炎症を抑えても、それだけでは薬にならなかった|カタリン・カリコ 第3話
う炎症を起こしにくいメッセンジャーRNAは、できた。
だが、炎症を抑えたことと、薬になったことは違う。
身体の中で壊れずに残るか。
必要なタンパク質を、十分に作れるか。
2005年、カタリン・カリコ(Katalin Karikó)とドリュー・ワイスマン(Drew Weissman)らは、修飾ヌクレオシドを入れることで、望まない免疫反応を大きく抑えられると示した。
長く立ちはだかっていた壁が、1枚下がった。
その向こうには、次の壁が立っていた。
前進は、本物だった。
完成では、なかった。
この連載について
On the Wayは、成功者の答えではなく、本人にも結末が見えなかった「途中」を記録しています。

1つの壁を越えても、成立条件は1つではなかった
メッセンジャーRNAは、細胞へ設計図を渡す。
細胞は、その設計図を読んでタンパク質を作る。
理屈は明快だった。
しかし当時、試験管内で作ったメッセンジャーRNAには、大きな弱点があった。
壊れやすい。
身体から異物として認識され、望まない炎症反応を起こす。
2005年の研究は、そのうち炎症反応という問題に道を開いた。
通常のウリジンを、シュードウリジンなどの修飾された型へ置き換えると、樹状細胞の炎症反応は大きく減った。
それは、終わりではない。
炎症を起こしにくくても、RNAがすぐ壊れるなら使いにくい。
細胞が設計図を読まず、必要なタンパク質を少ししか作れないなら、治療には届かない。
そして、身体の狙った場所へ届ける問題も残っていた。
大きな問題を1つ解いた直後は、成果が最も大きく見える。
だからこそ、何が解けて、何がまだ解けていないのかを分ける必要があった。
次に比べたのは、炎症ではなく「どれだけ作れたか」だった
カリコ、ワイスマン、ヒロミ・ムラマツ(Hiromi Muramatsu)ら7人は、シュードウリジンを含むメッセンジャーRNAと、通常のウリジンを含むものを比べた。
まず、細胞から取り出したタンパク質合成の仕組みで測った。
次に、哺乳類の培養細胞で測った。
さらに、マウスへ静脈投与して測った。
見たのは、1つの数字ではない。
RNAはどれだけ残ったか。
コードされたタンパク質はどれだけ作られたか。
炎症の指標はどう変わったか。
2008年に発表された結果では、シュードウリジン入りのメッセンジャーRNAは、通常のものより高い翻訳能力を示した。
つまり、同じ設計図から、より多くのタンパク質が作られた。
マウスでは、投与後1時間、4時間、24時間に脾臓を調べた。
修飾RNAを投与した方が、RNAそのものも、コードされたタンパク質も有意に高かった。
しかも、高い量を投与した時、通常RNAは高いインターフェロンαを誘導したが、修飾RNAではその反応が大きく抑えられた。
炎症を下げる。
安定性を上げる。
タンパク質産生を増やす。
同じ修飾が、複数の成立条件へ働いていた。
成功を再現するだけでなく、効いた理由を分けた
タンパク質が増えた。
それだけでも、重要な前進だった。
だが、同じ結果を次の研究や実装へ渡すには、なぜ増えたのかを知る必要がある。
2010年、バート・アンダーソン(Bart R. Anderson)、ムラマツ、カリコ、ワイスマンら別の7人は、PKRというタンパク質へ注目した。
PKRは、細胞がウイルス由来のRNAなどを感知した時に働く防御機構の1つである。
活性化すると、タンパク質を作り始める仕組みを抑える。
通常のウリジンを含むRNAは、シュードウリジン入りRNAよりPKRへ結合しやすかった。
修飾RNAではPKRの活性化が減り、タンパク質翻訳の停止が弱まった。
これが、産生量が増えた理由の一部だった。
全部ではない。
後の研究では、別の免疫経路、RNAの精製、異なる修飾、送達技術も積み重なっていく。
2010年に起きたのは、1つの成功を万能の答えにしたことではない。
効いた結果を、次に扱える機序へ分けたことだった。
2008年にも、2020年は見えていなかった
後から見れば、低い免疫原性と高いタンパク質産生は、新型コロナワクチンを可能にした重要な基盤である。
だが、2008年の論文は、ワクチンの完成ではない。
実験は細胞とマウスで行われた。
人での有効性と安全性は、まだ示していない。
RNAを身体の狙った場所へ運ぶ技術も必要だった。
大量に作り、品質を保つ仕事も必要だった。
臨床試験、規制、製造、供給、医療現場の判断も必要だった。
この前進を、2人だけの執念にもできない。
2008年論文の著者は7人いる。
2010年論文にも7人いる。
研究助成がある。
細胞、動物、免疫、タンパク質翻訳を別々に測れる専門がある。
1つの壁を越えた人が、次の壁も1人で越えたわけではない。
On the Way考察
この記事が役立つ人
最初の大きな問題を解いたのに、成果が現場で使われない人
1つの指標が改善し、「もう完成」と急かされているチーム
発見を、製品・制度・支援へ渡すための次条件が見えない組織
前進を喜びながら、未完成も正直に扱いたい挑戦者と伴走者
キーポイント|前進と完成を、同じ言葉にしない
2005年の発見は、本物の前進だった。
だが、炎症反応を抑えることは、医療として成立する条件の1つだった。
前進を小さく扱う必要はない。
同時に、残る条件を隠す必要もない。
解けたこととまだ足りないことを同じ記録へ置く。
それが、成果を次の仕事へ渡す入口になる。
確認できるターニングポイント|低炎症と高産生を、別々に測った
転機は、2020年のワクチン承認ではない。
2008年、修飾メッセンジャーRNAを細胞とマウスへ届け、炎症の低減だけでなく、RNAの残り方とタンパク質産生を測ったことだ。
1つの成功指標だけを見なかった。
安全側の反応と、機能側の出力を分けた。
2010年には、なぜ産生が増えたのかをPKR活性化低減へ分解した。
成果を再現するだけでなく、次の人が改良できる形へ近づけた。
足りなかった支えの仮説|成立条件の4欄を、節目ごとに更新する
ここからは、現在の挑戦へ転用する仮説である。
節目ごとに、4つの欄を作る。
解けた条件
まだ足りない条件
次に測る量
その工程に必要な人
カリコたちの研究なら、炎症反応の低減は解けた条件へ置ける。
タンパク質産生、安定性、送達は、次に確かめる条件だった。
本人へ「もっと頑張れ」と返す前に、次の条件が別の専門、設備、組織、制度を必要としていないかを見る。
その支えを作れる人
本人は、成果を喜びながら、まだ言えないことを明記する
チームは、安全・機能・安定性・届け方を1つの総合点へ潰さず、別々に測る
リーダーは、最初の成果を広報するだけでなく、次の成立条件へ予算と時間を移す
異分野の専門家は、結果を否定するためではなく、足りない条件を測れる形にする
実装側は、研究室の外にある製造、規制、臨床、利用者の条件を早めに持ち込む
今日できる最小の1歩
いま「できた」と呼んでいる成果を1つ選ぶ。
紙の左に解けたこと、右にまだ足りないことと書く。
右側から、次に数字で確かめられる条件を1つだけ丸で囲む。
その条件を、自分ではなく誰が測れるかまで名前にする。
越えた壁の先で、立ち止まらなかった
炎症を抑えた。
そこで完成と呼ぶこともできた。
まだ薬ではない。
そう言って、成果まで小さく扱うこともできた。
カリコたちは、そのどちらにも置かなかった。
前進は、前進として残した。
未完成は、未完成として残した。
そして次に、どれだけタンパク質が作られるかを測った。
細胞で測った。
マウスで測った。
効いた理由まで、もう1段掘った。
1枚の壁を越えたから、道が終わったのではない。
1枚の壁を越えたから、その先にある道を測れるようになった。
挑戦した事実は、ゼロじゃない。
