど、早ければ何でもよかったわけではない。
カタリン・カリコ(Katalin Karikó)が長く続けてきた修飾mRNAの研究は、重要な土台になった。
ただし、それだけでは人へ届けられない。
送る技術がいる。
ウイルスのどこを標的にするか決める人がいる。
臨床試験へ参加する人がいる。
安全性と有効性を審査する人がいる。
大量に作り、運び、接種する仕組みがいる。
2020年、カリコの研究は、1人では届かない大きさまで来ていた。
それは、研究を失うことではなかった。
研究が、社会へ渡り始めたということだった。
この連載について
On the Wayは、成功者の答えではなく、本人にも結末が見えなかった「途中」を記録しています。

世界には、待つ時間がなかった
2020年1月12日、新型コロナウイルスの遺伝子配列が公開された。
その15日後、バイオンテック(BioNTech)は、COVID-19ワクチンの開発プログラムを始めた。
名前は、ライトスピード計画(Project Lightspeed)。
光の速さ。
だが、この速さは、2020年1月に突然生まれたものではない。
mRNAを身体へ届ける研究。
細胞に必要なタンパク質を作らせる研究。
望まない炎症反応を抑える研究。
抗原を安定させる研究。
感染症と免疫の研究。
長い年月、別々の場所で積まれてきた仕事が、緊急事態の中で接続された。
カリコとドリュー・ワイスマン(Drew Weissman)の修飾mRNA研究は、その重要な1つだった。
だが、1つだけではなかった。
速さを生んだのは、長く準備された複数の途中だった。
最初から、正解を1つに決めなかった
急いでいる時、人は1つに賭けたくなる。
迷っている時間が惜しい。
比較するより、誰かの確信に乗った方が速く見える。
バイオンテックは、そうしなかった。
2020年初め、20を超える候補を評価した。
そのうち4候補を、ドイツの初期臨床試験へ進めた。
4つは、同じものではない。
mRNAの形式が違う。
ウイルスのどの部分を作らせるかが違う。
投与量も比べる必要がある。
見るべきものは、抗体ができたかだけではなかった。
安全性。
免疫反応。
身体が受け入れられる量。
次の大規模試験へ進める条件。
急ぐから、検証を減らしたのではない。
急ぐから、比較できる形を先に作った。
4候補から、1つを選んだ
2020年7月27日。
バイオンテックとファイザー(Pfizer)は、ビーエヌティー162ビーツー(BNT162b2)を次の第2/3相試験へ進めると発表した。
修飾mRNAを使う候補だった。
30マイクログラムを、21日間隔で2回投与する。
選定は、勘ではなかった。
前臨床と初期臨床のデータを見た。
免疫反応を見た。
安全性と忍容性を見た。
規制機関とも協議した。
そして、1つを次へ進めた。
残りの候補が無意味だったわけではない。
4つを比べられたから、1つを選べた。
選ばれなかった途中も、判断の証拠になった。
1人の研究が、1人では届かないものになった
カリコは、2013年にバイオンテックへ移っていた。
ヌクレオシド修飾によって、mRNAの望まない免疫反応を抑え、より使いやすくする研究を持っていた。
ウール・シャヒン(Uğur Şahin)、エズレム・テュレジ(Özlem Türeci)らのチームは、mRNAの骨格、送達、免疫の利用を別の方向から積み上げていた。
ファイザーは、世界規模の臨床開発、規制、製造、流通の能力を持っていた。
臨床研究者がいた。
試験へ参加する人がいた。
独立して審査する規制機関があった。
製造設備を動かす人がいた。
冷たい状態を保って運ぶ人がいた。
政府と資金提供機関がいた。
どれか1つだけでは、ワクチンは届かない。
カリコが諦めなかったから、すべてができたのではない。
彼女が続けた研究を、ほかの人が受け取れる状態にした。
受け取った人たちが、それぞれの責任を足した。
その時、個人の研究は、社会の実装へ変わった。
4万3,548人で、確かめた
第2/3相試験では、4万3,548人が無作為に割り付けられた。
4万3,448人が、ワクチン候補またはプラセボの接種を受けた。
主要な有効性解析では、2回目接種から7日後以降のCOVID-19発症が、ワクチン群で8件、プラセボ群で162件だった。
推定された有効性は95.0%だった。
数字は強い。
だが、数字だけを成功の飾りにしない。
4万人を超える参加者が、自分の身体と時間を検証へ預けた。
研究者が試験を設計した。
医療者が観察した。
データを集める人がいた。
規制機関が、便益と既知・潜在的なリスクを比べた。
2020年11月20日、緊急使用許可が申請された。
12月11日、米国食品医薬品局は、16歳以上を対象に緊急使用を許可した。
緊急使用許可は、何でも分かったという宣言ではない。
その時点の証拠から、緊急事態で使う便益がリスクを上回ると判断したものだった。
長期安全性。
変異株。
保管と供給。
世界での公平なアクセス。
社会の信頼。
未解決は、まだ残っていた。
速さは、工程を飛ばすことではなかった
ライトスピード計画は、約10か月で最初の一時承認へ進んだ。
その速さを、簡単だったと読み替えてはいけない。
研究と協業を同時に進めた。
臨床試験と製造準備を重ねた。
複数地域で試験を動かした。
成功が決まる前から、生産能力を準備した。
順番に1つずつ終えるのではなく、並行できる仕事を重ねた。
だが、安全性、有効性、製造品質の証拠は必要だった。
短くしたのは、待ち時間だった。
消したのは、判断に必要な証拠ではなかった。
すべての挑戦が、同じ規模の資金や組織を持てるわけではない。
それでも、ここから持ち帰れるものがある。
急ぐ時ほど、候補を見えるようにする。
選ぶ条件を先に決める。
並行できる仕事と、順番を守る仕事を分ける。
本人が全部を抱えず、専門と責任を渡す。
速さを、雑さの言い換えにしない。
On the Way考察
この記事が役立つ人
期限が迫り、最初の案へ賭けるしかないと感じている人
研究・企画・事業を、次工程の人へ渡せず抱えている人
速さを求めながら、品質や安全を落としたくないチーム
複数候補から、次へ進める1つを選ぶ責任者
挑戦者の代わりに答えを出さず、判断条件を整えたい伴走者
キーポイント|速さは、長い準備と分業から生まれる
2020年の約10か月だけを見れば、突然の成功に見える。
だが、その前に30年以上の研究があった。
そして2020年には、候補比較、臨床、規制、製造、物流を担う別々の人がいた。
速さは、1人が何倍も働くことではない。
長く積んだものを、必要な人へ渡せることでもある。
確認できるターニングポイント|4候補からビーエヌティー162ビーツーを選んだ
転機は、12月の許可だけではない。
2020年7月、4候補の初期データから、次の大規模試験へ進める1つを選んだ。
選択肢を持つ。
比べる条件を持つ。
落とす判断をする。
その3つがあったから、全部を抱えたまま止まらずに済んだ。
足りなかった支えの仮説|5欄の加速設計
ここからは、現在の挑戦へ転用する仮説である。
紙を5つに分ける。
候補
次へ進める条件
並行できる工程
その工程の責任者
止める条件
急いでいる時ほど、頭の中の1案だけで走らない。
少数の候補を、同じ条件で比べる。
安全や権利に関わる停止条件は、始める前に決める。
その支えを作れる人
本人は、中心となる根拠と未解決を、次の人が判断できる形へする
チームは、複数候補を同じ評価条件で比べる
組織は、研究・現場検証・安全・製造・配信の責任を分ける
専門家は、最後の承認者ではなく、初期設計から停止条件を作る
伴走者は、本人へ仕事を足す前に、誰へ何を渡せば進むかを一緒に見つける
今日できる最小の1歩
いま抱えている挑戦について、候補を2つだけ書く。
次へ進める条件を、同じ言葉で1つ決める。
そして、自分以外に渡せる工程を1つ選び、渡す相手の名前を書く。
全部を速くしなくていい。
まず、1人で抱える時間を減らす。
研究が、彼女の手を離れた日
40歳で降格された時、残っていたのは、小さな実験台だった。
そこから25年。
研究は、4候補になった。
4万3,548人の検証になった。
臨床、規制、製造、物流を担う人へ渡った。
カリコの手を離れたから、価値を失ったのではない。
1人では届かない大きさまで、挑戦が進んだ。
速さは、1人で全部をすることではない。
次の人が受け取れる形まで、自分の途中を進めることだ。
挑戦した事実は、ゼロじゃない。
