えひめ旅。①伊予国の国分寺、総社など
旅の4日目は愛媛県へ。令制国時代は伊予国(いよのくに)と呼ばれていました。名前の由来が気になるところですがこちらも諸説あるようです。
興味深いのは伊予の「よ」が「湯(ゆ)」から転訛したとする説で、日本最古とも呼ばれる道後温泉は34代舒明天皇や37代斉明天皇の行幸が『日本書紀』に記されています。また、『伊予国風土記逸文』には12代景行天皇や神功皇后(14代仲哀天皇の后)の名も見え、大穴持命が病にかかった宿名毗古奈命を温泉につからせて復活させたとも記されています。
伊予郡の他に温泉郡があったことから「伊予が温泉を意味するかどうかは疑わしい」とする意見もあるため一つの説にすぎませんが、3000年の歴史を持つとされる道後温泉の由緒を示す重要な記述といえるでしょう。
高知県からの移動は、いったん多度津駅(香川県)に北上してから特急しおかぜで向かいました。約1時間半の道のりです。


伊予国府は越智郡(現・今治市)にあったとされていますが、遺構はみつかっていません。国分寺や総社などが今治市にあることから、今治平野に設けられたものと思われます。

今治市内に伊予国府が置かれた歴史的事実や背景について高校生がまとめた展示が日本考古学協会の高校生ポスターセッションにて優秀賞に選ばれた

外国との交易において瀬戸内航路が重要と考えたヤマト王権が結びつきを強めていたことが、前方後円墳や三角縁神獣鏡の出土などから判明しています。高校生らの研究はそこから一歩踏み込んで、鉄資源の獲得のために浜砂鉄に恵まれたこの地が生産拠点として選ばれ、国府が置かれた理由であると指摘しています。その背景にあるのは白村江の戦いによって軍備拡大を急務とした王権側の狙いがあると分析していて、古墳の多くが津(港)に近い場所に建造されていることから、被葬者は海上交通や交易を司る権力者ではないかと仮説を立てています。
ある場所が鉄生産の拠点であったとする論考はよく見かけますが、生産するのはいいけれど運搬はどうするのかという問題については具体的な言及がなされないことが多い中で、海上交通のルートを図示しつつ、古墳の被葬者もそれに関連する権力者ではないかとみる着眼点の鋭さがすばらしいです。
このポスターを見ながら思ったのは、伊予国府の場所がいくつか推定されつつも比定できずにいるのは、律令制の施行前に港を中心におそらく役人の施設が置かれたであろうことで、かえって国府の実像が見えづらくなっているのではないかということです。伊予国府として何を行ったのか。職務の実態を示す木簡や土器などが見つかればよいのですが。
伊予国分尼寺(塔跡)
まずは国分寺関連の施設から。駅から最も近いのは尼寺跡です。Googleマップに塔跡と記されていて気になっていました。国分尼寺には塔を置かないというのが定説で、塔がある場合は廃寺となった寺を尼寺に転用したと考えるのが一般的です。



中心に置く石(心礎)は見つかっていないようだ
これだけの情報では、尼寺に塔があったのか、廃寺からの転用なのかわかりません。この史跡とは別に法華寺(尼寺を意味する)があるようなので行ってみました。
法華寺


冒頭に「国分尼寺の史跡 法華寺」とあるのでここが国分尼寺ゆかりの寺であることはわかった



観音の浄土とされる山を意味する

本尊は十一面観世音菩薩

観音寺とも呼ばれていた

「おんまかきゃろにきゃそわか」


法華寺はかつて、ここから北に400mほどの場所にある桜井小学校付近にあったと伝わり、発掘調査で軒瓦などが出土したことから、桜井小学校の敷地が寺域であったとみて間違いないようです。
先ほどの塔跡については『愛媛県史 原始・古代Ⅰ』の国分尼寺の項にこのように記されています。
県指定の国分尼寺塔跡はその所在地の小字、他中(塔頭か)から他中廃寺と称し、あるいは「日本霊異記」にある越智大領の祖先、越智直が建立した寺院跡とする説がある。「日本霊異記」によると、白村江の戦い(六六三)において百済救援軍に加わっていた越智大領の祖、越智直ら八人は唐兵につかまったが、舟をつくり、観音菩薩に祈ったところ西風が吹き帰ることができ、のち越智郡を立てることを許され、寺をつくったという。
塔跡にあった礎石からは五重塔と推定しています。このくだりも塔跡を考えるうえで重要な情報が含まれているので引用します。
現存遺構から塔跡を復元すると、建物一辺長が三間の六メートル四方(二〇尺)、基壇の一辺長は、側柱心から基壇外面までの軒出し部が三メートル(一〇尺)とみて、一二メートル(四〇尺)四方と推定されるので、七重塔に必要とされている建物一辺長三三尺以上、基壇一辺長五七尺以上の数値をみたさない。おそらく五重塔であったと思われる。
『愛媛県史』は明言を避けていますが、塔跡は白鳳時代のものと推定され、桜井小学校からの出土品よりも後の時代であることから、初期国分尼寺が建立された後に、何らかの理由(火災による焼失?)で塔跡があった寺院に移り、さらに桜井小学校の敷地を経て寛永2(1625)年に現在の法華寺がある場所に移ったものと考えられます。ややこしいですが、これだけ国分尼寺の関連施設が現存することは珍しく、寺域の推定も含めてさらなる解明が待たれるところです。
伊予国分寺
国分寺は法華寺から約2km。遺構は復元されず、東側に塔跡があるとのことでしたが失念して行きそびれてしまいました。




本尊は薬師瑠璃光如来

山号は金光山 最勝院(真言律宗)


「おんころころせんだりまとうぎそわか」


御利益満載の壺である

お大師さまと握手をして願いごとを一つだけ行うとのこと


お遍路さんもさぞかし多かろうと思ったがそうでもなかった

上側に「頭」「足」とある
悪い部位に触れて平癒を祈る
伊加奈志神社(総社)
最後に総社を訪れました。総社は国府と同様に越智郡にあったと考えられ、西に流れる蒼社川が「総社川」と呼ばれていたことから、総社がこのあたりにあったことは間違いないでしょう。伊加奈志神社を総社とすることの根拠は、総社川南端にある八幡山の突端にあるこの神社がかつて総社大明神と呼ばれていたことによりますが、明神と呼ばれるのは中世以降なので初期の総社であるとは言いきれないところもあります。






祭神は五柱命(天地創造の神)、
五十日足彦命(いかたらしひこのみこと。垂仁天皇の皇子)
伊迦賀色許男命(いかがしこおのみこと)
伊迦賀色許男命は物部氏の祖神です。今治市、西条市、新居浜市、四国中央市にかけてのこの地域を東予地方と呼び、かつては物部系氏族が国造、国司として統治していました。当社の祭神は物部氏の影響力を示すものであり、西条市には同じく物部氏の関連社である布都神社が鎮座しています。物部氏は神剣である布都御魂(ふつのみたま)を奉斎する氏族でもあり、布都神社はこの剣そのものが神格化された布都主神(ふつぬしのかみ)を主祭神としています。
九州に出自を持つ物部氏も勢力を拡大するとともに東遷しており、本州よりも四国に関連神社が多いことからみても、山陽側よりも四国側が畿内方面への移動ルートであった可能性が高いと考えられます。
ちなみに当社の読みである「いかなし」は祭神の伊迦賀色許男命が転訛したという説があり、所在地である今治市五十嵐も「いがらし」ではなく「いかなし」と読むのだとか。NAVITIMEで確認したら本当にそうでした。



いわゆる東遷ルートを考えてみると、古代においては陸路よりも海路を進んだほうが早かったわけで、冒頭でみた高校生の研究や物部氏の関連社が多いことをみても、四国が九州と畿内を結ぶ中継地点として重要な役割を担っていたことがわかります。安徳天皇の伝承地(実は入水せずに落ちのびた説)や卑弥呼の墓があるなど四国が古代史ミステリー界隈をにぎわせているのも、九州側からも本州側からも情報の流通(伝説の流布)が容易であったからではないでしょうか。
「次回、伊予国一宮 大山祇神社 ②につづく」
