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家父長制と私(映画”Black Box Diaries”を見ての感想)

本noteは伊藤詩織さん監督の映画「Black Box Diaries」におけるネタバレを含みます。ご注意ください。



Black Box Diariesがようやく近所の映画館で上映とのことで見に行った。海外まで見に行きたいくらいではあったが、そんなお金はないので心待ちにしていた。
最初、性暴力被害の告発ドキュメンタリーとして見に行ったが(もちろんそうなのだが)、演出や人物達の心情においてとても映画としての完成度が高いと感じたのでメモをつけておく。

1.個人的にグッときた演出

本作品は演出の繋ぎ方や対比構造がとても素晴らしいと感じた。冒頭の暗いトンネルを通過する中から、二股に分かれるシーンと、「顔出しで告発する覚悟」が重なるシーン。そして、ラストシーンの首都高トンネルを抜け光が指すシーンとの繋ぎ。

レイプ事件の告発された側の山口敬之氏の顔は劇中ではなかなか登場しない。中〜終盤で、伊藤氏が自分と向き合うことについて語る時、ネット記事に登場する山口氏の顔はおでこまでしか開示されない。これは、自身が過去の事実と向き合えないことを指していて、終盤になって山口氏敗訴後記者会見シーンでようやく山口氏の顔が劇中に初めて登場する。この時、伊藤氏は山口氏と向き合えており、彼女にとって山口氏の顔を見るということが自身の過去と向き合うことに重なっており、ここもとても秀逸だった。

また、冒頭は桜の花びらが水に流れるシーン(この作品の導入)から始まるが、これも事件が起こった春の桜をなかなか見れない伊藤氏の心情と、その向き合う覚悟みたいなものにも繋がっているんだろう。

2.家父長制から見る捜査官Aとドアマンの対比

本作品の1番の見どころというのは、満場一致でクライマックスの「ドアマンとの電話」になると思う。ここには、大きなカタルシスがあって、私も深く感動したがなぜだろうと考えてみた。

本作品における、性的暴行事件は山口氏によって起こされたもので、伊藤氏は立ち向かう立場にある。山口氏は安倍晋三元首相とも1番距離が近かった記者として有名でもあり、いわゆる権力側、「力の強い者」。そして、伊藤氏は2015年当時はまだ、これからキャリアを築いていく立場のものであることから、「力の弱い者」。つまり、強者と弱者の戦いであり、大枠の構造としては、勧善懲悪に近いものがある。

ただ、これは本作の1番肝心なところを外した見解であると私は思っている。事件当時1人きりだった伊藤氏と様々な人物が関わっていく中で、どういう風に周りの人物が変化していくか、そして伊藤氏が何を得て、何を受け入れていくかの人間ドラマ。これが1番のメインであると感じた。弱者がどうにか戦って、強者に勝利するストーリーであれば、本作のカタルシスが「民事裁判における勝訴」に値する。しかしながら、ドアマンとの電話にカタルシスが置かれるのは、間違いなく捜査官Aの存在が大きい。

捜査官Aは本作における最大のキーパーソンであり、有効な逮捕状が存在しないという当初の警察側の主張の欺瞞を最初に伊藤氏に提示している。そこから、成田空港における逮捕直前中止事件、警察上層部の不自然な動きの解明につながっていくわけで、この人物がいなければ伊藤氏の立場は大きく危うい状況に置かれただろう。

しかしながら、「Black Box」という、本を出す事にしたと伊藤氏がAに電話するシーンはとても印象的。Aは警察内部の人間であることから、本に実名を出すことはもちろんのこと、裁判の証言台に立つと自分の立場が危うくなるため、拒んでしまう。伊藤氏と方向性は同じなのだけれども、立場があることから、「結婚してくれれば話は別なのだけれど」、「ちゃんとご飯食べてる?今度ラーメンを食べに行こう」と飲み会終わりのノリでジョークを飛ばしてしまう。そして、電話が終わるが伊藤氏の複雑な顔。

この捜査官Aはもちろん伊藤氏に協力的であり、善人ではあるのだろう。ただ酔っ払っていたとはいえ、レイプ被害者に対して「言い寄るジョーク」というのは極めて不適切である。また、ここで出された、いわゆる立場を守る・生活の糧を得るという答えが「結婚」に至るのは極めて家父長制的でもある。以前の2人の食事会での、「養う」の答えは必ずしも結婚とは限らないわけだし。つまり、捜査官Aは日本の腐った女性の人権侵害構造(性暴力に対する法規制が甘いことなど)に対して、打ち破ろうとしているのではあろうが、皮肉な事に家父長制の中から答えを出してしまった事に他ならない。そんなの、あまりにも苦すぎるシーンと言っていいだろう。

このシーンと終盤のドアマンに協力をお願いするシーンは、構図が似ているため必然的に重なる仕組みになっている。ドアマンは「ホテル側に止められているが、名前も出していいし、できることならなんでもする」とニュートラルに、さっぱりと答えを出した。ここに対比のカタルシスが来ていると感じ、深い感動を覚えた。

3.家父長制の内面性

人間誰しもフェミニストであるべきである。と私は考えている。これは、女性解放というニュアンスはもちろんのこと、男性も男らしさから解放される観点からである。つまり、男性であっても、女性であっても自分の生き方や幸せを縛る家父長制は打倒すべき存在だと考えているが、本作品から家父長制への見方がやや変わったと思った。

前述した、捜査官Aの電話のシーンを見ているときに、私はAがどうせ「結婚するなら話は別だが」という言葉を言うだろうと、話の文脈から予想できた。しかも、残念な事に鑑賞中はその論理にも納得してしまったが故に、Aは善人なのになぜ伊藤氏は電話を切った後すごい複雑な顔をしているんだろうと感じた。おそらく、私もどこかしらで、「養う=結婚」という、保守的な考え方があったんだろうと今では思う。だからこそ、後で振り返ってその事に気付いたとき自分に深く失望したのを覚えている。

ここで私が大切なポイントと感じたのは、おそらく日本社会において「家父長制」は社会システムの真髄まで染みに染み切っていて、日本で生きてきた以上少なくとも私たちの骨髄に要素を残しているという事である。差別反対を訴える人たちだって、「ネトウヨはIQが低い」などと、差別的な表現を取ってしまうことがある。つまり、自分の信念なんて完璧じゃないということかもしれない。

伊藤氏の父も、伊藤氏に対して「いい男を見つけて、結婚して、子どもを授かり、普通の幸せを」という、日本社会において極めて「普通」なライフプランを提示していた。もちろんこれは、伊藤氏の父が家父長制の悪魔であることを言いたいわけではない。娘を思う極めて善良な人であると思うのだけど、誰だって家父長制は秘めているということなのだと感じた。

皮肉な事に、「娘が”普通に”幸せに幸せになってほしい」という、恐ろしくもピュアで愛に満ちた考え方が、娘と父親の絆に亀裂を入れている。家父長制とは、素晴らしく邪悪なものである。

誰だって、自分の心には信条や信念と相反するモンスターがあるのだと思う。伊藤氏にとっては、「もう痛みに負けて何もかも、自分の命さえも諦める」というモンスターが牙を剥いてしまった。彼女が生き延びて、今こうして私たちに何かを叫び続けているという事の意味を、いつまでもずっと私は噛み締めて生きていかないといけないんだろう。

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