『知性の再定義』第2章:社会はどのように人を動かしているのか
私たちは、自分の意思によって人生を選んでいると考えている。
どの学校に進むのか。どの会社に入るのか。どのような働き方を選ぶのか。何を買い、誰と付き合い、どこで暮らすのか。日々の小さな選択から、人生を左右する大きな決断まで、その多くを自分で決めているように感じている。
この感覚は、人間が主体として生きるために必要なものである。
自分の人生が、すべて誰かによって決められていると考えながら生きることは難しい。人は、自分で選んだという感覚を持つことによって、選択の結果を自分の人生として受け入れる。
しかし、自分で選んでいるという感覚と、本当に自由に選んでいることは同じではない。
私たちが選択するとき、その前にはすでに、選択肢が用意されている。何が望ましいかを判断する基準があり、何を成功とみなすかについての社会的な合意がある。そして、ある選択をすれば評価され、別の選択をすれば不安や不利益を感じるような環境が存在している。
人間は、何もない場所で自由に選んでいるのではない。
あらかじめ方向づけられた空間の中で選んでいる。
社会が人間を動かすとは、誰かが直接命令することだけを意味しない。
選択肢をつくり、評価の基準を与え、感情を刺激し、人間が自ら望んで行動するように仕向けることもまた、人間を動かすということである。
選択の前にあるもの
私たちは、何かを選ぶとき、自分の意思に注目する。
なぜこの会社を選んだのか。
なぜこの商品を買ったのか。
なぜこの生活を望むのか。
そして、その理由を自分の価値観や性格によって説明する。
安定を重視しているから、大企業を選んだ。
成長したいから、忙しい仕事を選んだ。
自分らしく生きたいから、ある生活様式を選んだ。
しかし、その価値観がどこから来たのかについては、あまり考えない。
なぜ大企業が安定していると感じるのか。
なぜ忙しいことが成長と結びついているのか。
なぜ特定の生活様式が自分らしさの表現になるのか。
個人の希望に見えるものの多くは、社会の中で形成されている。
家族からの期待、学校で受けた教育、同世代との比較、企業の広告、メディアが示す成功像、SNSで繰り返し目にする生活。それらが長い時間をかけて、何を欲しいと感じるかを形づくっている。
人間は、社会から独立した欲望を持っているわけではない。
何を望むかそのものが、社会との関係の中でつくられる。
このとき重要なのは、社会が一方的に人間を支配しているわけではないということである。
人間は社会から影響を受けながらも、自分なりに解釈し、選び、拒み、修正する。すべての人が同じ価値観を持つわけではない。
それでも、個人が選択を始める以前に、社会がその選択の地形をつくっているという事実は変わらない。
私たちは自由に歩いている。
しかし、歩いている道そのものは、すでに誰かによってつくられている。
選択肢を与えるという統治
社会は、必ずしも人間に対して「これを選べ」と命令しない。
むしろ、複数の選択肢を提示する。
進学するか、就職するか。
正社員になるか、非正規で働くか。
都市に住むか、地方で暮らすか。
会社に残るか、転職するか。
選択肢が複数存在すれば、人間は自由であるように感じる。
確かに、選択肢が一つしかない社会よりも、複数の選択肢がある社会の方が自由である。選択の幅が広がることには、明確な価値がある。
しかし、選択肢が増えることと、自由が無限に広がることは同じではない。
何が選択肢として提示され、何が選択肢から外されているのか。
それぞれの選択肢には、どのような評価と不利益が結びついているのか。
選んだ後に、どのような生活が可能になるのか。
そこまで見なければ、選択の実質はわからない。
例えば、働き方の多様化が進んだと言われる。
正社員、契約社員、派遣労働、業務委託、副業、フリーランスなど、形式上の選択肢は増えている。
しかし、それぞれの選択肢が同じ程度の安全、所得、社会保障、信用を与えるわけではない。ある働き方を選べば住宅を借りやすくなり、融資を受けやすくなり、将来の見通しを立てやすくなる。一方で、別の働き方を選べば、自由度は高くても、不安定さを個人で引き受けなければならない。
この状況で、どれを選んでも同じように自由だとは言えない。
社会は選択を禁止しなくても、それぞれの選択に異なる条件を与えることで、人間の行動を方向づけることができる。
選択肢を用意しながら、その中の一つを最も安全で、最も評価され、最も合理的に見えるようにする。
その結果、人間は自らその選択を行う。
ここに、現代社会における統治の一つの形がある。
評価は命令よりも強い
人間を動かすために、社会は常に命令を必要とするわけではない。
評価があればよい。
学校では、点数や偏差値によって能力が測られる。企業では、成果、役職、給与によって人間が位置づけられる。市場では、売上、利益、価格によって価値が測られる。SNSでは、フォロワー数、再生回数、「いいね」の数によって注目度が可視化される。
これらの数字は、一見すると単なる測定結果である。
しかし、測定は中立ではない。
何を測るかによって、人間の行動は変わる。
試験で問われる知識が決まれば、生徒はそれを学ぶ。
売上が評価されれば、社員は売上を増やそうとする。
投稿への反応が可視化されれば、人は反応を得やすい表現を選ぶようになる。
評価は、行動の結果を記録するだけではない。
行動の方向を先に決める。
人間は、自分が評価される基準に合わせて行動を調整する。評価されないものに時間を使うことを避け、評価されるものを優先する。
その結果、数値化しやすいものが重視され、数値化しにくいものが軽視される。
教育では、試験で測りやすい知識が中心になり、好奇心や違和感、問いを持ち続ける力は評価しにくいものとして後景に退く。
企業では、短期的な成果が重視され、長期的な信頼、組織の余白、人材の持続性は評価に反映されにくい。
SNSでは、すぐに反応を得られる刺激的な内容が広がり、時間をかけて考える必要のある内容は届きにくくなる。
評価基準は、何が重要かについての社会的な宣言である。
そして人間は、その宣言に従って自分の行動を変える。
命令されたからではない。
評価されたいからである。
自発性はどのようにつくられるのか
現代社会における人間の動かし方は、強制よりも自発性に依存している。
上司から命じられたから働くのではなく、自分の成長のために働く。
社会から強制されたから競争するのではなく、成功したいから競争する。
誰かに監視されているから努力するのではなく、自分の価値を高めたいから努力する。
このような言葉によって、人間は自らを動かす。
自発的に行動している以上、そこに支配はないように見える。
しかし、自発性もまた環境の中でつくられる。
評価される人間像が提示される。
そこに近づけば承認され、遠ざかれば不安になる。
努力することが善とされ、休むことが遅れとして感じられる。
成長し続けることが望ましいとされ、現状を維持することが停滞とみなされる。
この環境の中で、人間は自分を管理し始める。
誰かに命じられなくても、もっと働こうとする。
誰かに責められなくても、休んでいる自分に罪悪感を抱く。
明確な競争を命じられていなくても、他者より遅れていることに不安を感じる。
外部からの命令が、内部の要求に変わっている。
社会は人間を直接動かすのではない。
人間が自分自身を動かすようにする。
この仕組みは、命令よりも強い。
命令であれば、命令する者と命令される者が見える。拒否する対象も明確である。
しかし、自分が自分に課している要求は、外部からの圧力として認識しにくい。
もっと努力しなければならない。
成長しなければならない。
価値のある人間にならなければならない。
それが自分自身の声に聞こえるからである。
「自分のため」という言葉
現代社会では、多くの行動が「自分のため」として説明される。
学ぶのは自分のため。
働くのも自分のため。
健康を管理するのも、能力を高めるのも、人脈を広げるのも、自分の将来のためである。
この説明は、多くの場合正しい。
人間が自分の未来のために努力することには意味がある。誰かに強制されるよりも、自分の目的を持って行動する方が望ましい。
しかし、「自分のため」という言葉は、社会的な要求を見えにくくすることがある。
企業が必要とする能力を身につけることが、自分の市場価値を高めることとして語られる。
社会保障の不足を補うために個人が備えることが、自己投資として説明される。
不安定な雇用環境の中で働き続けられるように身体を管理することが、健康意識の高さとして評価される。
制度の側が個人に負担を移していても、それが自分のための選択として理解されれば、問題は見えにくくなる。
人間は、自分のために努力していると感じている。
しかし、その努力が誰のために機能しているのかは、別に考えなければならない。
個人の成長が、本人の生活を豊かにしているのか。
それとも、変化し続ける社会に適応するための終わりのない努力になっているのか。
自分のためという言葉によって、社会からの要求が個人の欲望へ変換されていないか。
この問いを持たなければ、自発性と誘導を区別することは難しい。
比較が生み出す運動
人間は、他者との関係の中で自分を理解する。
自分が速いのか遅いのか、豊かなのか貧しいのか、成功しているのか失敗しているのかは、比較する対象がなければ判断できない。
比較そのものは、人間にとって自然な行為である。
他者を見ることによって、自分の位置を知り、学び、改善することができる。
しかし、比較が常に可視化され、数値化される社会では、それは人間を動かす強力な装置になる。
学校では順位が示される。
会社では評価や昇進の差が示される。
消費社会では、他者が持っているものが見える。
SNSでは、他者の生活、仕事、旅行、身体、交友関係、成果が連続的に表示される。
人間は、自分の現在だけを見て生きることが難しくなる。
常に、誰かの成果と自分を比較する。
比較によって、自分に不足しているものが明らかになる。
もっと働かなければならない。
もっと学ばなければならない。
もっと魅力的でなければならない。
もっと充実した生活を送らなければならない。
比較は、満足を不安へ変える。
それまで十分だと感じていたものが、他者を見た瞬間に不足へ変わる。
社会は人間に対して、直接「もっと欲しがれ」と命令する必要はない。
他者の成功を見せればよい。
比較によって、人間は自ら動き始める。
SNSは何を可視化したのか
SNSは、比較を日常化した。
かつて、人間が詳しく知ることのできる他者の生活は限られていた。家族、友人、同僚、近隣の人々など、比較の範囲は比較的小さかった。
SNSは、その範囲を大きく広げた。
自分と似た年齢、似た職業、似た関心を持つ無数の人間の生活を、いつでも見ることができる。成功した瞬間、幸福そうな場面、美しく整えられた生活が、途切れることなく流れてくる。
ここで見えているのは、他者の生活全体ではない。
投稿する価値があると判断された一部である。
失敗、退屈、疲労、迷い、何も起きていない時間は、多くの場合表示されない。
それにもかかわらず、見る側は、自分の生活全体と他者の切り取られた場面を比較する。
自分の日常が空虚に見える。
自分だけが遅れているように感じる。
他者は前に進んでいるのに、自分は何も成し遂げていないように思える。
この感覚は、行動を生む。
投稿する。
買う。
学ぶ。
働く。
出かける。
身体を変える。
SNSは、単に情報を伝える場所ではない。
比較によって感情を動かし、その感情によって行動を生み出す環境である。
しかも、人間はその行動を、自分が望んで行っていると感じる。
ここでも、命令は存在しない。
存在するのは、他者の姿と、自分の不足感である。
承認はなぜ強いのか
人間は、他者から切り離されて生きることができない。
自分の存在が受け入れられていること。自分の行為が意味を持つこと。集団の中に居場所があること。これらを確認するために、承認を必要とする。
承認を求めることは、弱さではない。
人間が社会的な存在であることの一部である。
しかし、承認が数値化されると、その働きは変わる。
どれだけ見られたか。
どれだけ反応されたか。
何人に支持されたか。
数値によって承認の量が示されると、人間はその数を増やそうとする。
何を言いたいかよりも、何が反応されるかを考える。
自分が何を感じているかよりも、どのように見られるかを重視する。
行動の基準が、自分の内部から他者の反応へ移る。
この変化は、本人にも見えにくい。
自分の意思で表現していると感じながら、実際には反応を得やすい形に自分を調整している。
承認を得られたとき、人間は快い感情を持つ。
得られなければ、不安になる。
この反応が繰り返されると、評価に合わせて行動することが習慣になる。
社会は、人間を罰する必要がない。
承認を与えたり、与えなかったりするだけでよい。
人間は自ら、評価される方向へ動く。
正しさはどのようにつくられるのか
社会には、明文化されていない正しさが存在する。
良い学校に進むこと。
安定した職業に就くこと。
成長し続けること。
健康であること。
自立していること。
周囲に迷惑をかけないこと。
これらは、それぞれ一定の価値を持っている。
問題は、それが唯一の正しさとして扱われるときに生じる。
異なる生き方が存在していても、ある基準だけが望ましいとされる。
その基準から外れる人間は、説明を求められる。
なぜ進学しないのか。
なぜ正社員にならないのか。
なぜ結婚しないのか。
なぜ成長を望まないのか。
なぜもっと努力しないのか。
標準とされる生き方を選ぶ人間は、自分の選択を説明する必要がない。
そこから外れる人間だけが、理由を求められる。
ここに、正しさの力がある。
正しさとは、誰かを直接排除する命令ではない。
ある生き方を説明不要なものにし、それ以外を説明が必要なものにする構造である。
人間は、常に自分の選択を説明し続けることに疲れる。
そのため、多くの場合、社会的に正しいとされる選択を行う。
それが自分に合っているからではなく、最も説明しやすいからである。
正しさは、行動のコストを変える。
従うことを容易にし、外れることを困難にする。
普通という見えない境界
正しさと同じように、人間を動かすのが「普通」という感覚である。
普通に働く。
普通に結婚する。
普通に家庭を持つ。
普通に老後へ備える。
普通という言葉は、具体的な内容を持っているようで、実際には曖昧である。
時代、地域、階層、家族によって、その内容は異なる。
それでも人間は、普通から外れることに不安を感じる。
何が起きるかわからないからである。
普通の道には、先に歩いた人がいる。参考にできる事例があり、社会制度もその生き方を前提としてつくられている。
普通から外れた道には、情報が少ない。周囲から理解されない可能性があり、制度上の不利益を受けることもある。
そのため、人間は自ら普通を選ぶ。
普通を強制されているとは感じない。
安全を選んだと感じる。
しかし、安全と普通が結びついていること自体が、社会の設計である。
制度が特定の家族形態や雇用形態を前提としていれば、そこから外れる生き方は不安定になる。税制、社会保障、住宅、教育、企業慣行が標準的な人生を支えるようにつくられていれば、人間はその道を選びやすくなる。
普通は単なる多数派ではない。
制度によって支えられた選択である。
同調はなぜ起きるのか
人間は、周囲と異なることに不安を感じる。
集団の中で自分だけが違う意見を持つと、自分が間違っているのではないかと思う。全員が賛成している会議で反対意見を述べることには、大きな心理的な負担がある。
同調は、意志の弱さだけから生じるのではない。
人間が集団の中で生きる存在だから生じる。
共同体から排除されることは、長い人類の歴史において、生存の危険と結びついていた。他者と協力し、集団の規範に従うことは、生きるために必要だった。
そのため、人間は周囲の反応に敏感である。
明確に拒絶されなくても、表情、沈黙、態度の変化から、自分が歓迎されていないことを感じ取る。
組織は、この性質を利用して人間を動かす。
規則に書かれていなくても、皆が残業していれば帰りにくい。
自由に発言してよいと言われても、反対意見に対して場が沈黙すれば、次から発言しなくなる。
服装や働き方に自由があっても、昇進している人間が似た行動を取っていれば、人はそこに合わせる。
明示的な命令がなくても、同調圧力は働く。
むしろ、命令がないからこそ、本人は自分の意思で合わせていると感じる。
制度は身体を通じて作用する
社会の影響は、抽象的な価値観の中だけで働くわけではない。
それは身体に作用する。
評価されないことへの不安によって、心拍が上がる。
周囲から遅れている感覚によって、休んでいても緊張が解けない。
失敗を恐れることで、睡眠が浅くなる。
常に反応を確認することで、注意が分散し、疲労が蓄積する。
社会の基準は、身体の状態を変える。
身体の状態が変われば、判断も変わる。
疲れている人間は、複雑な選択を避ける。
不安の強い人間は、安全に見える選択を優先する。
孤立を恐れる人間は、周囲と同じ行動を取りやすくなる。
つまり社会は、価値観を教えるだけで人間を動かしているのではない。
不安、緊張、安心、承認といった感情を通じて身体に作用し、その身体状態を通じて選択を方向づけている。
第1章で見た違和感も、この関係の中で生まれる。
社会が求める行動と、自分の身体が耐えられる状態が一致しない。
制度上は合理的な選択と、自分が生き続けられる選択が一致しない。
そのズレが、疲労、息苦しさ、納得できなさとして現れる。
違和感は、社会の構造に対する身体の反応でもある。
効率は誰のためのものか
現代社会において、効率はほとんど疑われない価値になっている。
同じ成果を、より短い時間で実現する。
同じ費用で、より多くを生み出す。
無駄を減らし、手続きを簡素化する。
効率化には明確な利点がある。
人間を不要な作業から解放し、資源の浪費を減らし、生活を便利にする。
しかし、効率化によって生まれた余裕が、誰に配分されるのかは別の問題である。
仕事が効率化されても、労働時間が短くなるとは限らない。
短時間でできるようになった分だけ、より多くの仕事が求められることがある。
AIによって文章作成や情報整理が速くなっても、その時間が人間の休息に使われるとは限らない。より速い対応、より多くの成果、より高い生産性が、新たな標準になる可能性がある。
効率化が、人間の自由を増やすとは限らない。
効率の基準が更新され、人間がそれに適応することを求められるだけかもしれない。
このとき、効率は中立的な技術ではなく、人間を動かす評価基準になる。
遅いことが悪い。
待つことが無駄である。
考え続けることが非生産的である。
すぐに答えを出せる人間が優秀である。
この価値観の中では、違和感を保持し、結論を保留し、十分に考える行為は評価されにくい。
社会の効率化は、人間の思考の速度まで規定する。
自由は負担にもなる
選択肢が増える社会では、人間は自由になる。
しかし同時に、選択の責任も増える。
どの働き方を選ぶか。
どの能力を身につけるか。
どこに住むか。
どの情報を信じるか。
かつて制度や共同体が決めていたことを、個人が決めなければならなくなる。
選択がうまくいけば、自分の判断が正しかったと考える。
失敗すれば、自分の選択が間違っていたと考える。
社会の構造や選択肢の偏りは見えにくくなり、結果だけが個人の責任として残る。
自由が増えたはずなのに、人間の不安が増えるのはそのためである。
選ばなければならない。
しかも、正しく選ばなければならない。
自分に合った仕事、自分らしい生き方、最適な学び、望ましい健康、適切な人間関係を、自分で設計しなければならない。
社会は個人に自由を与える。
しかし、その自由を管理する責任まで個人に委ねる。
この状況で、人間は常に自分を点検する。
この選択でよいのか。
もっと良い道があるのではないか。
他者に遅れていないか。
自分の可能性を無駄にしていないか。
自由は、解放であると同時に、終わりのない自己管理になる。
AIは選択を助ける
選択肢が増え、不安が大きくなる社会において、AIは有力な補助者となる。
大量の情報を整理し、比較し、自分に合いそうな選択肢を示す。
どの学校がよいか。
どの仕事が向いているか。
どの商品を買うべきか。
どの方法で学ぶべきか。
どのような生活習慣が望ましいか。
AIは、複雑な選択を扱いやすくする。
人間の負担を減らし、見落としていた可能性を示すことができる。
しかし、AIが選択を補助するとき、その判断は中立ではない。
どの情報を重視するか。
何を成果とみなすか。
どの条件を望ましいと考えるか。
その前提によって、提示される選択肢は変わる。
収入を重視すれば、ある仕事が推奨される。
安定を重視すれば、別の仕事が選ばれる。
成長機会を重視すれば、負担の大きい環境が望ましいと判断されるかもしれない。
AIは、与えられた目的に対して最適な手段を示す。
しかし、その目的を誰が決めたのかは、別の問題である。
最適化は、目的を疑わない。
目的が成長であれば、成長に向かって最適化する。
目的が効率であれば、効率に向かって最適化する。
その結果として、人間の身体や生活の持続性が損なわれても、それが評価基準に含まれていなければ、問題として認識されない。
AIの危険は、誤った答えを出すことだけではない。
与えられた目的を、あまりに効率よく実現することにもある。
個別最適化がもたらすもの
AIは、人間一人ひとりに合わせて情報を提示することができる。
過去の行動、関心、購買履歴、検索、発言などから、その人が何を好み、何を避け、どのような表現に反応しやすいかを推測する。
そして、最も受け入れられやすい情報を、最も受け入れやすい形で提示する。
これは便利である。
必要のない情報を減らし、自分に関連するものを早く見つけることができる。
しかし、個別最適化は、人間がどのような情報環境に置かれるかを見えにくくする。
自分が見ているものが、他者も同じように見ているものだとは限らない。
なぜその情報が表示されたのか。
なぜその選択肢が勧められたのか。
どの情報が表示されなかったのか。
その基準を、利用者が理解することは難しい。
社会による誘導は、これまで多くの人に共通する評価や規範を通じて行われてきた。
AIによる誘導は、一人ひとり異なる形で行われる。
ある人には不安を刺激する情報が有効であり、別の人には承認を与える表現が有効である。本人の関心や弱さに合わせて、行動を促すことができる。
個別最適化された環境では、誘導はより自然に見える。
自分が関心を持っている情報が表示され、自分に合った提案を受け取っていると感じる。
しかし、その関心自体が、繰り返し提示された情報によって強化されている可能性がある。
人間は自分の欲望に従っているように見える。
同時に、その欲望が環境によって育てられている。
見えない設計
ここまで見てきた社会の働きを整理すると、そこにはいくつかの共通点がある。
社会は、選択肢を設定する。
どのような生き方が可能であり、どのような選択が困難であるかを決める。
社会は、評価基準を設定する。
何が価値を持ち、何が成功であり、何が遅れであるかを示す。
社会は、比較をつくる。
他者との位置の差を可視化し、不足感や焦りを生み出す。
社会は、承認を配分する。
どのような行動が受け入れられ、どのような行動が無視されるかを示す。
社会は、普通と正しさをつくる。
従うことを容易にし、外れることのコストを高くする。
そして社会は、これらを通じて、人間が自ら行動するようにする。
ここに明確な命令者がいるとは限らない。
誰か一人が社会全体を設計しているわけでもない。
制度、企業、市場、メディア、学校、家庭、技術が、それぞれ異なる目的で動いた結果として、一つの環境が形成される。
その環境の中で、人間は何を望み、何を恐れ、どのように行動するかを学ぶ。
社会とは、人間の外側にある巨大な命令装置ではない。
人間の欲望、感情、身体、判断の中に入り込み、自発的な行動を生み出す見えない設計である。
自由とは何か
ここまで考えると、一つの疑問が生まれる。
人間は本当に自由なのだろうか。
欲望が社会によって形成され、選択肢が制度によって設定され、評価によって行動が方向づけられているのであれば、自由な選択など存在しないようにも思える。
しかし、社会から完全に独立した自由を想定すること自体が現実的ではない。
人間は、言葉、文化、制度、他者との関係を通じて自分をつくる。社会の影響をすべて取り除いたところに、本当の自分が存在するわけではない。
自由とは、影響を受けないことではない。
自分が何から影響を受けているのかを理解し、その影響との関係を選び直すことではないだろうか。
評価を完全に無視することはできない。
他者との比較をなくすこともできない。
社会の制度から離れて生きることも難しい。
それでも、自分がどの評価に従っているのかを知ることはできる。
どの不安によって動いているのかを考えることもできる。
当然だと思っていた選択肢を疑い、別の基準を持つこともできる。
自由は、制約がない状態ではない。
制約を見えないまま受け入れるのではなく、それを認識したうえで判断する力である。
知性は構造を見る
ここで、知性の役割が明確になる。
知性とは、社会の外に立つ能力ではない。
人間は社会の外へ出ることはできない。
知性とは、自分が置かれている構造を理解する力である。
なぜ自分はこの選択を望んでいるのか。
その欲望は、どのような評価によって形づくられたのか。
この制度は、どのような行動を促しているのか。
自分が自発的に行っている努力は、何によって必要とされているのか。
何が自由として示され、何が最初から選択肢から外されているのか。
こうした問いを持つことによって、人間は社会の影響から完全に自由になるわけではない。
しかし、影響を受けていることに気づかない状態からは離れることができる。
社会に動かされている自分を理解し、そのうえで、どこまで従い、どこで距離を取り、何を拒むかを判断する。
それが、知性の働きである。
社会だけでは説明できない
しかし、人間の行動を社会の構造だけで説明することもできない。
同じ制度の中にいても、人によって反応は異なる。
同じ評価を受けても、強く不安になる人もいれば、あまり気にしない人もいる。
同じ情報環境に置かれていても、影響を受けやすいときと、そうでないときがある。
なぜ、この違いが生まれるのか。
そこには、身体の状態と感情の働きが関係している。
十分に眠れているときと、疲労しているときでは、社会からの圧力の感じ方が異なる。
安心している人間と、不安の強い人間では、同じ選択肢に対する判断が変わる。
承認を必要としているとき、人間は評価に敏感になる。
孤立を恐れているとき、同調しやすくなる。
社会は、人間の外側から一方的に作用するわけではない。
身体と感情を通じて作用する。
そして人間の側も、その時々の状態によって異なる反応を返す。
社会、身体、感情、思考は分かれていない。
一つの行動の中で、同時に働いている。
それにもかかわらず、私たちはこれらを別々のものとして理解してきた。
社会の問題は社会学に、身体の問題は医学に、感情の問題は心理学に、思考の問題は教育や哲学に分けてきた。
その分断が、人間の全体像を見えにくくしている。
次章では、なぜ知性がこのように分断されてきたのかを考える。
人間を理解するための知識は増え続けている。
それにもかかわらず、なぜ私たちは人間を全体として捉えることができないのか。
その理由を、近代的な知の構造から見ていく。
