映画『ストリート・キングダム』の背景を理解するために──日本のオルタナティヴ・ロック小史
話題の映画『ストリート・キングダム 自分の音を鳴らせ』の公開まであと1ヶ月ちょっとになりました。
日本初の本格的なパンク・ムーヴメントだった「東京ロッカーズ」を描いたこの作品、いち早く試写会で鑑賞した感想は去年、以下に書きました。
これを書いたあとも何度か見返しましたが、飽きるどころか見るたびに魅力を感じています。私のようなリアルタイム世代だけでなく、当時を知らない人たちにもアピールする作品だと思います。映画公開前日には、監督の田口トモロヲさん、脚本の宮藤官九郎さん、主演の峯田和伸さん、当時「フレッシュ」のヴォーカリストだった高木完さんを交えてのトークショーの司会もやります。
今回は当時を知らない若い人たち向けに、「東京ロッカーズ」などの日本のパンク・ムーヴメントがいかに起こったかという歴史的な流れを概説した文章を再掲します。1998年にミュージックマガジン社から刊行された『NU SENSATIONS 日本のオルタナティヴ・ロック 1978-1998』(小野島大・監修)という本に掲載されたものです。タイトル通り日本のオルタナティヴ・ロックを概観したディスク・ガイド本で、その中の日本のオルタナ・ロックの流れを追った通史の一部です。1978年まで、つまりパンク〜東京ロッカーズまでの「日本のオルタナ前史」と「東京ロッカーズ期」(1978〜1982)を述べた2パートを、今回は転載します。今から30年近く前に書いた文章であり、いろいろ間違いや勘違い、認識不足も目立つ未熟な文章ですが、あえて当時のままの形で再掲します。映画の背景を理解する手立てになれば幸いです。なお本文以外の見出し等は当時の編集担当がつけたものです。
なお『NU SENSATIONS 日本のオルタナティヴ・ロック 1978-1998』は既に品切れになって久しく、古本屋を探すしか入手の手段はありません。またこの続き、つまり1982年以降1998年までの流れを追った文章も当然ありますが、それはまた希望があれば転載します。(c) Dai Onojima

[PRE-SENSATION 〜1978]
パンク登場につながっていった日本語ロック初期のオルタナティヴ
日本における「オルタナティヴ・ロック」はどのように生まれ、発展してきたのか。本書では78年ごろに勃興した東京ロッカーズ周辺の動きをその嚆矢としたが、もちろんそれ以前にもそうした動きがなかったわけではない。というより、ロックという音楽自体が、そもそもオルタナティヴなものなのだという考え方もありうる。
つまり東京ロッカーズなどのパンク/ニュー・ウェイヴが既存のメインストリームのロックへのカウンターとして登場したのと同様、ある時期までの日本のロックは歌謡曲というメインストリームに対するオルタナティヴであったという見方も成り立つわけだ。ロカビリーやエレキ・ブームの時代はおくとしても、60年代後半に一世を風靡したGSブームが、それまでの歌謡曲的な流れに抗するオルタナティヴとしてのロック音楽の発端である、とする考え方は一面では正しい。
だがGSは現象的には既存の歌謡曲へのオルタナティヴであったとしても、音楽的にもそうであるとは言いがたかった。当時の多くのGSのミュージシャンにとってロックは、自己主張や自己表現というより英米の音にいかに近づくかという段階でしかなく、海外の物まねではないオリジナルな音を作ろうとしたら、既存の職業作曲家の手による歌謡曲になってしまう、というジレンマを抱えていた。だから、一部のB級GSが結果として『バック・フロム・ザ・グレイヴ』や『ナジェッツ」のようなガレイジ・パンク的世界を表出していたとしても、総体として60年代までの日本のロック=GSは、オルタナティヴであったとは断じがたい。
もちろん、GS以外のロックもあった。灰野敬二や水谷孝の裸のラリーズといったアーティストは、67~68年ごろにはすでに活動を開始しており、後に発掘された音源などから、そのころから彼らがシーンの状況(歌謡曲と、海外の物まねロックと、歌謡曲化したロックが併存する時代)から孤立したオルタナティヴな表現者であったことが了解できる。だが当時はあくまでもアンダーグラウンドな活動にとどまり、一般への影響は、この時点では顕在化していない。
同時代の英米のロックは、60年代後半からのヒッピー、公民権運動、学生運動といった反権力・反政府運動の高場とパラレルに発展し、カウンター・カルチャーの象徴として若者の支持を受けるようになった。そして、日本におけるカウンター・カルチャーとしての若者音楽の役割を果たしていたのは、GSなどのロックではなくフォークだった。”新宿フォーク・ゲリラ”などの動きは、フォークが当時の反権力運動とリンクして、若者の主義主張を反映する重要な抵抗文化のひとつとなっていた例である。だから、メジャーの音楽資本に対抗して設立された日本で初めての本格的インディ・レーベルがフォーク専門のURCだったのは、ある意味で当然だったと言える。
URCとは“アングラ・レコード・クラブ"の略。60年代後半のプロテス
ロテスト・フォークの盛り上がりに呼応し、高石友也、岡林信康ら、当代一流のプロテスト・フォーク歌手を擁していた高石事務所が設立した。彼らのラディカルな主張を、レコ倫の規制を受けることなく自由に音盤化していこうというものだった。
だが初期URCのプロテスト・フォークの数々は、歌詞の直截なメッセージ性のみに依拠する表現の深みのなさや、生ギター一本で弾き語るだけの音楽的な単調さなどで、すぐ限界にぶちあたる。若く野心に満ちたURCのアーティストたちは、やがてプロテスト・フォークという枠を超える新しい試みを始め、それが、アシッド・フォーク的な方向性で歌詞のメッセージ性を超えようとした遠藤賢司や南正人、フォークという枠を取り払って音楽的な幅を広げようとしたはっぴいえんどらであった。これに先駆け『ジャックスの世界』で衝撃的なデビューを飾ったジャックス、京都のアングラ・フォーク出身の異才集団フォーク・クルセイダーズ(後にサディスティック・ミカ・バンドを生む)、日本的土着性をきわめて歌謡曲でもフォークでもない異世界を作り出した三上寛(後に灰野敬二や頭脳警察のトシとバサラというバンドを組む)なども、それぞれのやり方でフォークの限界性を突破して、まったく新しい表現を獲得しつつあった。それらはひとくくりすれば“ロック”という言葉で集約できる音楽性であり、プロテスト・フォークが既存の商業音楽に対するカウンターであったなら、そこからもさらにハミだしていった、まさにオルタナティヴそのものであったと言えるだろう。それは同時に、海外の模倣を脱することができず結局は歌謡曲と同質化していったGS=それまでの日本のロックに対してもオルタナティヴな、いわば真にオリジナルな日本のロックの登場でもあった(しかしはっぴいえんどの音楽的方法論はその後の、ロックというよりニュー・ミュージックや歌謡曲に希釈して援用され、とてもオルタナティヴとは言いがたいものになってしまった)。
プロテスト・フォークの降下は70年安保の敗退にともなう学生運動の衰徴に連関しているのだが、その反逆・反骨の精神は、ロックの直裁で性急な暴力性と結びつき、より扇情的で衝撃的な破壊力を放つ頭脳警察という鬼ッ子を生む。フランク・ザッパの曲名からバンド名をとったこのバンドは、結成当初から直線的な攻撃性だけでなくある種の諧謔精神があったわけで、リーダーであるパンタが単にパンクの先駆けというだけに止まらなかったのは、ソロとしての幾多の傑作を聴いても容易に理解できるはずだ。
頭脳警察は、いわば「遅れてきた抵抗文化としてのロック」だったが、URCに代わって吉田拓郎などの産業フォークが人気を集めるようになった70年代では、その存在は異端というしかなかった。70年代半ば以降の日本のロックは、頭脳警察のような思想性を抜きにした。若者の<理由なき反抗>の象徴、言い換えれば「不良の音楽」としての側面を強めていく。その大きなきっかけとなったのは言うまでもなくキャロルだが、オルタナティヴ・ロックという観点から見れば、村八分の登場 (デビュー・ギグは71年)こそがパンク以前の日本のロック史で最大の事件だったと断言できる。存在感、オリジナリティ、ステージ・パフォーマンス、演奏力なども含め、彼らはそれまでの日本のロックの流れから完全に隔絶していた。いわば彼らの存在自体が、それまでの日本の音楽すべてに対するオルタナティヴとして作用したのだ。個人的にも当時見た彼らのライヴはもっとも衝撃的な音楽体験のひとつだった。村八分がもたらしたものは大きく、外道、サンハウス、ルージュ、紅蜥蜴といったバンドが跡を襲い、それはパンクの登場へと繋がっていく。
しかし頭脳警察同様、村八分らの流れもあくまで傍流(オルタナティヴ)に過ぎなかった。キャロルが登場する72〜73年あたりまでは、ロックそのものがオルタナティヴとなりえた。キャロルの商業的成功をきっかけにロックの大衆化が始まるわけだが、それはつまりオルタナティヴではない”メインストリームとしてのロック“という概念が登場したことを示している。たとえばチューリップ、ダウン・タウン・ブギウギ・バンド、ツイスト、原田真二、サザン・オールスターズ、ゴダイゴといった人たちは、はっぴいえんど一派の一部と産業フォークが合流した<ニュー・ミュージック>の動きと渾然一体となって、歌謡曲に飽き始めた一般的若者の人気を集めるようになる。
また一方ではテクニック至上のプレイヤー指向のミュージシャンがロック畑からも輩出し、海外の動きとも呼応してフュージョン全盛期へと突入いく。
つまり、それらすべてが歌謡曲に代わる“多数派”=メインストリームしての新たな座標軸となった。次章以降に登場する、本書で言うところ<オルタナティヴ・ロック>とは、そうした価値観へのカウンターとして、まずはあらわれるのである。(文・小野島大)
1978-1982
“苛立ち”を超えて生まれた日本のストリート・ロック
そこを覆っていたのは、たしかにある種の「苛立ち」だった。『ポパイ』あたりが先導するアメリカ西海岸風俗への楽観的な憧れとか、ニュー・ファミリーなどの中産階級幻想とか、カタログ文化全盛のブランド志向とか。なにより決定的だったのは、かつてあれだけスリリングで刺激的だったロックが、すっかりつまらないものになっていたことだ。代わって猖獗をきわめていたのはほかならぬその中産階級幻想の音楽=ニュー・ミュージックだった。ニュー・ミュージックではないロックもそこにはあったのかもしれないが、ヤマハのコンテスト経由で出てくるような連中やスタジオ・ミュージシャン崩れが野合したバンドになんらかの希望を託すほど、ぼくはおめでたくなかった。
きっかけはたしかにニューヨークやロンドンの動きだったと思う。だがほかならぬこの東京にも、下地はあったのである。いま目の前を跋扈するメインストリームとしてのロックではない、そうした座標軸から外れた自分たちのための音を求める、という姿勢は共通していたのだ。それまで一方的に受容し、コピーし、あがめ奉るだけだった海外のアーティストたちと、たしかに<彼ら>は対等の立場で併走していた。海外からの影響がなかったはずはない。だが聴き手として初めて、同じ時代に、同じ場所で呼吸しているアーティストたちに出会ったという鮮烈な実感があった。その実感は、書斎派のぼくを<実践>に走らせるほど強力だった。つまりレーニンに倣って言えば「フリクションを聴くよりフリクションをやった方が面白い」ということに、ぼくは気づいたのである。それこそがパンクという現象だった。
点から線へ──東京ロッカーズ、始動
紅蜥蜴は72年ごろから東京のアンダーグラウンド・シーンで活動していたバンドだった。彼らはヴェルヴェット・アンダーグラウンドやストウージズ、ドアーズなどに影響を受けた音楽を演奏していた。だが70年代半ばの東京でそんな音楽をやっている連中はほかにいなかったから、当然のように彼らは孤立していた。
同じように孤立していたバンドに、3/3という連中もいたが、重要なのは、同様に孤立していた連中が、おそらくは世界中に点在していたことである。そうした点の動きが線になり、最初に突出したのがニューヨークであり、続いてロンドンだった。だが<外来文化>としてのパンクがおぼろげに伝えられたところで、そう簡単に状況が変わるわけもなかった。
観客動員もなく、いつまでたっても好転しない状況に3/3は解散、メンバーだったレックとヒゲは渡米。77年3月、レック27歳のときだった。一方の雄、紅蜥蜴は地道に東京での活動を続け、機を待つ。
手元には77年前後の紅蜥蜴の録音を集めたアルバム『けしの華』がある。後年の彼らを想起させるところがなくもないが、全体に非常に中途半端な印象を受ける。内奥にどろどろと渦巻くものをどのように表出していけばいいのか、彼らのなかでまだ迷いがあったのだろう。肉体感覚の欠如した脆弱な演奏はいかにも自信なさげで、当時の彼らを取り巻く状況を反映しているように思える。
だがなにかが確実に、そして急速に変わり始めていた。セックス・ピストルズのアルバム『勝手にしやがれ』が発売されたのは77年10月。したたかなショックだった。これこそが自分たちの世代の音楽であるという直感があった。パンクの理念からすれば、それらをただ受容するだけではだめだった。自分自身で何かを始めるべきなのだとパンクは教えていたのである。機は熟し始めていた。
78年3月、レックとヒゲが帰国、即座にフリクションを結成。デビュー・ギグは4月15日、渋谷・屋根裏の昼の部、共演は田中唯士率いるS-KEN。彼らはギグ終了後、その足で北区公会堂に向かう。紅蜥蜴周辺のミニコミ『ロッキン・ドール』主催のコンサートだった。元3/3のヒゴヒロシの結成したミラーズ、ミスター・カイト、紅蜥蜴、そしてフリクションなどが初めて同じステージに立ったのである。翌月、田中唯士らが六本木にS-KENスタジオをオープンさせ、そこは東京のパンク・シーンの拠点となった。テレ朝通りのビルの地下を下っていく狭いスペースだったが、いかにも隠れアジト的な雰囲気があった。オープニング・ギグに集まったフリクション、S-KEN、紅蜥蜴(この日を最後に心機一転リザードと名を変えた)、ミスター・カイト、ミラーズの5バンドは、共闘して活動を進めることになり、「Blow Up!Tokyo Rockers」のタイトルでシリーズ・ギグをおこなうことになった。すなわち、日本のロック/オルタナティヴ史上に残る「東京ロッカーズの時代」の始まりである。彼らの開けた風穴から有名無名とりまぜ、ありとあらゆるバンドが飛び出し始めた。音楽的な新展開だけではない。それまで音楽などやったこともない──ぼくのような──連中が、彼らに刺激されへタクソなバンドを始めていた。ボーイズ・ボーイズなどの女性バンドもあらわれた。つまりそれは、完全に自由で開かれた日本のストリート・シーンの始まりでもあったのだ。
冷静に聴けば、それらのすべてが良かったわけでは、もちろんない。というより、本当にすごいと感じたバンドなどごく一部だったかもしれない。だが家に閉じこもってどんなに立派なレコードを聴いているより、ボロボロのライヴ・ハウスでグショメチャのバンドを見たり演ったりする方がよほど面白かったのだ。
マイナー、ナイロン100%といった新しい拠点も生まれた。マイナーは吉祥寺にできたライヴ・ハウスで、第3世代と言われた若いパンク組と、佐藤隆史(マイナーのオーナー)、灰野敬二、白石民夫、山崎春美、工藤冬里といったノイズ/フリー・ミュージック組が競い合うように夜な夜な面妖な雑音を発していた。汚くて狭かったが、屋根裏やロフトより自由な雰囲気があった。ナイロン100%は渋谷センター街奥にあった喫茶店で、プラスチックス、ヒカシューといったテクノ・ポップのバンドの拠点となった。これらにマンドレイクというキング・クリムズン風のプログレ・バンドを前身とするP-モデルを加えた3バンドが、テクノ・ポップ御三家と言われた。
<東京ロッカーズの時代>は、翌年8月に新宿ロフトで1週間にわたっておこなわれ東京、関西、名古屋の代表的なパンク/オルタナティヴ・バンドがこぞって出演したイヴェント「ドライヴ・トゥ・80」でピークを迎える。
東京ロッカーズがもたらしたものは音楽だけではない。ゴジラ・レコードを皮切りとするインディペンデント・レーベルの復権(次章で詳述)。『ロッキン・ドール』『ウォッチ・アウト』『チェンジ2000』といったミニコミ、ファンジン。また手作りのチラシやポスター。すべて、パンクのもたらしたDIY精神の賜であり、多数派に与せず自分の表現を貫こうとするオルタナティヴ精神のあらわれだった。
日本ニュー・ウエイヴの多様な展開
80年代に入り、フリクション、リザードなどがメジャー進出し、東京のパンク・シーンはひとつの区切りを迎える。とくにリザードのモモヨのヘロイン不法所持による逮捕は大きな転機となった。長いアンダーグラウンドでの活動ののち、あまりに急敷に突出したリザードを取り巻く状況は、ただの聴き手に過ぎなかったぼくにもわかるほど、不気味な軋み音を上げていた。アンダーグラウンドのアーティストがメジャーに進出する際の軋轢と矛盾を、リザードは一身に背負ってしまったのである。
リザードの悲劇は後進のバンドにも微妙な影を落とす。とくに東京ロッカーズのあとの主役に躍り出たスターリン=遠藤ミチロウと、財団法人(暗黒大陸)じゃがたらは、ともに当初は汚物と体液にまみれたスキャンダラスなステージで話題をまいたが、次第に対照的な道を辿る。
スキャンダルを政治的に利用して、きわめて戦略的かつコンセプチュアルな活動で急速に知名度を高めたスターリンは、アルバム『トラッシュ』を3000枚売り切り、インディであることのメリットを最大限利用し尽くして、メジャー入りした。まさに集団熱狂というにふさわしい彼らのライヴは、この時代ならではの狂騒した空気を強烈に感じさせたものである。
一方じゃがたらはスキャンダラスなステージをいち早く脱し、アフロ・ビートを導入した画期的な傑作『南蛮渡来』(82年)を発表、メジャーを拒絶しインディペンデントであることに徹底的にこだわりながら優れた音楽を作り続けることが可能であることを示した。だがじゃがたらの象徴・江戸アケミは翌年秋、精神のバランスを崩し入院してしまった。モモヨにしろアケミにしろ、この時代の優れたオルタナティヴ・ミュージシャンは、つねにギリギリの崖っぷちを歩いているようなものだった。
執筆者であるぼくの在住地の関係のため、この通史がどうしても東京中心の記述になってしまうのはご承知いただきたいが、もちろんこの間、東京以外にもパンク〜オルタナティヴの動きは起こっていた。
関西には、東京圏文化への反発もあり、東京ロッカーズの影響から逃れた独自のシーンが展開していたようだ。78年ごろからSS、腐れおめこ(後のINU)、アーント・サリー、ウルトラビデ、らせん階段(後の非常階段)といったバンドが登場し、シーンを盛り上げていった。当時の関西の詳しい状況に関しては、別稿の山本精一のインタヴューを参照していただきたいが、個人的に当時ライヴを見たバンドでは、まだ十代だったINUの町田町蔵の挑みかかるような目つきと痙攣したような動き、フューの突き刺すようなヴォイスなどが印象深い。80年代に入るとINUのギタリストだった林直人が設立したアンバランス(後にアルケミーに発展)やゼロ、かげろう、AAといったレーベルが登場し、中央に依存しない関西独自のインディ・シーンが完全に確立した。
また、70年代のサンハウス以来のビート・グループの伝統を受け継ぐ若いバンドたちがパンクの洗礼を受け、パワー・アップしたのがルースターズやロッカーズらの博多組である。東京や大阪のバンドにはない直情さが魅力的だった。
YMOについても述べておこう。本書で扱うかどうか最後まで迷ったアーティストである。元はっぴいえんど/ティン・パン・アレイの細野晴臣、完サディスティックスの高橋幸宏、芸大作曲科の学生でスタジオ・ミュージシャンだった坂本龍一という3人のアーティストが集まって、世界市場で通用するディスコ・ヒットを作るために結成されたというYMOは、もちろんストリート・ミュージックでもインディペンデント・アーティストでもなかったし、当然オルタナティヴであるはずもなかった。だが、小学生まで巻き込んだ未曾有のメガ・セールスをあげる一方で、メディアのトリック・スターとして80年代前半のサブ・カルチャー状況の最前線に立ち、その人気のピーク時に『BGM』『テクノデリック』という2枚の実験的かつ野心的な傑作を送り出し、またYENレーベルというマニアックなレーベルを設立してゲルニカ/戸川純を始めとする優秀なニュー・ウェイヴ/オルタナティヴ・アーティストを生んだ彼らの活動は、いわばメジャーの最前線で高い商品性をキープしながら、いかにオルタナティヴな精神を作品や活動に盛り込んでいくかという果敢で先駆的な実験だったのかもしれない、とも思える。それは現在のメジャー・アーティストまで一貫した課題だ。
単なる”若者の反乱”にあらず
パンクはニューヨークで生まれた。しかしようやくベトナム戦争の後遺症から立ち直ったばかりのアメリカは、パンクの性急な変革の意志を広く受け入れる状況になかった。だが大西洋を渡り、当時不況のどん底で若年層の失業率が10%を超えていたというイギリスでは、文化状況そのものを根底からひっくり返すような革命となった。つまりイギリスにはパンクを生み育む社会的必然があったが、アメリカにはなかった。見方を変えれば、アメリカのパンクは音楽的欲求が生み、イギリスのパンクは社会的欲求によって育てられたという言い方もできる。
東京ロッカーズを生み育んだのは社会的な不満や欲求というより、音楽的なフラストレーションが強かった。社会への不平不満を申し述べるにしても、直接的な政治的アジテイトではなく、もっと個的な閉塞状況を歌ったものが多かったのである。70年代以降、権力側の一億総中産階級化政策によって、解決すべき問題も克服すべき課題も対峙すべき敵も、社会・国家体制などの外部ではなく個人の内部や身の回りの人間関係へと求められていく状況では、イギリスのように政治的・経済的な不満が表現のモチベーションにはなりにくかった。だから東京のパンクは当時のメインストリームのロック状況に対するオルタナティヴという性格が強かったはずだ。その意味で東京ロッカーズたちはニューヨーク・パンクに近い立場にあったと言えるし、単純な不平不満の爆発といったパンクの類型的イメージや、プロテスト・ロック的なメッセージの直接性からかけ離れたクールで文学的な視座を最初から獲得しており、定型にとらわれない音楽的な豊饒さも持ち合わせていたのである。それは彼らが、ミュージシャンとしてそれなりのキャリアを積んだベテランが多く、年齢的にも高かった(一番年下のリザードで、当時24~25歳ぐらい)ことも関係している。
だが、古い時代を打ち壊し新しい時代を切り開いていくのは、いつでも怖い者知らずの無知で無鉄砲な若者たちである。実際、東京ロッカーズの名古屋公演で前座をつとめ、「ドライヴ・トゥ・80's」にも出演したスタークラブのヒカゲ(当時20歳)は、東京ロッカーズたちについて「俺らから見ればおやじだったよね……アダルトな音楽をやっている感じだった」と冷めた口調で語っている。すでに次の世代の時代は目前に迫っていた。
蛇足になるが、ぼく自身のことを書いておく。東京ロッカーズ、とりわけフリクションの圧倒的なライヴに衝撃を受け、なにかをやらねばという焦燥感に駆られてバンドを結成し、マイナーやスタジオ・マグネット(前S -KENスタジオ)や屋根裏でライヴを重ねていたのは、80年前後のわずか数カ月のことに過ぎなかったが、それまでの聴き手としての長い経歴が色あせてしまうほどの刺激的な体験だった。あとにも先にも、そんな気分になったのはそのときだけだったし、それを許容してしまうような自由なムードがあった。いまこんな仕事をやっているのは、その経験と無縁ではない。本当に面白い、スリリングな時代だったのだ。(文・小野島大)
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