呪文 #せりふ三題噺
(※ちょっと長くなりました。10,648文字)
子どもの頃から優柔不断だった俺は、何かを決めることができなくて夜中まで起きていることが度々あった。
子どもの悩みなんて些細なものだ。どっちのおもちゃが欲しいか、おやつに何を食べたいか、サチちゃんとマミちゃんのどっちをお嫁さんにしようか。お嫁さんはともかく、おやつを決めるのに夜中まで考えるなんてバカバカしい。おやつの時間はとっくに終わっているのに、では明日は何を食べようかと考えているのだ。
子どもというものは眠ければご飯のスプーンを握ったままでも眠ってしまうものだが、俺はそうではなかった。考え始めると、なかなか眠れなかった。夜遅くなって眠気に限界が来て眠っても、夢の中で続きを考えていた。
子どものうちは発達途中だから仕方がないと思われていたが、高校生になってもいつまでも考え続ける癖は治らなかった。これでは生活に、いや、今後の社会生活に支障が出るだろう。
案の定、俺はついに「夢と起きている時間の区別がつきにくくなっている」と診断されてしまった。とにかく考え続けるのをやめて、夜はぐっすり眠る必要があると。医師は色々と説明してくれて、薬も処方してくれた。付き添っていた父親にも丁寧に説明をしてくれていた。
その日の夜、俺は処方された薬を飲めなかった。この薬を飲んでいいのか、もし診断や処方が間違っていたら服薬した自分はどうなるのか、別の病気になって苦しい思いをするのではないか、それがもし一生治らなかったら俺はどうやって暮らしていくのか、云々、云々。
薬をじっと見ながらなかなか口に入れようとしない自分を見て、父親がいった。
「飲みたくないなら無理しなくていい。別の方法を考えなきゃな」
俺はその言葉に少し安心した。だが、別の方法っていったいなんだろう。
考えながら俺は眠ってしまったようだ。これはたぶん夢だ。コンビニの冷凍コーナーに、食べられもしない雪うさぎが売られているなんて、夢に決まってる。そう思いながら俺はその雪うさぎを買って帰り、家の冷凍庫に入れた。朝起きてから冷凍庫を開けて、この雪うさぎが入っていなければ、俺は夢をちゃんと夢だと認識できていることになる。しかし、雪うさぎが入っていたら、夢から覚めていないのに覚めたつもりになっているということだ。夢かどうかは、この雪うさぎで判断できる。
翌朝、俺は目を覚ますと、まっさきに冷凍庫を開けた。雪うさぎは入っていない。現実だ。ちゃんと夢から覚めている。
「どうしたの、朝から冷凍庫あけたりして」
母親が俺にきいた。
「いや、なんでもないよ」
「今日は早起きなのね。朝ごはんすぐ作るから、少し待ってて」
母親はそう言うと、冷蔵庫から食材を出して支度を始めた。父親が起きてきて、俺がいるのに少し驚いたようだった。
「いつもギリギリまで起きられないのに、どうした?」
俺は夢の話をした。夢の中で冷凍庫に雪うさぎを入れて、目がさめて冷凍庫を見たら思った通り雪うさぎがない。だからちゃんと夢と現実の区別ができている。そう話した。
「なるほど。しかし、夢の中の世界はいつも同じ世界とは限らないだろう? 次におまえが夢の中で冷凍庫を開けて、雪うさぎが入っていなかったら、そこを現実だと思ってしまうんじゃないか?」
「あ、確かに……」
俺はがっかりした。ということは、今こうして父親と話しているこれは、現実なのか、夢なのか。頭がおかしくなりそうだ。
「安心しなさい。これは現実だ。昨日おまえは俺と一緒に病院に行ったし、昨夜は薬を飲むのをおまえはためらっていた」
「そうだ、父さん。『無理しなくていい、別の方法を考えなきゃな』って言ったよね?」
「そう、そのとおり」
「別の方法なんてあるの?」
「うーん。それがなぁ……」
父親は困ったように俺を見ると、ポリポリと頭を掻きながらいった。
「夜、話そうや」
母親が食卓に皿を並べながら俺達に声を掛ける。
「そうよ、ご飯食べて、二人とも出かけなきゃ」
俺は学校でも父親の言葉を思い返していた。別の方法。薬を飲まずに症状が良くなる方法。間違った薬を飲むよりはマシな方法だとは思うけど、いったいどんな方法があるというんだろう。そもそも、俺は診断や薬を信じきれていないけど、間違っているという確かなものもないわけだ。おとなしく薬を飲めば、夜はぐっすり眠れて、起きているときもスッキリしていられるのかもしれない。ただ、間違っているのか正しいのかが確実でないことが不安だし、間違ったら取り返しがつかないかもしれないと思うと、どうしても、一歩先に進むことができないのだ。
これを断ち切る方法なんて、考えるのをやめることくらいしかない。そうだ。結局そこに戻るんだ。医師にもそう説明されたじゃないか。だけど、どんなに心を静かにしようとしたって、絶対に何かが頭の中に現れるんだ。現れるな、と念じればその「現れるな」が現れているのだ。
やはり、死ぬ覚悟で薬を飲むしかないのだろうか。薬を飲んだからって死ぬと決まったわけじゃないんだし。
「テラダ、今日は元気ないな」
友人のヤマモトに話しかけられる。
「そんなことないよ」
「また何か考えてんの? 心配性だなぁ、ちょっと聞かせろよ」
「面白がってんだろ。まあいいや、あのさ」
「うん」
「俺ゆうべ夢見たのよ。コンビニで雪うさぎ買って帰って冷凍庫に入れる夢」
「あーあれね、俺も見たよ」
待て待て待て。ちょっと待ってくれ。
「ヤマモト、俺も見たってどういうこと?」
「昨日いっしょにショート動画見たじゃん。コンビニの冷凍庫に雪うさぎ入れたらみんなどうする?ってやつ。あれの夢見たんだろ?」
「一緒に見てたのって、俺?」
「おまえだよ」
「俺、おぼえてない……」
「えーまじかよ。俺もあれ面白くてさ、ゆうべの夢でコンビニ出てきてさ。そういうことじゃないの?」
「その動画、今見れる?」
「あ、見れんじゃね。ちょっと待って」
ヤマモトはスマホで動画サイトを開いて動画を探す。
「あーあった。ほら」
スマホの画面を見ると、たしかにヤマモトの言う通りの動画が再生されている。動画の中の雪うさぎは、俺が夢で見たものにそっくりだ。
「これ、俺も見たってことかなぁ……」
「おまえさ、ときどき考え事で心がどっか行っちゃうじゃん。おぼえてないだけで目ではこれ見てて、記憶のどっかに残ってたんじゃねぇの?」
「あ、ああ、なるほど……」
「大丈夫か、テラダ?」
「大丈夫、たぶん」
俺は不安になって、聞いた。
「なあヤマモト、今ここって現実だよな。誰かの夢の中ってことないよな?」
「何いってんだよ、現実に決まってんじゃん、ばーか」
ヤマモトは何の疑いもないというように言い切った。
「おまえ、もし夢か現実かわかんなくなったらさ……」
「何?」
もったいぶったあと、ヤマモトは言った。
「ほっぺたつねってみろよ。夢だと痛くないっていうじゃん」
「なにそれ、マンガかよ!」
俺はおかしくなって笑った。たしかに、雪うさぎよりも確実に確かめられるかもしれない。それにしてもなんて古典的な。おかげで少し気分が軽くなった。
夜、夕飯も風呂も済ませて部屋で寝転がってモヤモヤと考え事をしていると、父親がドアをノックして入ってきた。
「今朝の続きなんだが……」
「別の方法ってやつ?」
「そう」
父親は言うのを躊躇しているようだった。どうして躊躇しているんだろう。何か悪いことでも言うつもりなんだろうか。俺は本当は別の病気だとか?だからやっぱり薬は飲まなきゃだめだとか?
「おまえ今も何か考えただろ?」
「あっ、うん」
「考えるのをやめられる呪文を教えてやる」
「呪文?」
何を言いたいんだ?
「……今日はここまでにしよう」
「は?」
「今日は、ここまでにしよう。って言うんだ。自分に向かって、口に出して」
「そ、それで?」
「言ったらすぐ、布団に入って目を閉じる。電気も消せよ。そうしたら眠れる」
俺は呆気にとられて父親を見た。
「それだけ?」
「そう、それだけだ」
「そんなことで、考えるのをやめて眠れるっての?」
「眠れるはずだ」
「テキトーなこと言うなよ!」
「テキトーじゃないぞ。じゃあ聞くけど、今までに一度でもこれをやったことがあるのか?」
「……ない」
「だろ? だから試しにやってみろ。今日はここまでにしようって口に出して言うんだ。言った後は、何も考えずに布団に入る。わかったな?」
「……わかった」
「眠れなかったらとか考えるなよ」
「わかったよ」
それから父親は、
「いいか、呪文だぞ」
と念押しして部屋を出ていった。なんだよ。なんだよ呪文って。高校生男子に向かって。幼稚園の女の子じゃないんだぞ。サチちゃんやマミちゃんじゃないんだぞ。
……そういえば、二人とも今どうしてるんだろう。サチちゃんは幼稚園のときに、マミちゃんは小学校二年生のときに引っ越してしまった。可愛くなってるのかな。
ああ、いけない。さっそく、試してみるか。俺は部屋の電気を消して、スマホもスリープにして、布団に入って、呪文をとなえた。
「今日はここまでにしよう」
俺はふっと心が軽くなって、何分もたたないうちに眠りに落ちていた。
驚いたことに、俺はスッキリ目覚めていた。夢も見なかったようだ。……いやまさか、これが夢だとか言わないよな? 俺はほっぺたをつねった。
「イデデデデ!」
強くつねりすぎた。
とにかくこれは現実だ。あれは本当に呪文だったのだろうか。これで、俺は救われるのだろうか。
食卓にはもう父親が座っていた。
「眠れたか?」
「うん。ぐっすり。夢も見なかった」
俺は念のために父親のほっぺたもつねった。
「イタタ! 何だ!」
「やっぱりこれは夢じゃないよね?」
父親は、なんだ、というふうに笑った。
「大丈夫、現実だ。効いただろ? 呪文」
ガチャン、と母親がカップを置いた。
「呪文ですって、お父さん」
「あ、ああ。いつかおまえが教えてくれたやつだよ。俺もそのおかげで不眠症が治った」
「え、あれ、母さんのやつなの?」
しかし母親は俺の問いかけには答えず、怖い顔で父親をにらむ。
「あなたはいいのよ、私とは他人だもの。でも、この子は」
この子は? 何だ?
「この子は私と血がつながっているのよ。ただのおまじないじゃ済まないかもしれないじゃない!」
「それ、どういうことなんだ」
父親があわてて母親に問いただそうとする。
「もう、……知ってしまったものを忘れろっていっても無理よね」
母親は俺を見る。今まで見たことがない真剣な表情だ。首の後ろがゾクッとする。
「俺、話が、見えないんだけど」
声が少し震えてしまう。
母親は俺に、ゆっくり、低い声で、いった。
「もう二度と、呪文を使わないこと。ゆうべはあんたが一人だったから良かったけど」
「また使うとどうなる?」
「うっかり言ってしまうのは構わない。普通の言葉だからね。でも、呪文だと意識して言ってはダメ。ぜったい」
「もし、言ってしまったら?」
「その声が聞こえた人が全部、『今日はここまで』にしてしまうのよ」
「まさか、そんなこと、あるわけない……」
「あるのよ! あんた、おばあちゃんがどうして亡くなったか知ってる?」
「えっ、病気で入院してたよね」
「そう。おばあちゃんね、結局身体はしんどくてたまらないのに、何度も手術して生きていくのがつらいって言ったの。私だけがそばにいるときに」
そう言う母の表情が読み取れない。
「最後の手術のときね。手術室で麻酔をかけられる前に、そこにいた人みんなに言ったんですって。今日はここまでにしよう、って。だから執刀医が手術をやめて、そのまま病室に帰ってきた」
母親はもっともらしく説明するが、父親がそれに反論する。
「ちょっと待て。本人が手術を拒否したっていう、単純にそれだけじゃないのか?」
「そうかもしれない。そうね。でも、他にもいろんなことがあったのよ。つい、一番忘れられないことを喋ってしまって。うっ……」
さっきから腑に落ちないことだらけの俺は、言葉を発することができなかった。代わりに父親がきいた。
「それはつまり、どういうことなんだ? お義母さんは魔法が使えたとでもいうのか? 呪文ていうのは、ちょっとした冗談じゃなかったのか?」
「あなたには冗談でいったのよ。あなたは暗示にかかりやすい便利な人なだけよ」
「そ、それちょっと……」
「だけど、私の家系は……。この子もそうかもしれない。だからあんた、用心して」
「用心?」
「呪文のつもりでその言葉を発しちゃだめよ。あなたは呪文は使えない。わかった?」
「わ、わかった……」
俺はどういうつもりでこの話を聞けばいいのかわからなかった。
とりあえず今日の夜は、どうやって眠ったらいいんだろう。母さんは今までこんなことを一言もいわなかったし、気配も感じさせなかった。
だってそうだろ、そんな能力があるんだったら、その呪文で俺をぐっすり眠らせるくらいの事はとっくにしてたはずだ。もちろん呪文だとは言わずに。
それとも、あえて使わなかったのかもしれない。俺が『夢と現実の区別がつきにくくなってる』なんて診断をもらうまで放っておくなんて、その呪文がよほど危険だから使うに使えなかったに違いない。
遅刻しそうな時間に学校につき、ろくに授業に身が入らないまま一日が終わり、ヤマモトにいわれるまま寄り道に付き合ってから帰宅すると、父親がもう仕事から帰ってきていた。玄関を開けると両親の話し声が聞こえる。
今朝の続きだろうか? なんとなく不穏な感じがして俺は玄関で足を止めていた。両親は帰宅した俺に気づいていないようだ。
「今日はお薬飲んで寝てもらうしかないんじゃないかしら」
「そうだな。あいつきっと、今日は今まで以上に考え事で眠れなくなりそうだからな」
「睡眠導入剤でしょ? 一度飲んだからっておかしなことにはならないわよ」
「まあ、そうだろうけど……今日は良くても、明日からどうする」
「……そうね」
「あいつが寝る前に『自分だけのために』唱えるんだったら、構わないんじゃないか?」
「ダメよ。そのうちに自分の都合の良い時に使いたいと思うようになるわ」
「そうかな」
「そうよ、そうならないほうがおかしいわ」
「どうして」
「だって……生きていたらつらい事も多いでしょ。ここまでにしようって言いたくなることはたくさんあるわよ」
「そ、そうだな」
「あのときだって……あなたが、浮気してたときだって」
「ば、ばか、何いってんだ、そんな昔のこと」
「昔だからって許されると思わないでよ」
「だから。もう会ってないし、連絡だってしてないし」
「当たり前よ、したくてもできないわよ」
「だから、しないって」
「あの女が」
「え?」
「あの女がしつこくて。あなたがいないときに家に来て」
「そ、そうなのか?」
「あなたと別れてくれって、バッグから刃物を出したりして」
「まさか……」
「あの芝居がかった態度、虫唾が走ったわよ」
「……」
「だからつい」
「だ、だからつい?」
「怒りに任せて、消えてくれって念じてしまった。それから、言ってやったの。今日はここまでにしようって」
「そ、それで……?」
「その瞬間に、あの女の目つきが変わった。執着をいっさい忘れてしまったような様子になって。黙って出ていったわよ」
「い、今は……?」
「知らないわよ。もしすべての執着を失ってたら、生きてないかもしれないわ」
ドタッ、と父親が床にしりもちをつくような音がした。
「本当に知らないのか? さっき、したくてもできないわよって言わなかったか?」
母親がくくっと笑った。
「知らないわよ」
俺は玄関で固まっていた。父親が浮気をして、その相手が母親に包丁を突きつけて、母親は、消えてくれって念じた。
消えてくれ。
消えてくれって念じて、そのあと呪文をとなえたら、何が「ここまで」になるんだ?
相手への想い? 病的な執着心? それとも、生きることへの希望とか、そんなものまでも終わりになっちまうのか?
腰を抜かして床をはって廊下に出てきた父親が俺を見た。だが俺達は、お互いを見なかったことにした。気まずくて、何をいえばいいかわからなかったから。
ドアの外で、小さな「ピッ」という音がした。
俺はこの場から逃れるため、そしてその音を確かめるため、そっとドアを開けて外に出た。足元にあったのは、置き配の荷物だった。到着メールを確認した母親が荷物を取りに来る前に、俺はドアの前から離れた。
俺は駅に向かって歩きながら、ぼんやりと記憶を辿っていた。小学校の時だ。俺が学校から帰ってくると、俺がドアを開ける前に誰かが内側からドアを開けた。出てきたのは、マミちゃんのお母さんだった。いつものやさしい様子ではなく、話しかけてはいけないような怖さを感じた。だって、帰ってきた俺と目が合ったのに、そのまま行ってしまったんだから。普段のマミちゃんのお母さんなら、こんなことはありえない。
父親の浮気相手はマミちゃんのお母さんだったのか? だから、マミちゃんたちは急に引っ越したのだろうか……
駅前のコンビニの前で俺は足を止めた。ヤマモトがレジで支払いをしているのが見えた。支払いを終えるとヤマモトは買ったばかりのパンの袋をあけて中身にかぶりつきなから店から出てきた。そんなに腹減ってたのか。
「あれ、テラダじゃん!」
ヤマモトは俺に声をかけてきた。そのことで、俺はなんだか安心してしまった。
「俺もなんか食いたくなって、帰り道で引き返して来た。ちょっと付き合って」
適当なことを言ってヤマモトを引き止め、俺はコンビニでチキンカツを買った。外に出ると、ヤマモトはコンビニ前のバス停のベンチに座っていた。
「今バス行ったばっかだし、大丈夫っしょ」
バスは二十分ごとだから、しばらくは誰も来ないだろう。俺はヤマモトの隣に座った。
「あのさ、ヤマモト」
「ん?」
「マミちゃんおぼえてる? 小学校のとき引っ越した」
「あー、おぼえてるかも」
ヤマモトはスマホを出して、写真を探した。そしてスマホを俺に見せた。
「この子だよね? テラダ、気がついてなかったんだ? 隣のクラスにいるよ」
俺は写真を見たが、正直、よくわからなかった。ただ、あのときのおばさんに似ている気がする。
「引っ越してったけど、こっちの友達とはつながってたから、高校はこっちへ入ったって言ってたよ。けどさ、可愛くなったよな。俺もしばらく気づかなくてさ」
「ふーん」
「で、マミちゃんがどうした?」
「あ、いや。マミちゃんちって、みんな元気なのかなって」
「さあ、知らないけど。何かあったっけ?」
ヤバい、全部ヤマモトに喋っちゃいそうだ。それはダメだろ、さすがに。俺はチキンカツをかじった。
「それ美味いよな」
俺はうなずきながらチキンカツを食い続ける。ヤマモトもパンの残りを口に入れる。
「ヤマモト。明日さ、俺、マミちゃんと話したいんだけど」
「おー、いいじゃん」
ヤマモトはこういうときに冷やかしたりなんかはしない。
俺は立ち上がった。
「そろそろ帰るわ。また明日な」
「おう、明日な」
家に向かって歩きながら俺は考えた。今日はおとなしく薬を飲んで眠ることにしよう。呪文を使うわけにはいかないし、だからといって何もしなければ、きっと朝まで眠れない。
俺はその夜、黙って夕飯を食べた。両親もほとんど話をしなかったから、俺が黙っているのはある意味自然なことだ。風呂を済ませて部屋に戻り、布団に入って電気を消して、明日のことをもやもやと考えた。
マミちゃんは俺のことをおぼえているだろうか。もしおぼえていなかったら、いきなりお母さんのことを聞くのも変だよな。とりあえずおぼえていると仮定して、最初に何を聞けばいい? どうして引っ越したのか? そうだ、そのへんから話をすればいい。親の仕事の都合で、とかだったら、『そういえば、幼稚園のときにマミちゃんのお母さんによくお菓子をもらってた』とか、思い出話から入っていこう。本当にお菓子はよくもらっていたんだ。けど、本当に今、マミちゃんのお母さんはどうなっているんだろう。父親に対する気持ちだけが消えて、普通に生活をしている……っていうのがいちばんありがたい。けど、もしもそれ以外だとしたら。生きることへの執着をなくして無気力になっていたら。いや、それでも、生きていてくれたらいい。最悪なのは……
いや、眠らないと。考えるのはやめて、眠らなきゃ。
「今日はここまでにしよう。……あっ!」
ついうっかり独り言をいってしまった。ヤバい。と思ったのも束の間、俺は眠りに落ちた。薬、まだ飲んでないのに。
学校に着くと、ヤマモトがマミちゃんと廊下で話していた。
「テラダくん、おはよう」
マミちゃんから声をかけられる。
「久しぶり。やっと気がついてくれたんだって?」
「うん、気づかなくてわりぃ」
「大きくなったらお嫁さんにしてあげるって言ってくれたのに」
ヤマモトが吹き出した。
「何おまえら、そんな関係だったの?」
「違う違う、幼稚園のときの話」
「ひどいのよ、サチちゃんにも同じ事いってたんだから」
「うわーマジ?」
「だから! 幼稚園の時の話だって!」
いきなり黒歴史爆弾をくらって、俺はあわてた。ゆうべ考えていたことを思い出せ。何を聞くんだっけ? あ、そうだ。
「ところでさ、どうして急に引っ越して行っちゃったの? もう少しで終業式だったのに」
「うん、お父さんの転勤でね、急に」
「そ、そうだったんだ」
するとマミちゃんはちらりと俺の顔を見て、こう付け足した。
「本当は終業式終わってから、お父さんのところへ行くはずだったんだけどね。お母さんが急に、すぐお父さんのとこ行こうって決めちゃって」
マミちゃんの急な引っ越しを担任から知らされたのは、あの日の翌日だった。
「それは、どうして……」
つい、俺はそう聞いてしまった。
「知りたいの? テラダくん」
マミちゃんは刺すような目で俺を見た。俺は嫌な予感がした。マミちゃんは知ってるんじゃないか? お母さんと俺の父親のことを。
「あ、あの……」
するとマミちゃんはふっと笑った。さっきの鋭さは消えていた。
「うちのお母さん、先に引っ越してたお父さんが急に恋しくなったっていってた。私が学校から帰ったらお母さん留守にしてて。で、すぐ帰ってきたんだけど、帰ってくるなり、明日引っ越すわよっていって」
タイミングは、合ってる。俺は知りたい気持ちを抑えきれなかった。
「そのとき、お母さん、どんな様子だった? 何かに怯えてたりとか……」
しかしマミちゃんは俺の言葉をさえぎるようにいった。
「テラダくん! 何のつもり?」
「い、いや、ごめん。俺、マミちゃんのお母さんが心配で」
「心配ってどういうこと?」
「元気にしてるかなって……。最後に会ったとき、元気なかったから」
「会ったの? どこで?」
「……うちで」
俺の空気が相当重かったらしく、ヤマモトが困っているのがわかった。俺とマミちゃんを今引き離すわけにいかないようだけど、どうすればベストなのかも測れない、そんな様子だった。しかしマミちゃんはこの重たい現場に再度、爆弾を落とした。
「お母さんね、死んだの。引っ越してすぐに」
「ごめん! 本っ当にごめん! 代わりに謝るから、許してやって!」
とっさにヤマモトが俺の頭を手でぐいぐい下げさせながら、マミちゃんに謝り始めた。
「ご、ごめん、俺、そんなつもりじゃなくて、でも、ほんとゴメン!」
俺も謝った。お母さんが本当に死んでいるかもなんて、ゆうべは考えずに眠ってしまった。そもそも、その可能性を最初に考えておかなきゃいけなかったんだ。だけど俺は、生きていてほしいっていう自分の願望が先に立ってしまった。いつももやもやと考え事ばかりして眠れないくせに、そのくせ、まともな考えを導き出したことなんか、ありゃしないんだ。こうやって人を傷つけるだけで、俺の考え事なんて何の意味もないんだ。やめろ、考え事なんてもうやめろ。今こそ呪文を使うときだ。
俺は俺にしか聞こえないくらい小さく呟いた。
「今日はここまでにしよう」
俺は下げた頭をいつまでも上げられなかった。上げたらこの情けない顔をマミちゃんに見せなきゃならない。
「ごめん。テラダくん、ごめんね、冗談よ。顔あげてよ」
マミちゃんの声が言う。冗談だって? 俺は顔を上げる。
「ごめんなさい。ヤマモトくんもごめんなさい。大丈夫だよ、お母さん、生きてるよ」
「……ほんとに? じゃあ何で?」
「ちょっと、ハラたっちゃって」
マミちゃんはうつむいた。
「お母さんね、引っ越してすぐ、いっぱい睡眠薬飲んで死のうとしたの」
「ま、マジ……」
「ここまでにしますって遺書かいて。だけど発見が早くて助かって。私すごく泣いたの、どうして私を置いて死んじゃうのって。そしたら」
「そしたら……?」
「テラダくんのお母さんにとても悪いことをしたから、って」
俺は声が出なかった。母親の呪文は本当に、『呪文』だったんだ。俺は、父親みたいにヘタヘタと座り込んだ。
「でもテラダくん。テラダくんは何もしてないんだから、気にしないで」
「そんなわけには……」
そんなわけにはいかない。母親にはきっと殺意があった。母親は自分が受け継いだものを知っていて、はっきりとそれを使ったんだ。
「マミちゃん、お母さんは今どうしてる?」
俺はきいた。少しの間をおいて、マミちゃんが言う。
「あのあとは、元気になってる。と思う。心の中までは、わかんない」
重たい気分のまま学校から帰った。帰り際にマミちゃんが会いに来てくれた。
「親の話はあれっきりにして、普通に同級生をやろうよ」
って、マミちゃんはいった。そうだよ、そうしろよ、ってヤマモトもいった。
「そうだね。親の話、今日はここまでにしよう」
「今日は、じゃなくて。ずっとだよ。じゃあ明日ね」
そういってマミちゃんはかけて行った。
俺、つい、言ったよな。
だけど、呪文として言ったわけじゃない。普通の会話として口から出ただけだ。
今日は、が余分だっただけだ。
もしかして口癖になりつつあるんじゃないか?
これはよくない。
口癖になるのはよくないよな。
その夜から、考え事で眠れなくなることはなくなった。結局俺は薬を一錠も飲まないまま、症状が消えてしまったのだ。あのとき呟いた呪文が効いたんだろうか。
マミちゃんとは、あれっきり親の話はひとこともせずに、ずっと同級生をやっている。もちろん、付き合ったりなんかしていない。そんな事になったら、将来結婚する可能性もあるってことだ。そうしたら、親の話をしないわけにはいかなくなるし、それどころか、親同士が顔を合わせなきゃいけなくなる。もしそうなったら、また眠れなくなるかもしれない。あ、俺、また考え事してるじゃん。
……いけない。今日はここまでにしよう。
*
長くなってしまいました。読んでくださってありがとうございます!
せりふ三題噺に参加しています。
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