Black Box Diariesを観て
(注: この記事では性被害、性的虐待などについて書いています。具体的な描写はありませんが、トリガーが心配な場合は飛ばしていただくか、少しずつ心の反応をモニターして落ち着けつつ、お読みください。)
ふつう年末は、家や周囲にいてあまり特別なことはしないことが多いですが、昨年末は珍しく映画を観に行きました。伊藤詩織さんの『Black Box Diaries』です。本が出ていたのは知っていたのに、買い損ねてしまっていたところからの映画鑑賞でした。(その後、多少の執筆・編集をつづけていたため、投稿が遅くなりました。)
この映画では、伊藤さんが同じジャーナリストの先輩・山口氏から性被害を受け、その後刑事裁判、民事裁判、『Black Box Diaries』の書籍の出版、などの活動を経つつ回復を図っていく過程がドキュメンタリーとして描かれています。
あらためて伊藤詩織さんは希有な方かと思います。作中でもあるように被害者のうち4%しか警察に届け出ないという状況の中で、ご自分がジャーナリストとしてのアイデンティティ、一念から、自分を「事件化」したとも客体化したとも言えます。事実、真実を追究し、世に問おうとしたわけです。観察眼や外からの視点やネットワーク、コミュニケーション力の駆使はジャーナリストならではのものと思いますが、反面視点が外過ぎることは内側から目を逸らすことに役に立つと同時に、内側のプロセスを妨げる可能性もあったのかもしれません。
しかしそのような内側のプロセスに目を向けるためには、セラピストなど専門家の手が必要とされるでしょう。
女性が自立して、力を発揮していくには男性にも増してキャリアというのは重要です。賛否はあるかもしれませんが、ご自分の被害をなんとかしたい、またジャーナリストとしての活動を継続していきたいというときに、本能的に職業的スキルに頼ったというのもあったのかもしれません。
このような大人で、コミュニケーション力や分析力もあり、押し出しの強い性格の人であっても作中にあったようにさまざまな苦悩を味わう訳ですが、そうではない性格の大人の被害者も多くいますし、被害者には子どももいます。
話は変わりますが、性被害や子どもの性的虐待(child sexual abuse) というテーマには、心理学に関心を持ち始めた90年代後半から関心を持っていました。当時はアメリカに住み始めて間もない頃で、それまでまったくそのようなことがあるということを知らなかったのですが、私にとってabuse(虐待)とかtrauma(トラウマ)といった言葉が本の中から避けようもなく目に入ってきた時期でした。
その後、現地で心理学や心理療法を学ぶようになりましたが、現在のように、そのような虐待歴がある人も含め心理臨床が曲がりなりにも「できる」ようになるには、長い時間がかかりました。単に性的トラウマだけ治療できればいいというわけではなく、学位を取ったり資格を取ったり、他の診断や状況も学び理解するといったこともその過程では求められるからです。また、博士課程時代には学生としてトラウマ関連の実習先に応募したものの、実力不足かあるいはアジア人への偏見などもあったのか、面接で落ちて行けなかったという事情もありました。そんなことからだいぶ迂回して最近ようやくトラウマ臨床も手がけている、という状態です。
この映画中、組織に縛られて個人として発言できない(証人として)という場面が何回か出てきますが、悲しいかな心理職もどこであってもそのような治療が自由にできるというわけではないかと思います。本来的には専門職としての自律性が確保されるべきなのですが。上司(多くの心理職にとってはおそらく医師)の方針もあったり、チームとの協力体制があったりといったことです。違う意見や視点があったとしても、それは尊重されるべきなのですが。心理職がトラウマに積極的に取り組んで行けるためには、ある程度の実力・スキルや自律性を確保する必要があるように思われ、医師等も防衛的になるのではなく、そのような心理職の専門的な感覚や果敢さを尊重するべきかと思います。
この映画は大人の性被害サバイバーについてですが、性被害の被害者・サバイバーには大人のみならず多くのいたいけな子どもも含まれています。日本の児童相談所への虐待通告のうち、性的虐待の通告はあり得ないほど低く、やはり数%程度です。(斉藤、2000=原著ハーマンの出版は1982年、の時点ではやはり5.8%と低く、日本だけではないようですが。)先ほどの「4%」を思わせますが、子どもはある程度の年にならないと自分で通告はできませんし、親や先生、援助職など周りの人が代わりに通告するしかありません。実数は、大人の性被害の場合同様かそれ以上に多いものと思われます。悲しいかな弱く依存的な相手が加害者のターゲットにされやすいからです。ましてや子どもが自ら訴訟を起こすなどということも、できません。
通告すればいいというものではないですが、通告も一つの「公にする行為」ではあります。性被害や性的虐待は元々秘匿性、タブー性が高く、秘密のままになることが多く、加害者が被害者を脅している場合も少なくありません。それを知っていて加害者も(無意識的にであれ意識的にであれ)被害者を「選ぶ」という側面もあります。弱いから声を上げることもできないだろう、ということです。卑劣極まりないですが、同時に性的虐待は性欲というよりは支配欲のようなものに突き動かされているとも言います(ハーマン、2000)。
子どもの場合、乳幼児期から思春期くらいまでの広範な被害年齢に及びます。メンタルの問題を含む後々の心身の問題や社会性・対人関係の問題につながりやすいとされますが、年齢が低く、頻度が高くかつ加害者との関係が近しい(家族など、身近で子どもが信頼している相手)ほど、深刻度が高いです。そのような近しさと残酷な行為が併存し統合できないような状況に、子どもは「解離」という方法を用いて生き延びます。解離とは、本来統合されているはずの出来事の記憶が、感情(怒りや悲嘆など)、起こったことの経緯についての認知、相手のイメージや視覚的イメージなど、バラバラになってしまっていることです。それが解離性同一性障害(いわゆる「多重人格」)にかならずしもつながるとは言えませんが、解離という防衛がよく使われるようになってしまうリスクはあります。
逆に言えば解離的な現象・症状が認められる場合、なにかそのような破壊的な状況があったと推定することができます(「正常な」解離現象や、暴力等によらない=多くの引っ越しなど、解離も存在することはします。)
年齢が低ければ低いほど起こったことを言葉で説明したり思い起こしたりするのは難しく、身体化や感情調節の難しさ、不安、うつなどの症状として表れます。それらの症状は内に隠されていて(解離されていて)、ずっと後、大人になってから発現することもあります。このような「言葉にしがたい」「言葉にならない」体験は、精神分析学の用語で「未構成の体験」と呼ばれています。無意識下の記憶にコントロールされないためには、次第に言葉(やほかのシンボル、表現的手段)を使って意識に上せられるようになることが必要です。当然、起こってくる難しい感情的反応を含め、プロセスしていくことが心理療法で行われていきます。
伊藤詩織さんの被害、及び公判などは2017・2020年の刑法改正以前の出来事です。他所で、ジャニーズ事件についても書いたり学会発表をしたりしてきましたが、その他の動きも含めこの2件は刑法改正を促したのかもしれません。被害者はいわゆる「一般の人」が大半ではありますが、一般の人かそうでないかで差別されるべきではないですが、ジャーナリストやタレントといった「公の人」の被害が、メディア上では注目を浴びやすく、かつ世論も動かしやすかったという側面もあるでしょう。
実際には被害に遭った人は無力と感じがちですが、ささいなことでも声を挙げていくことが大きな社会の変化にもつながっていきます。
被害に遭ったとき恐怖が高いために被害者は「フリーズ」します。いわゆるトラウマ体験でのfawn(生き延びられるように弱く振る舞うこと、加害者に取り入ろうとすること、動物の場合だと死んだふりなど)に相当します。「抵抗しなければならない」とか、相当の暴力が伴わなければならないなどということではなく、サバイバーでなければ理解もできないような恐怖の状態というのがあるのです。フリーズなどのメカニズムについては、最近ではポリヴェーガル理論などを通じ、さらによく理解されるようになってきています。
おおかた、把握・想像されているよりは実父や義父などの家族の成員による加害が多いのも、子どもの性的虐待の特徴ではありますが、世間でも専門家の間でもあまり認識されていないのが実態です。こうした加害者が訴えられるというのは日本ではあまり聞きません。コロナ中の2020年~2022年頃に散見されたように思いますが、これらは10代以上の原告だったと記憶しており、上述のように「未構成」であれば、ましてや被害年齢が低ければとても訴えるなどというわけには現実には行かないでしょう。仮に訴えられるとしても、成長して自立し自分が力をつけてから-30代、40代くらいにもなってしまうかもしれません。(この点に関しては、性被害・性虐待に関して時効をなくすようにとの運動が起こっているようです。)
あるいは離婚の背後に、このような状況がある場合もあるのかもしれません。
司法の歪みのほかにも、日本社会にはさまざまな明白な障壁や見えない障壁が存在します。仮に家庭内の性的虐待が発覚したとして父親が逮捕される、あるいはそのような父親から離れようとして離婚をしたとしても、たいがいの場合母親側は自立して生活していくのが難しい状況にあります。そうした依存状況のために虐待が黙認され、家族が維持されるということもあります。実際、性的虐待の事実が「外」に出ることは家族にとって危機であり、サポートが必要であるとハーマン(2000)は言います。
日本でそのようなデータがあるかは寡聞にして知りませんが、アメリカの場合でも近親姦が起こる家庭は父親が外でしっかりと職業を維持しており、家族には支配的で母親を専業主婦にして場合によっては外出や外とのコンタクトもコントロールしているような家庭が多いそうです(ハーマン、2020)。すでに無力になっているところに、そのような虐待が起こっていても打つ手がないといった状況と言えるでしょう。
こうした論議をすると「でも女性でも働けるようにしているじゃないか」という反論も聞こえそうです。実際にはそれは制度上のことであって、多くの女性にとって事はそんなに簡単ではありません。学びたいという意欲があっても「女の子には必要がない」と一蹴されたり、より高い収入や地位を得るにも、ハンデが大きく、家庭を持てば配偶者や子どもの世話に追われがちだったりということがあります。制度があるということと、それが運用されているということはまったくの別物なのです。
また、作中にあるような家父長制的な視点や環境の元では、女性特有の視点や体験が理解されず否定されるという側面もあり、女性には働きにくくなります。卑近なところでは最近やっと理解が多少進んできつつある、生理に関わるストレスなど(PMSやPMDDなど)があるでしょう。
考えてみれば、伊藤詩織さんの状況もこの女性が社会に出て活動していくということと無関係ではありません。彼女は、仕事を探している過程でこのような被害に遭っています。いわゆる「アカハラ(アカデミック・ハラスメント)」や「就活セクハラ」(常見、2025)に通じるところがあるかと思います。(注:「ハラスメント」は苦痛や不快を与える一定の発言や行動などですが、性加害はもちろん犯罪でレベルが違います。)つまりは、女性が職業的な機会や地位にアクセスしようとするとき、上のポジションにいる人は男性である確率が高く、古典的ですが、そうした男性には性的オファーを条件に女性の望みを叶えようとする輩がいます。エンタメ業界ではいわゆる「キャスティング・カウチ」(映画に出演させてもらうなどのために、監督、プロデューサーなどが女性に性的サービスを要求すること)があります(ジャニーズの状況は重層的で複雑ですが、この類型に近かったと言えるでしょう)。このようなことは許されるべきことではなく、女性がより活躍の場を広げていくために、「取り引き」をする必要はまったくないのです。
こう考えてくると、単純に「女性活躍」「女性の社会進出」などと言われますが、教育やスキル、機会のあるなしのほかにこのような目に見えない障壁が多く女性には存在していると言えます。
残念なことに援助をする側の心理職や医療職などでも、十分に性被害や性的虐待について理解し、的確に援助をする力があるかというと、一般にはそうではないと言える気がします。警察や司法などでは体験や気持ちを否定される、理解してもらえない、共感してもらえないなどのいわゆる「セカンドレイプ」(secondary trauma)が起こることが少なくないかと思いますが、本来精神科領域や心理領域でそのようなことはあってはならないはずです。
が、実際にはなかなか打ち明けてもらえなかったり、そもそもそれが性被害・性的虐待だと自覚していなかったりするような場合もあります。健忘(自分に起こった重大な出来事を忘れてしまっていること)もあります。それに関わる怒りは絶大なものなので、怒り自体、別のこころの場所に格納(つまり解離)されている場合もあります。
話が大人の被害の話から子ども、子どもの性的虐待にまで及んでいますが、敢えてこういうこともあるのだ(実は少なくはない)ということを知ってもらいたいと思いました。大人で被害に遭う人が、子ども時代に被害歴を持っていて、繰り返しを体験している場合もあります。それは記憶に残っていることもあれば、忘れ去られている(解離性健忘)の場合もあります。性被害体験は、長く悪影響を及ぼします。今のところそのような事例に出会ったことはありませんが、中には老年になって思い出すという人もいるようです。
悪影響、と書きましたしいろいろな症状も述べてきましたが、すべてが「真っ暗」というわけでもありません。治療の一つのゴールは被害体験やネガティブな体験を含め自分の体験に「意味を見いだす」ということにあります。性被害体験を十分にプロセスした人には、生きる意味や力が感じられたり、自分の経験を活かして他者を援助したりといった道を歩もうとしたりということもあるでしょう。いずれにせよ被害に遭ってしまった場合、回復には時間を要することが多く、それをプロセスしつつ生きて行く道を模索するということになるでしょう。
伊藤詩織さんは著作『Black Box』の後、さらにこのドキュメンタリーを撮っています。ご自分のストーリーを語るのに映画という形態を取ったのは、多くのトラウマを受けた人が感じるように、どこか「現実ではない」といった感覚があり、体験や記憶を「所有 (own)」したいといった思いもあるのかもしれません。それまで撮られてきたドキュメンタリーという手法を、ご自分にも応用されたということかもしれません。また、自分の視点や感じていることを人から確認(validate)してほしいといったこともあるのかもしれません。いずれにせよ自分事だけにしたくないという気持ちで、行動を起こされたということでしょう。
【参考文献】
伊藤詩織・著『Black Box』(2022年、文春文庫)
ジュディス・L・ハーマン・著、斉藤学・訳 『父-娘 近親姦 「家族」の闇を照らす』(2000年、誠信書房)
(これより後の『心的外傷と回復』が有名ではありますが、今回このタイミングでたまたま本書を入手できたため、参考にしました。本書の翻訳出版から四半世紀を経ているのにまだそんなに事態が改善しているように見えないのは、性被害に対処するのにいかに難しさ・抵抗が存在しているかということを示唆しているでしょう。)
常見陽平・著『日本の就活-新卒一括採用は「悪」なのか』(2025年、岩波新書)
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