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【#Podcast】オレたちの「オカルト」語り オーマがオカルトから離れられない理由【#オレモノ】

「俺たちのモノ語り」は、まことオーマが映画・趣味・気になるモノを肩の力を抜いて語り合うポッドキャストです。
このnoteでは、収録の中から「これは面白い」と感じた論点や作品・アイテム、そのテーマへのハマり方などを編集・再構成してお届けしています。
ポッドキャストを聴いた方は補助線として、はじめましての方はここから気軽に読み物としてどちらからでも楽しんでもらえたらうれしいです。

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@oremono2026

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信じているか、と聞かれたら困る。

妖怪も、幽霊も、陰謀論も、完全に信じているわけではない。日ユ同祖論の語源比較は強引だし、レプティリアンはそもそも何を言っているのかよくわからない。水木しげるを読み漁った子どもも、地方の民間伝承を集め歩いた十代も、「これは全部本当だ」と思っていたわけではなかった。

それでも、惹かれてきた。ずっと。

この文章は、オカルトを信じている人間の告白ではない。眉唾だとわかっていながら、それでも手を伸ばしてしまう感受性が、どこから来てどう育ったのかを、できるだけ正直に書いたものだ。


第1章 水木しげると世界のゆがみ方

物心ついたころから、水木しげるを読み漁っていた。

正確に言うと「読む」というより「眺めていた」に近い。あの独特の密度で描きこまれた背景、ぬるっとした輪郭の妖怪たち、どこか抜けた顔をした人間。何度も何度も同じページを開いては、絵の隅をじっと見ていた。

怖かった、というのは半分だけ正しい。もう半分は、「世界にはこういう側面もあるかもしれない」という感覚の方が近かった。たとえば目に見えない何かが、日常のすぐ裏側にいる。川の淵に、古い木の根元に、夕暮れの路地に、何かがいる可能性が捨てられない——そういう感覚を、水木しげるは子どもの自分に植えつけた。

ただ、あれは恐怖漫画というより、むしろ博物学に近かった。妖怪たちはきちんと名前を持ち、生態を持ち、土地を持っていた。出自がある。なぜそのような存在として語られてきたのかという、長い時間の堆積を感じた。それが面白かった。

幼いころは当然そんな言語化はできていない。ただページを開くと、どこかわくわくするものがあった。あの感覚の正体を今の言葉で言うなら、「世界はまだ説明しきれていないかもしれない」という予感への興奮だったと思う。

怪異を信じていたかどうか、当時はよくわからなかった。少なくとも、「絶対にいない」とは思っていなかった。いるかもしれないし、いないかもしれない。そのどちらでもない場所に、妖怪たちはいた。そしてその場所が、妙に居心地よかった。

第2章 土地の記憶を集めていた

小学校の高学年になると、旅行先で必ず立ち寄る場所ができた。地方の本屋や資料館に置いてある、その土地の民間伝承をまとめた冊子や本である。

観光地のガイドブックには興味がなかった。知りたかったのは、この土地に何が棲んでいたとされていたか、何を祀っていたか、何を恐れていたか、だった。

特に惹かれたのが、水神様にまつわる話だった。

水神様の伝承は地域ごとにひどくばらつく。蛇として描かれる土地もあれば、女性の姿として語られる土地もある。無害なものもあれば、人を引き込む恐ろしいものとして語られることもある。川に近い集落ほど話が豊かで、川との付き合い方が長いぶんだけ、物語も複雑に育っていた。

同じ「水の神」でも、こんなに違う。

それが面白かった。信仰として均一化されたものではなく、その土地その土地でまったく違う形で育ってきた想像力が、ページの間に閉じこめられていた。これはもう信仰の話ではなく、人がどう水を恐れ、どう水に祈ってきたかの記録だと思った。

神話や伝承を「事実かどうか」で読んでいたわけではない。そこに何が刻まれているかを読んでいた。恐怖の形、願望の形、土地の形。

旅から戻るたびに本棚が少し厚くなった。読み返すたびに、各地の水や土地の匂いが少し蘇る気がした。今でもその感覚は変わっていない。

第3章 陰陽道という体系との出会い

妖怪や伝承への関心が深まるにつれ、自然と陰陽道に引き寄せられていった。

きっかけは確かではないが、陰陽道には妖怪や民間伝承にはない「体系」があった。五行、方位、時刻、物忌み、祓い、式神。世界を読み解くための枠組みが、精巧に組み上げられている。不思議なことに、これが非常に面白かった。

信仰として向き合ったわけではない。どちらかというと、「見えないものをどう把握しようとしてきたか」という思想の構造に惹かれていた。

人はどうにかして、わからないものを理解可能にしようとする。予測できない天変地異に意味を与え、不幸の原因を特定し、回避する方法を設計する。陰陽道はその試みの、非常に高度な一形態だと思った。非科学的ではあるが、ロジックはある。ルールがある。内部的な整合性がある。

この感覚は今でも続いている。

オカルト全般に言えることだが、私が惹かれるのは「信じるかどうか」よりも先に、「なぜそういう体系が生まれたのか」という部分だ。人間が不確かさと向き合うとき、どのような思考の枠組みを作り上げてきたか。陰陽道はその一つの極致として、今もずっと面白い。

ただし、それを言いながら、晴明神社に行くと少し背筋が伸びる。完全に「研究対象」としてだけ見ているわけでもない。そのあたりの宙づり感は、自分でもよくわかっていない。

第4章 木が「大丈夫?」と言った気がした

中学の国語で、一篇のエッセイを読んだ。

内容は、散歩の途中で老人が木に話しかけているのを見た、というものだった。老人は木と会話しているようだった。書き手はそれを遠くから見ていた。笑い飛ばすでもなく、驚くでもなく、ただ「そういうことをする人もいる」として静かに受け取っていた。

そのエッセイが、妙に頭から離れなかった。

翌日から、登校時に学校の木に挨拶するようになった。当時の自分がなぜそうしたのかは今もよくわからない。「試してみた」という感じもあったし、それが自然に感じられた、という側面もあった。クラスメイトには見せなかった。別に恥ずかしかったわけでもなく、ただ人に見せるものではないと思っていた。

それが数週間続いたころ、靭帯を痛めて松葉杖での登校が続いていた時期があった。

松葉杖でいつもの木の前を通ったとき、ふと「大丈夫?」と言われた気がした。

声ではない。音でもない。ただ、そういう感じがした。

今でもこれをどう説明したらいいかわからない。木がしゃべった、とは思っていない。少なくとも今の自分はそう断定しない。疲れた中学生が自分に語りかけたのかもしれない。毎朝挨拶していた木への親しみが、そういう知覚を生んだのかもしれない。

ただ、あの感覚はたしかにあった。そして、嬉しかった。

それが全てだと思う。事実かどうかより、あのとき自分が感じたことの方が、ずっと長く残っている。

第5章 幽霊と陰謀論と私

今でも、幽霊はちょっと信じている。

見たこともある気がする。「気がする」というのが正直なところで、断定できる根拠はない。ただ、あれは何だったんだろうと今も思っている出来事が、いくつかある。そのあたりを掘り返しても文章が間延びするだけなので詳細は省くが、完全には否定できずにいる。

陰謀論も好きだ。

日ユ同祖論、青森のキリストの墓、レプティリアン。

日ユ同祖論は、日本の祭りの掛け声や習慣がヘブライ語と一致するという話で、証拠の強引さは明らかだが、ロマンがある。青森の戸来村には、キリストが日本に逃れてきて晩年を過ごしたという伝承があり、墓もある。レプティリアンは爬虫類型宇宙人が世界の支配層に紛れこんでいるという説で、もはや何を言っているのかよくわからないが、話の構造自体は面白い。

全部本気で信じているかというと、そうではない。

日ユ同祖論の語源比較は都合よすぎるし、キリストの墓の話には歴史的裏付けがほぼない。レプティリアンに至っては、証拠と呼べるものがそもそも何もない。

ただ、これらの話には共通する何かがある。

どこかで誰かが「自分たちの由来や意味を、もっと大きな物語の中に置きたい」と思った結果として生まれた話に見える。歴史の隙間に物語を差し込もうとする衝動、あるいは目に見えている権力や出来事の裏に何か別の構造があるはずだという感覚。それ自体は、人間が持つ自然な知的欲求の一形態ではないか、と思っている。

怪しい。眉唾だ。でも惹かれる。

その感覚を切り捨てる気にはなれない。

第6章 眉唾を愛するということ

自分がオカルトに惹かれる理由を一言で言えと言われたら、こう答えると思う。

「なぜ人は、そういう話を作るのかが好きだから」

妖怪も、水神様も、陰陽道も、木にまつわる記憶も、陰謀論も、それぞれ別のジャンルに見えるが、自分の中では一本でつながっている。共通しているのは、人間が説明しきれないものや、制御できないものに対して、何らかの形でアクセスしようとしてきた痕跡だということだ。

それは信仰の場合もある。恐怖の場合もある。物語の場合もある。でたらめな推測の場合もある。その「でたらめ」の部分も含めて、なぜ人はこういう話を必要とするのかを考えると、人間が見えてくる気がする。

自分はオカルトを信仰していない。少なくとも体系的には。

ただ、完全に切り離して「非科学的なものには興味がない」と言い切れるかというと、そうでもない。幽霊はちょっと信じているし、陰謀論の話を聞くとわくわくするし、晴明神社では背筋が伸びる。

それでいいと思っている。

眉唾なものを眉唾なまま楽しむのが、自分のオカルトとの付き合い方だ。無理に信じようとしない。かといって笑い飛ばしもしない。嘘か本当かより、その話がどこから生まれてきたのかを考える方が楽しい。

木が「大丈夫?」と言った気がしたあの朝のことは、今でも時々思い出す。

あれが何だったかは、たぶん永遠にわからない。でも、あの感覚があったことは本当だ。そしてそれで十分だと思っている。自分がオカルトに惹かれてきたのは、結局そういうことなのかもしれない。証明できなくても、感じたことは残る。人はそういうものに意味を与えずにはいられない。その営みを、自分はずっと面白いと思ってきた。


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