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広島と長崎。原爆投下をしたB-29搭乗員たちのその後


 本日は8月6日。80年前の広島に原爆が投下された日でもあります。
 1945年8月6日と9日、世界の歴史を大きく変える出来事がありました。広島と長崎への原子爆弾投下です。この作戦には、それぞれ異なるB-29爆撃機と乗員たちが関わっており、彼らの任務は人類史上でも類を見ないほどの重みを持っていました。彼らは単に兵士である以上に、歴史の転換点に身を置いた人々でした。
 広島と長崎の原爆投下作戦の概要を振り返りつつ、実際にその任務を遂行した搭乗員たちの戦後の姿をたどってみたいと思います。


1.広島へのエノラ・ゲイとポール・ティベッツ大佐

機首にエノラ・ゲイを付けたB-29

 広島への原爆投下を担ったのは、ポール・ティベッツ大佐(1915〜2007)が操縦するB-29爆撃機エノラ・ゲイでした。名前の由来は母親の名前。
 1945年8月6日、エノラ・ゲイはアメリカ軍基地のあるテニアン島を離陸し、午前8時15分、広島の市街地上空で原爆リトルボーイ(ウラン型)を投下します。即死者は推定7万人。死者数は約14万人にも達します。

生涯謝罪をしなかったポール・ティベッツ氏

 ティベッツ大佐は、自ら原爆を投下すると決めていたそうです。上陸作戦では多くの犠牲が出るため、原爆によって日本人に分別を持たせ、無用な流血を避けられればよいと考えていたのが理由でした。その信念は生涯変わることがなかったといわれています。彼は晩年まで原爆投下の正当性を主張し続け、「戦争を終わらせるために必要だった」との立場を崩しませんでした。

 良心の呵責や謝罪の言葉はありませんでしたが、原爆投下に対する批判や抗議運動の高まりを気にしていた様子もうかがえます。象徴的なエピソードとして、1983年、零戦のエース・坂井三郎氏がアメリカの式典で「原爆投下の道義的責任はトルーマンにある」と語り、「命令されれば自分も実行した」と述べた際、ティベッツは涙を浮かべて坂井氏と握手を交わしましたとされています。
 ティベッツ氏は2007年、92歳で死去しました。晩年、原爆投下に対する抗議運動を懸念し、友人に「葬式は行わず、墓石も造らないでほしい」と頼んでいたといいます。

 同じくエノラ・ゲイの航法士であったセオドア・ヴァン・カークは、戦後は民間人として生活を送りながら、講演などを通じて自身の経験を語りました。彼もまた、戦争を終結させるための行動だったと信じており、苦悩や後悔というよりも、歴史的責任を冷静に捉える姿勢を見せています。

リトルボーイ

2.長崎へのボックスカーとチャールズ・スウィーニー少佐

機首に描かれたボックスカー

 一方、長崎への原爆投下は、チャールズ・スウィーニー少佐(1919〜2004)の指揮するB-29通称ボックスカーによって行われました。
 1945年8月9日、当初の目標は小倉でしたが、悪天候により第二目標である長崎に変更され、午前11時2分、ファットマン(プルトニウム型)が投下されました。即死者は推定4万人。死者数は約7.5万人にも達します。もし当初の予定の小倉だっとしたら、広島に近い規模の犠牲者が出た可能性があります。

 長崎は日本でも最大のカトリック教会があり、長崎に住んでいた多くのキリスト教徒が犠牲になったことは、欧米でも一部で批判や良心の呵責を呼び起こしました。異教徒には残虐かつ冷淡な歴史を持つキリスト教徒には、なんとも皮肉な話です。

ファットマン

 原爆を組み立てた整備士チームは原爆の外側に自分の名前を書き、「あなた方への贈り物」、「裕仁への二度目のキス」といった日本人へのメッセージを書いた者もいたとのこと。原爆の先頭部には、ステンシルでJANCFUと書かれてました。これは、Joint Army-Navy-Civilian Fuckup、「陸軍、海軍、市民、まとめてくたばれ」の略です。そう、民間人もまとめて死ねというメッセージです。

長崎を訪れたチャールズ・スウィーニー氏

 チャールズ・スウィーニー氏も原爆投下を正当な軍務と信じ続け、良心の呵責については語らず、謝罪もしていませんでした。その一方で、犠牲者への人間的な哀悼は忘れていなかったとも言われています。
 彼は2004年に死去しますが、1960年代にローマ法王ヨハネ23世に謁見し、被爆地への支援を要請していたことが、家族の証言にて明らかになったとされています。
 その内面の葛藤が彼の沈黙や断固とした態度に表れていたのかもしれません。

 私は瓦礫の中に立ち尽くし、戦争で命を奪われた無数の人々を思い、深い悲しみに包まれた。
(中略)
 自国・他国を問わず、命はかけがえのないものであり、戦争の残虐性に誇りや快感を覚えたことは一度もない。しかし、爆撃に対する後悔や罪悪感は抱かなかった。なぜなら、破壊の苦しみは日本の軍国主義と帝国的思想の結果であり、真に責任を負うべきは、国民を犠牲にした日本の軍上層部であると信じていたからだ。

著書『私はヒロシマ、ナガサキに原爆を投下した』284頁より引用

 ボックスカーの副操縦士チャールズ・オールバリーは、民間航空会社に勤務しながらも、自身が目撃した「きのこ雲」の記憶を忘れられなかったと語っています。彼は戦後、長崎を訪れる機会もあり、その際には原爆の悲惨さに衝撃を受けたことを率直に述べています。

 また、エノラ・ゲイとボックスカーの両方に搭乗した唯一の人物、ジェイコブ・ベサーは、戦後サンディア国立研究所に勤務し、科学者としてキャリアを積みました。
 彼は任務の遂行に誇りを持ちつつも、原子力の扱いには常に慎重であるべきだと警鐘を鳴らしていました。

3.「原爆投下が戦争を終わらせ、多くの命を救った」は本当なのか?

 アメリカが主張する「原爆投下によって100万人の兵士の命を救った」という話は、本当でしょうか。日本への上陸作戦でこれから100万人が死ぬようなことを想定した軍事計画など、政治的に承認されるはずがありません。
 実際、沖縄戦ではアメリカ兵の死者は約1万人でしたが、それだけでもアメリカ国内では激しい批判が巻き起こりました。
 日本本土の上陸作戦(ダウンフォール作戦)では死者数は4、5万人、最大で25万人が死傷者になるのではと予想されていましたので、数字がどんどんと膨らんだのは、原爆投下の正当化のためのプロパガンダではないかという懸念が拭えません。

ダウンフォール作戦の全体図

 また、1945年8月8日にソ連が日本に宣戦布告し、満州に侵攻したことが、日本政府がポツダム宣言を受諾する決断を下す決定打となったと、多くの研究者が指摘しています(防衛省防衛研究所戦史部も同様の見解)。
 この点からも、「原爆が戦争を終わらせた決定的要因だった」という通説には疑問の余地があります。
 本当に降伏させることが目的なら1発目で衝撃を与えて2発目を投下するまで判断を待つという選択肢もあったはずです。あまりにも早いので、実験したかったのが真相かもしれません。実際のところ、アメリカは2種類の異なる原爆の威力と効果を確認するために、広島と長崎で“実験的に”使用したと見る意見も多いことも事実です。

 B-29が撒いたビラは、都市の無差別爆撃の警告と同時に、民間人に対する脅迫的内容を含んでいたことは事実です。それを根拠に「原爆投下は国際法違反」とする意見は存在し、特に石原莞爾や一部の研究者、識者がそのように主張しています。
 しかし現時点では、トルーマンが戦犯として国際的に認定されたことは一度もありません。

 B-29が撒いたビラ

 竹田恒泰氏は、日米の真の友好のためには、アメリカが原爆投下の過ちを認め、謝罪することが不可欠だと主張しています。広島の慰霊碑の言葉も本来は米国が誓うべきだと述べ、東京裁判での石原莞爾の発言や、原爆投下が終戦を早めたという説への否定を通じて、歴史の見直しと和解の重要性を訴えています。

 今年のアメリカの世論調査では、原爆投下を「正当化される」と答えた人は35%、「されない」は31%、「分からない」が33%でした。
 戦争終結後は「正当化される」が85%だったのが85→56→35%と年々変化してきたいるのは原爆や放射能汚染の恐ろしさが認知されていた証拠でもあるのかなと思います。アメリカではアトミック・ソルジャーといって核実験演習に参加して被爆した兵士が25万人もいたとされています。恐ろしさを使う側もよく分かっていない証拠ですね。

 高齢層ほど肯定的で、若年層では否定的な傾向が強まっています。核兵器についても、69%もの多くの人々が「世界は安全でなくなった」と回答しており、昔と比べると、原爆投下を肯定する意見は着実に減少し、特に若い世代では否定的な見方が増えています。
 核兵器への支持も弱まり、倫理的・人道的観点が重視されつつあります。


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