映画『バックルームズ』考察 用途を失った人間と家具
2026/09/13
「クラークの「家」 赦しの儀式」追記
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話題の映画「バックルームズ」を2回見た。
とにかくこの映画はシンボリズムが多用されていてキャラクターの深層心理の描写が素晴らしい。胸を打たれた場面がいくつかあったので、自分なりに印象に残ったところを書き残しておこうと思う。
※映画『バックルームズ』のネタバレをフルに含みます!
クラークという男の傲慢さと脆さ
いくつか海外の考察を見てみたがクラークはいつも周りのせいにする他責主義と書いてあるし、作中で実際にメアリーもそう言ってる。でも初見で私はその発想がなかった。まずはクラークは本当に他責なのかという点から掘り下げた。
今回冷静に見て、クラークはとにかく本心を誤魔化すのが上手いと思った。本音を言ってから(ブレーカーが変になってるのに気づかなかった)自責して笑って誤魔化す(いや、自分が何もわかってないからかも〜)。会話中、すぐにはぐらかすので本音がわかりづらい。「自虐で先手を打って傷つくのを防ぐコミュニケーション」の卑怯さと、それゆえに周囲を巻き込む構造ができている。自分を可哀想に見せるのがとても上手い。よく言えば人間臭さがある。
そういった身の振る舞い方が彼を他責に見せているのだと思うが、改めて観察してみて、私には「自分の弱さを知っていて、急所を傲慢さと自虐で必死に隠している人間」だと思った。(役者さん、すごい…)
そしてあのバックルームズの「家」のシーンを見ると、彼の問題はもっと深いところにあると感じる。後述。
夢の不実現と居場所というテーマ
クラークの根っこの問題は、建築家になるという夢が叶わなかった現実を、彼がいつまでも受け入れられていないということ。彼のエゴと自己肯定感が全てそこにつながっているので、自分がしがない家具屋になったと認めるのは自己の崩壊に等しいのだ。
だけど冷静に考えると、嫁であるバーバラといるかぎり、彼の夢は永遠に叶わない。なぜならバーバラが弁護士を目指して大学に行く(しかも今は休学している)かぎりクラークはそれを支えて家具屋として働くしかない、というか彼がそう思っているからだ。それが沸点となり、嫉妬や苛立ちや焦りといったあらゆる怒りが彼の中で煮えている。
クラークはこのように、建築家になるという夢=居場所、家という安全地帯=居場所という、現実と精神のダブルで居場所を失っている。
彼がバックルームズに惹かれた理由はそこにあると思う。バックルームズに一人でいて、家具やスティルライフと過ごす限り彼はアーキテクト=王=神になれる。誰も彼を非難しないし、彼の足を引っ張らない、彼が失敗しても誰も馬鹿にしない。
このようにバックルームズが精神と現実の「家」=居場所となったため、クラークは戻れなくなってしまった。
補足:クラークのほしかったもの
私がクラークにすごく同情するのはここで、クラークはどこにも居場所がなく、怒りっぽくて偏屈で感じが悪い「回路」の持ち主なので友達もいないし、何よりも夢を叶えられなったことを誰よりもよくわかっているのは自分自身だ。深いところでは今の自分に価値がないのをわかっているし、情緒不安定なので周囲の人も突き放し、孤立している。
でも彼が何よりもほしかったのは「そんな自分をありのまま認めてほしい」ということだったのが終盤にわかる。自分は悪くないと言ってほしい、こんな自分でも存在していいと言ってほしい。これは「助けてほしい」「生きていていいと認めてくれ」という叫び。
バックルームズのスティルライフや家具にクラークは共鳴した。なんならバックルームズというおかしな「回路」をもつ空間にさえ共感した彼は、バックルームズを自分自身だと思ったに違いない。そして私はそんな彼に哀れみを感じ得ない。あるいは無機質なものたちのように、自分も生きていいのだと言ってほしい…というのは、あまりも矛盾していて人間臭い。
クラークの「家」 赦しの儀式
クラークがバックルームズの「家」の中でメアリーと対峙し、序盤に行ったセラピーの演技を繰り返す場面が、私にはどうしても切ない。
あれは、クラークがあの場面を作るためにメアリーを誘拐したのではないかと思っている。彼がどこまで自覚的だったのかはわからない。でも、あの場面を見ていると彼はメアリーに何かをしてほしかったというより、メアリーに「あの役割」をしてほしかったのではないかと感じる。
つまり、彼は赦しの儀式を行いたかったのだ。
繰り返しになるが、クラークが一番ほしかったのは「あなたは悪くない」「そのままでいいんだ」「ここにいていいんだ」と言ってもらうことだったのではないかと思う。
建築家になれなかったこと。家具屋として働いていること。妻に嫉妬していること。怒りっぽくて、傲慢で、周囲を傷つけてしまうこと。自分でも自分に価値がないと思っていること。そういうものを全部ひっくるめて、「それでもあなたは存在していい」と認めてほしかった。
でも、クラークは普通に誰かに助けを求めることができない。自分の弱さを見せることもできない。だから、バックルームズという自分だけの「家」の中で、メアリーをセラピストにして、あの場面を再演する。自分を救うための場面なのに、そこでも彼は自分で舞台を作り、自分で相手を連れてきて、自分の望む役割を演じさせている。なんて傲慢で、哀れな男だろう。
彼は赦しの儀式によって、自分自身を解体しようとしているのだ。でも、その解体作業さえ、自分のやり方で、自分が主導権を握って行おうとする。赦されたいという願いはとても切実なのに、その願いを叶えようとする方法が、彼の傲慢さから逃れられていない、その矛盾もまた彼らしい。
クラークは、メアリーに自分を理解してほしかったんだろうか?自分のことを悪い人間だと決めつけず、ただ「そのままでいい」と言ってほしかったのだろうか。そのために彼はメアリーを誘拐し、自分の作った家の中に閉じ込めて、セラピーの再演をさせるのだろうか。
「俺は悪くないと言ってくれ」…私はあのシーンが作中で一番好きだ。本当に悲しくて、切実な叫びだから。
バックルームズは、彼を王にする場所であり、誰にも否定されない居場所であり、そして自分自身を解体する場所でもあった。そして彼がそこで本当にほしかったのは「こんな自分でも、ここにいていい」と言ってもらうこと、それも生きた人間に。地下を見つけたと言った時に信じなかったセラピストに、メアリーに。
だからあの「家」で行われる家族ごっこは、クラークにとっての赦しの儀式だったのだなと思った。
モノの本来の用途と逸脱 家具と人間
家具というと何を思い浮かべる?椅子?テーブル?……とにかく家具とは「人間に使われるもの」。クラークは人を使う立場が一番自分らしくいられる(従業員をコントロールしている)し、それができない今の家庭において、自己肯定感が崩壊している。しかしバックルームズの家具は誰にも使われず、ただそこにあるだけだ。中にはめちゃくちゃな形で存在して、「座る」「収納する」という本来の用途を完全に失っているものもある。でもバックルームズはそんな家具を受け入れ、慈しむように生み出し続けている。
人を使う、人に使われるという価値観の外にクラークは禅的な悟りを見出したように感じるし、その一方で、大人しく彼の言うことをきくスティルライフや家具たちにはそれはそれで好都合な居心地の良さがあったように思う。
社会的な用途(価値)を失ったクラークと、本来の用途を失った家具。そして何もかもコントロールして王になりたいと思うクラークと、人に使われるという用途を持つ家具。バックルームズはクラークの願望を両方とも叶えてしまった。
メアリーとクラークの共通点
メアリーは小さい時に母親という精神的な居場所を失い、また、家という安全地帯=物理的な居場所を失っているので、実はクラークの写し鏡のような存在である。しかもメアリーはセラピストなのに幼少期のトラウマを解決できておらず(病気の母親に虐待されて育ったのに幸せだった頃の形見の手形を手放せない(後述))、そんな状態でセラピストとして本を出したり広告を出したりすることに非現実味を感じているように見える。
そしてメアリーもやはりバックルームズで「私は誰も救えない」と本音を言っている。実は彼女もここで自分の夢の不実現と向き合ったのだ。
しかしクラークと違うところは、クラークはバックルームズに残ると言ったのに、メアリーは帰ると言った(結局は帰れなかったが)。「窓を開けた」(=明日への希望を見つけた)と宣言したのはクラークだったのに、実際に窓=扉を開けて帰ろうとしたのはメアリーだった。まあ、どっちも帰れなかったんですけど…。
メアリーの著書 欺瞞と写し鏡
幼少期のトラウマから自分自身さえ救えていないメアリーにとって、彼女の著書は欺瞞の象徴(リマインダー)になっている。「人を救うプロ」を名乗り本の表紙を飾る彼女の顔は、偽りの自分の写し鏡だ。個人的には、なんとなく自分自身を詐欺師のように心苦しく思っている気もする。
だからこそ、バックルームズでようやく「私は誰も救えない」と宣言できたことでメアリーは偽りの自分を剥がせた。そしてバックルームズが彼女の古い家や著書を解体して生き物のように咀嚼することによってメアリーは自分の夢の不現実と向き合えた。ここもやはりメアリーもクラークのようにバックルームズと共鳴したとしか思えない。
補足:ブラウン管の役割
ところでこの映画で真実の鏡のようにクラークとメアリーの素顔を映しているのは…テレビだ。ブラウン管が突然真っ暗になった瞬間、無防備な二人がうつってどちらも袋小路の現実に引き戻されている。虚構を見せる家具であるテレビが真実を暴いている。本来の用途と違う使い方をされた家具というテーマに一貫していて不気味なほど美しい。
メアリーの形見 呪いからの解放
メアリーは母がおかしくなる前の楽しかった幼少期の形見としてセメントの手形を大事に持っている。まず、セメントの本来の用途は道の舗装なので形見になっている時点で用途から外れていることを指摘したい。
このセメントの塊にメアリーが与えた形見という用途は、すでに逸脱していて、母の病気や虐待、ゴミ屋敷となった家、監禁生活、母の怒りや大きな音といったトラウマを引き起こすトリガーにもなっている。なのに愛おしそうに手形を撫でるとき、その手形はメアリーにとっておかしくなかった頃の母と自分を繋ぐ形見にもなっていて、「愛と暴力という矛盾した象徴」が彼女をダブルバインドしているようにも見える。
そしてその形見からメアリーが解放されたのはバックルームズの中で、クラークのスティルライフと戦った時だ。度重なる殴打で壊れたセメントの塊は、皮肉にも彼女の身を守った。
幼少期の呪縛から解放されるのがバックルームズの中だったメアリーと、同じくさまざまなしがらみから解放されたクラークは、ここでも近しさを感じる。しかし二人の違いが明確に分かれるのは、呪いからの解放をメアリーは自分の手で選んだ、ということ。…しかし本当にそうだろうか?戦うしかない状況に陥らせた、武器として形見を選ばせた、そして砕かせたのはバックルームズだ…という考え方もできるかもしれない。
スティルライフとは? 誇張された似顔絵
ここにきて改めてスティルライフとはどういう存在なのか考えたい。クラークとメアリー以外のスティルライフは元々の姿がわからないのでここでは省く。私は赤毛のスティルライフはバーバラの複製ではないと思っているので…。
スティルライフとは、バックルームズに深く関わった人間が捨て去りたいと感じる(もしくはスティグマに陥らせている)自分の矛盾した一面を擬人化したもののように見える。クラークにとっては怒りっぽく傲慢なお山の大将の家具屋(=キャプテンクラーク)、メアリーにとっては幼少期のトラウマそのもの(=引きこもっている自分)。
ただ、バックルームズがそれを意図して生み出しているかはわからない。バックルームズはただただ空間を複製して、そこにいた人間を複製する時にうまくできなくて(犬を見たことのない人のように)だから見た目の歪んだスティルライフを産み落としているように感じる。そしてそれに意味を与えているのは生きた人間だ。赤毛のスティルライフはクラークの嫁バーバラの象徴だと決めつけるように…。
結局、スティルライフというものは、あそこにある家具と同じで本来の用途や価値観から切り放されてなんとなくそれっぽく存在しているだけだと思う。メアリーもクラークも一番それっぽい側面を誇張して生み出された結果、自分たちが醜いと感じる側面が強く出たのかもしれない。鼻とか顎とかを誇張して描かれた似顔絵みたいに。
バックルームズの「記憶違いを誇張する」エラー/グリッチな性質はガン細胞の増殖現象のようで、私はとても不気味に感じた。
用途を失うということ ヒトとモノ
長くなってしまったが纏めに入ります。
この作品が不気味なのは「本来の用途から逸脱したモノ」がたくさん出てくるからで、そのテーマは「居場所を失った人間の解体」という美しい深層心理描写につながっている。
シュールレアリズム(超現実主義)の手法に「デペイズマン」というものがある。「ものや風景を本来あるべき場所や環境から切り離し、全く別の意外な場所へ置くことで、見る人に強い違和感や新鮮な衝撃を与える(wikipediaより引用)」という意味だ。
バックルームズはデペイズマンのお祭りだ。椅子、キッチン、テーブル、棚、操舵輪、のぼり、靴などなど…。
これらの家具は本来の用途を失っており、存在意義から切り離されてただ存在している(存在することを赦されている)。それをただ、不気味で恐ろしく感じる人もいれば、禅的な救いを見出す人もいると思う。
一方で、建築家になれなかったクラークや、人を救えないメアリーのように、夢の非実現がゆえに自らの生きる意味を見失った人間もいる。あるいは、自らを社会的用途を失った存在と感じるかもしれない。
バックルームズでは、用途を喪失した空間・家具と、自己の価値観を喪失した人間が等しく扱われるからこそ、危険なのかもしれないとこの映画は伝えている…ような気がした。
