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俳文「当たり前ってことは何もない」

若者が次々に現れて、自分たちはものを大切にしていると主張するキャンペーン広告があるのだが、どうも好きになることができない。あんな奇態な格好をしているのに、世の中のことをよく考えているとは意外だという、年長者の視線に基づいた作りになっている点はさておくことにする。嫌いなのは、若者の口から、もったいないの精神でものを大切にするのは「当たり前」だと言わせているところである。

「当たり前」は、自分自身の心がけとして使うなら、あるいは、「戦場の子どもたちが当たり前のように教育を受けられるようにしよう」とか、「同性による結婚を当たり前のようにしよう」とか、自分も含めた周囲への呼びかけとして使うなら気にはならない。しかし他者に向けたとたん、多数が少数を迫害したり、自分とは異質のものを排除し、貶めたりする道具と化すのである。冒頭のキャンペーン広告で若者たちが「当たり前」と言うとき、自分たちは実践しているという優越感から、そうしない人のことを嘲り、蔑ろにしているようにも思われてくる。

2022年にドバイで開催されたフットボールのワールドカップで、日本から来た観客が試合終了後に周囲の清掃をしたというので、世界から賞賛された。清掃中に話を聞かれた人が、「当たり前のことですから」と答えたことで、「当たり前」という心の持ちようが注目されたのだ。自分たちが使った場所は、感謝の気持ちをもって、来た時よりも綺麗にする。昔からそのように教え継がれていて、ワールドカップ会場の清掃についても、それこそ「当たり前」のように行われたのであった。

その時、日本人に染み付いている「当たり前」の精神を世界中が認めたということで、無関係な同国人が便乗して優越感を抱きはしまいかと気にかかった。そして、かつて新型コロナウイルス感染症が世界中で大流行し始めた時に、日本での感染者数が少ない理由を他国から聞かれて、多数党の老国会議員が「民度が違うから」と言ったことを思い出した。民度の違いなんか何の関係もないことは、その後の展開を見れば明らかであった。

本当を言うと、試合後の会場の清掃にしても、「当たり前だから」と答えるのではなくて、「きれいにすると気持ちが良いから」とか「清掃係の人が大変だと思うから」とか、自分の心からの言葉で理由を説明できる方が良かったかもしれない。たとえ良いとされることであっても、何でもかんでも教えられるまま、無批判に「当たり前」と思い込むのは危ういことだと思うのだ。

 当たり前なるを疑ふ返り花 俄風