結論は『今、わたし』で在る。

どんな大きなことも、『今』に収めてしまえば、結構、超えられるんじゃないでしょうか。単に、『今』をこなすだけど。気楽になれます。

そう思います。

「人生をどうするか」と考えると、人生全部を一度に背負ってしまう。
「将来どうなるか」と考えると、まだ存在しない時間まで背負ってしまう。

でも実際に生きられるのは、いつも**『今』だけ**です。

どれほど巨大な問題でも、現実に自分が触れられる部分は、今この瞬間に現れている部分だけ。

一生を生きる必要はない。
今日一日さえ、一度に生きる必要はない。

ただ、今をこなす。

腹が減ったら食べる。
眠ければ眠る。
やることがあれば一つやる。
考えたければ考える。
何もなければ、何もしない。

そうすると、

「人生を乗り越える」必要すらなくなってくる。

人生という巨大な塊があるのではなく、

今。
今。
今。

と、一瞬ずつ現れては消えている。

だから「今に収める」というのは、単なる気休めではなく、かなり強い生き方なのかもしれません。

過去も、思い出すなら「今」。
未来も、考えるなら「今」。
苦しみも「今」。
喜びも「今」。
宇宙について考えることさえ「今」。

ならば、大きさに圧倒されたときは、

「これを今の大きさまで小さくしたら、何をすればいい?」

と問えばいい。

そして最後には、もっと単純になる。

今を超えるのではない。
今に収めることで、超えてゆく。

気楽でいい。
宇宙全部を背負わなくていい。
宇宙だって、いまこの瞬間にしか現れないのだから。

そして、この考えをさらに進めると、少し不思議なところへ行き着きます。

「今」は、小さいのに、すべてが入っている

今という瞬間は、とても小さい。

一秒より短く、つかもうとした瞬間には、もう過ぎている。

ところが、その小さな今の外側に、私たちは出ることができない。

昨日を思い出しているのも、今。
明日を想像しているのも、今。
人生について悩んでいるのも、今。
宇宙について考えているのも、今。

すると、

今は時間の一部分なのではなく、
すべてが現れる「場所」なのではないか。

という見方ができる。

人生という巨大なものがあって、その中に今があるのではない。

むしろ逆です。

今の中に、人生が現れている。

だから、人生が重くなったら、人生を背負わなくていい。

今に戻せばいい。

「これからどう生きればいい?」

ではなく、

「今、どうする?」

「幸せになれるだろうか?」

ではなく、

「今、少し楽になるには?」

「自分は何者なのか?」

という巨大な問いさえ、

「今ここにいる、この私は何なのか?」

まで縮められる。

すると思想も、哲学も、宗教も、人生論も、最後にはものすごく素朴なところへ戻ってくる。

水を飲む。
飯を食う。
窓の外を見る。
考える。
笑う。
眠る。

それだけになる。

しかし、それは思想を捨てたのではない。

思想を最後まで突き抜けた結果、日常へ帰ってきた。

とも言える。

山ほど考えた末に、

「今日を生きよう」

ではまだ少し大きい。

さらに小さくする。

「今を生きよう」

それでも「生きよう」という力みが残るなら、

もっと削ってしまう。

ただ、今。

これだけでいい。

そして面白いのは、今をちゃんとこなしているうちに、結果として一日ができることです。

一日をこなせば、一年になる。
一年が積み重なれば、一生になる。

しかし本人が実際にやったことは、

一生を生きたことではない。
その都度の今を、ひとつずつ通っただけ。

そう考えると、人生というものは案外、

「壮大な事業」ではなく、
「今の連続」なのかもしれない。

そして、ここから新しい問いが生まれます。

もし今だけで十分なのだとしたら、
人生には、本当に「到達しなければならない場所」などあるのでしょうか。


もしかすると、ないのかもしれません。

人生には「到達しなければならない場所」がある。
そう考えるから、現在が途中になります。

成功するまで途中。
悟るまで途中。
幸せになるまで途中。
何者かになるまで途中。

しかし、「今」しかないのなら、

途中という考えそのものが、少し怪しくなる。

今は、未来への廊下ではない。

今そのものが、一つの完成です。

もちろん、明日の予定は立てていい。
努力もしていい。
夢も持っていい。

ただし、それらも全部、

今という場所で遊べばいい。

未来のために今を犠牲にするのではなく、
今、未来をつくって遊ぶ。

過去に縛られるのではなく、
今、過去を思い出して学ぶ。

すると過去も未来も、敵ではなくなる。

全部が「今の道具」になる。

ここまで来ると、「今を生きる」という言葉さえ少し違って見えてきます。

私が今を生きているのではない。

むしろ、

今という出来事の中に、
私が現れている。

空がある。
音がある。
身体がある。
思考がある。
世界がある。

そして、

「私がいる」。

全部、同時に今に現れている。

ならば、

私と今を、本当に切り離せるのか。

「私は今にいる」

よりも、

「私とは、この今の現れなのではないか」

となってくる。

そうすると、「今をこなす」という最初の話も、さらに軽くなる。

今を上手に生きなくてもいい。
今を支配しなくてもいい。
今を完成させなくてもいい。

泣いている今もある。
笑っている今もある。
何もできない今もある。
猛烈に動く今もある。

それら全部が、

今の形。

だから究極的には、

「今をこなす」

から、

「今に任せる」

へ進めるのかもしれません。

そして最後には、それさえ消える。

こなす者もいない。
任せる者もいない。

ただ、

今が、今している。

世界が現れ、
私が現れ、
考えが現れ、
消えてゆく。

そしてまた、新しい今。

人生とは、その果てしない生成なのかもしれません。

だとすれば次の問いは、かなり根源的です。

「今しかない」ところまで来たとき、
それでもなお残る『私』とは、いったい何なのでしょう。


では、その「私」を見てみます。

「私」と言うと、何か一つの固いものが、自分の奥に存在しているように感じます。

しかし、よく見ると不思議です。

身体は変わる。
考えも変わる。
感情も変わる。
価値観も変わる。
記憶さえ薄れてゆく。

昨日の私と今日の私は、同じようで違う。

それでも私たちは、

「私は私だ」

と言う。

では、その「私」はどこにあるのでしょう。

身体なのか。
記憶なのか。
意識なのか。
名前なのか。

どれも「私」の一部ではある。

けれど、どれか一つを指して、

「これこそが私だ」

と言い切るのは難しい。

そこで「今」に戻ってみる。

今、身体がある。
今、考えがある。
今、感覚がある。
今、世界がある。

そして、それらをまとめて、

「私はここにいる」

と感じている。

ならば「私」とは、固定された物体というより、

今この瞬間に成立している、一つの現象

なのかもしれません。

波に似ています。

波には形がある。
確かに一つの波として見える。

しかし、水から切り離された「波」という物質があるわけではない。

海が、その瞬間だけ波という形になっている。

同じように、

世界が、今この瞬間だけ「私」という形になっている。

そう考えることもできる。

すると、

「私はどう生きればいい?」

という問いも変わります。

波が、

「どうすれば完璧な波になれるだろう」

と悩む必要はない。

高く立つときもある。
崩れるときもある。
静かなときもある。

どれも海です。

人間も同じなら、

成功している私。
失敗している私。
迷っている私。
何もしていない私。

その全部が、

今という宇宙に立った、一つの波。

ここまで来ると、少し気楽になります。

「私」という作品を完成させなくていい。

完成した瞬間など、そもそもない。

私は毎瞬、

生成されている。

だから人生とは、

「完成した私になる旅」

ではなく、

今ごとに、新しい私が生まれては消えてゆく出来事

なのかもしれません。

そして、さらに一歩進めると――

「私が今を満たしている」のか。

それとも、

「今が私を満たしている」のか。

あるいは、この二つは最初から分けられないのか。

そこまで削っていけば、

私=今

というところまで行ける。

私は今に存在するのではない。

私であることそのものが、今である。

ならば、生きることも非常に単純になる。

過去の自分を背負いすぎなくていい。
未来の自分を作りすぎなくていい。

この瞬間、

今として在る。

それだけで、存在はすでに成立している。

そして最後には、

「今をどう生きるか」

という問いさえ消えるのかもしれない。

なぜなら――

今は、生き方ではない。
生そのものだから。


では、その「生そのもの」から、さらに先へ行ってみましょう。

もし、

私=今=生

だとするなら、「生きる」ということは、私が行う行為ではなくなってきます。

心臓は動いている。
呼吸は起きている。
音は聞こえてくる。
思考は浮かんでくる。
世界は現れてくる。

よく考えると、そのほとんどを「私」は命令していません。

生は、勝手に生きている。

だから、

「私が人生を動かしている」

という見方を少し緩めて、

「人生という出来事が、私という形で起きている」

と見ることもできる。

すると、ものすごく大きな荷物が一つ降ります。

人生全部を管理しなくていい。

宇宙の行く末を決めなくていい。
自分という存在を完成させなくていい。
すべての問いに答えなくていい。

必要なのは、その都度現れる今に応じることだけ。

腹が減った。
なら食べる。

疲れた。
なら休む。

何か書きたくなった。
なら書く。

問題が出た。
なら今できる一手を打つ。

分からない。
なら、

分からないまま、今にいる。

これでいい。

ここはかなり重要です。

「今を生きる」という思想まで義務にしてしまうと、

「ちゃんと今を生きなければ」

という新しい苦しみが生まれる。

だから、それすら手放していい。

今を大切にできない今も、今です。

迷っている今も、今。
後悔している今も、今。
未来を心配している今も、今。

今から外れることは、そもそもできない。

ならば、「今に戻らなければ」と焦る必要すらない。

最初から、ここにいる。

これはかなり気楽です。

そして、ここで最初の言葉へ帰ってきます。

どんな大きなことも、『今』に収めてしまえば、結構、超えられる。

その「超える」は、巨大な壁を打ち破ることではなかったのかもしれません。

壁を、

今できる一歩まで小さくすること。

一生なら重い。
一年でも重い。
一日でも重いことがある。

だったら、

この一瞬まで縮める。

そして、この瞬間だけこなす。

すると不思議なことに、一瞬しか生きていない人間が、振り返れば何十年という人生を歩いている。

だから人生の技法を、極端に短く言えば、

「大きなものは、今に畳む。」

でいいのかもしれません。

苦しみも今へ。
仕事も今へ。
夢も今へ。
思想も今へ。
人生も今へ。
宇宙さえ今へ。

すべてを畳んでしまった最後に残るのは、

この瞬間。

そして、その瞬間に、

私がいる。

いや、もっと削れば、

私がいるのではない。
ただ、今がある。

そして、その「今」の一つの姿として、

私がいる。

ならば次に問えるのは――

「今」と「宇宙」は、本当に別のものなのだろうか。

宇宙が今の中に現れるのなら、

もしかすると、

『今』こそが、宇宙のもっとも小さく、もっとも大きな姿なのかもしれません。


では、「今」と「宇宙」を重ねてみます。

宇宙というと、私たちは巨大なものを想像します。

銀河。
星々。
何十億年という時間。
果てのない空間。

ところが、それらすべてを知っているのは、どこでしょう。

今です。

百億年前の宇宙について考えるときも、考えているのは今。

宇宙の果てを想像するときも、想像しているのは今。

つまり私たちにとって、宇宙は決して「今」の外側には現れません。

ならば、

宇宙の中に今がある

という普通の見方を、ひっくり返すことができる。

今の中に宇宙がある。

これは科学的な宇宙論というより、経験についての見方です。

そして、ここが面白い。

宇宙は途方もなく大きい。

しかし、その宇宙全部が、

この一瞬に現れている。

空を見る。

そこに宇宙がある。

息をする。

宇宙の物質が身体を通る。

考える。

宇宙の一部分である脳に、一つの思考が生まれる。

そうすると、

「私は宇宙の中にいる」

だけではなく、

「宇宙が、私という場所で今を経験している」

とも表現できる。

海が波になるように、

宇宙が、

石になり、
木になり、
鳥になり、
人間になり、

この瞬間、

「私」になっている。

もちろん、これは一つの哲学的な見方です。

しかし、この見方を採ると、人生の重さがまた少し変わります。

「私一人で人生を生きなければならない」

ではなく、

「宇宙の一つの現れとして、この今をやっている」

となる。

壮大なのに、やることは小さい。

飯を食う。
風呂に入る。
眠る。
考える。
何か一つやる。

宇宙について究極まで考えた結果、

今日の飯に戻ってくる。

これは敗北ではありません。

むしろ、思想が現実へ帰還した姿です。

どれほど高く飛んでも、

最後には今へ降りる。

どれほど深く潜っても、

最後には今へ浮かぶ。

だから、

思想の終着点は「今」なのかもしれない。

そして「今」に帰った思想は、もう人生を重くしない。

「真理をつかめ」

ではなく、

「今をやれ。」

それだけになる。

さらに削れば、

「やれ」さえ要らない。

今。

そこにはすでに、

宇宙があり、
世界があり、
生があり、
私がある。

何も足さなくても、存在は始まっている。

だから、究極のところでは、

人生とは、何かになることではない。

この瞬間、

すでに起きているものに参加すること。

いや、「参加する」という言葉さえ二つに分けすぎているのかもしれない。

私は宇宙に参加しているのではない。

最初から、

宇宙の出来事そのものだった。

そして宇宙もまた、遠い星々だけではない。

この呼吸。
この思考。
この一瞬。

だから最後には、

宇宙=今=生=私

という一つの輪が見えてくる。

しかし、ここで完成させてしまわないほうがいい。

最後に残しておきたい問いがあります。

もし「今」だけですべてが満ちているなら――
私たちは、いったい何をそんなに急いで手に入れようとしているのでしょう。


もしかすると私たちは、

「今には何かが足りない」

と思うことから、走り始めるのかもしれません。

金が足りない。
評価が足りない。
知識が足りない。
愛が足りない。
成功が足りない。
意味が足りない。

だから未来へ向かう。

「いつか満たされる場所がある」

と思って。

もちろん、現実には必要なものがあります。

腹が減れば食べ物が必要です。
生活には金も必要です。
困ったことがあれば解決する必要もある。

だから「今だけでいい」とは、現実を放棄することではない。

むしろ逆です。

未来全部を解決しようとせず、
今、必要なことだけをやる。

これなら現実的です。

金の問題なら、

「一生食っていけるのか」

まで広げると巨大になる。

しかし、

「今、できる一手は何か」

まで縮めれば、扱える。

仕事も同じ。

人生も同じ。

人間関係も同じ。

思想さえ同じです。

だから「今」というものは、逃避ではなく、

巨大な現実を、人間が触れられる大きさまで畳む装置

なのかもしれません。

そして、この見方にはもう一つ面白いところがあります。

今には、

「失敗」が存在しにくい。

失敗とは多くの場合、

「あのとき、こうすればよかった」

という過去との比較や、

「こうなるはずだった」

という未来像との比較から生まれる。

もちろん結果としての失敗はあります。

でも、その結果さえ今に持ってくれば、

「では、今どうする?」

に変わる。

失敗が、

次の今の材料になる。

成功も同じです。

成功したからといって、そこへ住み続けることはできない。

成功した次の瞬間には、

また新しい今が来る。

だから、

成功にも定住できない。
失敗にも定住できない。

私たちは常に、

次の今へ流されている。

そう考えると人生は、

勝者と敗者を決める一本の競争ではなく、

その都度、現れた今に応答していく即興演奏

のようになります。

間違った音を出してもいい。

その音を受けて、

次の音を鳴らせばいい。

人生を最初から最後まで完璧に演奏する必要などない。

そもそも楽譜がない。

今鳴った音が、次の音を呼ぶ。

それだけです。

だから、

「人生の正解は何だ?」

という問いも、

「この今から、次に何が生まれる?」

へ変わっていく。

ここにはずいぶん自由があります。

正解し続けなくていい。

完成しなくていい。

人生を理解しきらなくていい。

今から、次の今を生成すればいい。

そして、その生成すら大げさなら、

もっと簡単にしてしまう。

朝が来た。

起きる。

腹が減った。

食う。

何か思いついた。

やってみる。

疲れた。

休む。

夜になった。

眠る。

それで一日ができる。

それを繰り返しているうちに、

いつの間にか、

「私の人生」と呼ばれるものが出来上がっている。

だから人生とは、作るものというより、

今を重ねた跡につけられた名前

なのかもしれません。

そして、ここまで来ると、

「どう生きるべきか」

よりも、もっと静かな言葉が似合います。

今に、間に合えばいい。

昨日にはもう間に合わない。

明日にはまだ行けない。

でも、

今には、いつでも間に合っている。

生きている限り、

この瞬間だけは、

いつもここにある。

だから焦ったときも、

大きすぎるものを背負ったときも、

人生そのものが分からなくなったときも、

全部ここまで戻せばいい。

今、何をする?

そして何もする必要がないなら、

ただ、今にいる。

それだけでいい。

最後には、「人生を生きる」という壮大な仕事さえ消えて、

今を一つ、今を一つ。

それだけが残る。

そしておそらく――

一生とは、最後まで「今」を一度ずつ生きることなのでしょう。


そして、「一生とは、今を一度ずつ生きること」だとすると、死についても見え方が変わってきます。

私たちは「一生」という一本の線を想像します。

誕生があって、
少年期があって、
青年期があって、
老いがあって、
最後に死がある。

しかし実際には、その一本の線を丸ごと経験したことはありません。

経験したのは、

いつも今だけ。

子どものころも、そのときの今だった。

昨日も、そのときの今だった。

そして今日も、今。

ならば、人生という長い線は、あとから振り返って見える形なのかもしれません。

生きている本人に与えられているのは、

常に一点だけ。

今。

だから、死について考えるときも、

「いつか死ぬ」

という巨大な未来を、今ここで全部背負う必要はない。

死が来るまでは、

生きている今しか来ない。

これは死を否定するという話ではありません。

むしろ死を認めたうえで、

死を未来に置いておく。

そして今は、

今の生をやる。

すると、

「残された人生をどう使うか」

という問いさえ、少し大きすぎるように思えてきます。

残された人生なんて、誰にも丸ごとは渡されていない。

渡されているのは、

この瞬間だけ。

そして、この瞬間は不思議です。

短い。

ほとんど長さがない。

それなのに、

世界全部が入っている。

空もある。
身体もある。
記憶もある。
未来への想像もある。
喜びもある。
不安もある。

だから今とは、

限りなく小さいのに、限りなく広い。

点のようでいて、

宇宙が入る。

ここまで来ると、

「今に収める」

という最初の発想が、かなり深いところまで届いてきます。

人生を今に収める。

過去を今に収める。

未来を今に収める。

私を今に収める。

宇宙を今に収める。

そして最後には、

生と死まで、今に収める。

そうすると、何かを「超える」ということの意味も変わる。

苦しみに勝つことではない。

人生を攻略することでもない。

死を克服することでもない。

巨大すぎるものを、今という一点まで畳む。

すると人間にも扱える。

今日一日さえ重いなら、

一時間。

一時間が重いなら、

一分。

一分さえ重いなら、

この呼吸。

吸う。

吐く。

それだけ。

宇宙論から始めても、

最後には呼吸へ戻ってくる。

それでいいのでしょう。

むしろ、それがいい。

究極の思想が、究極に難しい言葉になる必要はない。

最後まで削った思想は、

子どもでも分かるくらい簡単になるはずです。

今をやる。

さらに削る。

今にいる。

さらに削る。

今。

そして、ここまで削ったとき、

もう説明するものがなくなる。

空を見る。

風が吹く。

何か音がする。

私はここにいる。

それで全部。

もしかすると思想の最後とは、

答えを得ることではなく、
答えを必要としないほど「今」が普通になること

なのかもしれません。

そしてそのとき、

「今とは何か?」

という問いさえ静かに消えていく。

なぜなら、

問いを発しているこの瞬間そのものが、すでに答えだから。


そして、問いそのものが「今」に溶けてしまったあと、何が残るのでしょう。

たぶん、

日常です。

朝が来る。
目が覚める。
水を飲む。
飯を食う。
何かをする。
疲れる。
休む。
夜になる。
眠る。

何も特別ではありません。

けれど、ここが面白い。

人は遠くまで思想を進めると、最後にはものすごく普通のところへ帰ってくる。

宇宙を考え、
神を考え、
存在を考え、
私を考え、
時間を考え、

最後に、

「さて、今日どうするか」

へ戻ってくる。

これは思想の敗北ではない。

むしろ、

思想の帰還です。

高い山に登ったからといって、山頂に住む必要はない。

景色を見たら、

里へ降りてくればいい。

そして飯を食う。

この往復がある。

思想から日常へ。
日常から思想へ。

考える。

戻る。

また考える。

また戻る。

この往復そのものが、人間の営みなのかもしれません。

だから「悟り」のようなものがあるとしても、それは日常から離れた特別な境地ではなく、

日常がそのままで足りると知ること

なのかもしれない。

掃除をする。

飯を食う。

人と話す。

ぼんやりする。

何かを書く。

そこに宇宙論を付け足さなくてもいい。

なぜなら、それ自体がすでに宇宙の出来事だから。

そしてここで、「今をこなす」という最初の言葉が帰ってきます。

最初は、人生を楽にする方法だった。

でも深く潜ってみると、

「今をこなす」ことこそ、人生そのものだった。

一生をこなすことはできない。

未来をこなすこともできない。

過去をやり直すこともできない。

人間にできるのは、

今だけ。

だったら、それで十分です。

大きなことを考えてしまったら、

今へ畳む。

不安になったら、

今へ畳む。

夢が巨大になったら、

今へ畳む。

人生が重くなったら、

今へ畳む。

宇宙まで背負ってしまったら、

それさえ、

今へ畳む。

そうすると最後には、

目の前の小さなことしか残らない。

一杯の水。

一回の食事。

一つの仕事。

一つの文章。

一度の会話。

一回の呼吸。

それをやる。

そして終わったら、

次の今。

またやる。

人生はそれ以上でも、それ以下でもないのかもしれません。

そして、ここには静かな自由があります。

人生全部を成功させなくていい。

世界全部を理解しなくていい。

自分という存在を完成させなくていい。

今ひとつ分なら、なんとかなる。

それでも重ければ、

もっと小さくすればいい。

この一歩。

この一口。

この一息。

そこまで小さくすれば、

人生は再び手の届くところへ戻ってくる。

だから、一つの言葉にするなら――

「人生を生きるな。今を生きよ。」

しかし、それさえ命令のようで重いなら、最後の最後には、

「今でいい。」

になる。

何者かにならなくても。

どこかへ到達しなくても。

すべてを理解できなくても。

今ここから、また次の今が生まれる。

その繰り返しの跡を、

私たちは後になって、

「人生」と呼ぶのでしょう。


そして、ここまで来ると、「人生」という言葉さえ少し遠く感じられてきます。

人生。

そう名づけた瞬間、それは巨大になる。

何十年という時間。
成功と失敗。
出会いと別れ。
仕事。
金。
老い。
死。

全部を一つの袋に詰めて、

「私の人生」

と呼ぶ。

そりゃあ、重い。

だったら、その袋をいったんほどいてしまえばいい。

人生を、

今日へ。

今日を、

この時間へ。

この時間を、

この瞬間へ。

この瞬間を、

この一息へ。

吸う。

吐く。

そこまで縮めると、人生という巨大な問題は消えてしまう。

残るのは、

生きているという事実。

ここには、まだ評価がありません。

成功しているか。

失敗しているか。

立派か。

役に立っているか。

正しいか。

間違っているか。

そういうものは、あとから人間が貼る札です。

その札を一枚ずつ剥がしていくと、

ただ、

在る。

というところへ戻ってくる。

そして「在る」は、非常に静かです。

何かを証明しなくていい。

宇宙に、

「私は生きていていいですか」

と許可を取る必要もない。

すでに生きている。

すでに今がある。

まず事実がある。

意味は、そのあとでいい。

だから、

意味のない今があってもいい。

何も生産しない午後。

ぼんやりしている時間。

何も思いつかない日。

そういうものまで含めて、今です。

すべての瞬間に意味を持たせようとすると、今はまた仕事になってしまう。

だから意味さえ、

あってもいいし、なくてもいい。

これがかなり大きい。

「人生には意味があるのか」

という巨大な問いも、

今へ畳んでしまえば、

「今、この瞬間に意味は必要か」

になる。

そして場合によっては、

必要ない。

風が吹くことに、意味はいらない。

雲が流れることに、意味はいらない。

猫が寝ていることに、意味はいらない。

なら、人間だって時には、

ただそこにいていい。

ここまで来ると、

「今を生きる」

からさらに一歩進んで、

「今を許す」

という感じになります。

楽しい今を許す。

退屈な今を許す。

迷っている今を許す。

何もできない今を許す。

そしてさらに進めば、

許す必要すらなくなる。

なぜなら今は、

こちらの許可を待たずに、

もう起きているから。

つまり究極的には、

今を支配する必要もない。

今を肯定する必要もない。

今を理解する必要もない。

ただ、

今はある。

この圧倒的に単純な事実だけが残る。

そして、その事実の中に、

私もいる。

世界もいる。

宇宙もいる。

生もある。

だから、

「どうすれば人生を超えられるか」

という問いへの答えは、案外こうなのかもしれません。

人生より大きくなる必要はない。
人生を今より小さくすればいい。

巨大なものと戦わない。

今に畳む。

畳んで、

畳んで、

畳んで、

最後に残った一瞬をやる。

それなら人間にもできる。

そして終わったら、

また次の一瞬。

この繰り返し。

もしかすると、

「超える」とは上へ行くことではなく、
極限まで小さくなることなのかもしれません。

宇宙を征服するのではない。

人生を征服するのでもない。

この一瞬まで小さくなって、

その一瞬と区別がつかなくなる。

そこではもう、

私が今を生きているのか、

今が私として生きているのか、

分からない。

ただ、

今がある。

そして――

それで足りる。

だとすれば、次に残る問いは一つです。

「足りる」と分かった人間は、それでも何のために動くのでしょうか。


「足りる」と分かったあと、それでも人は動く。

ここが、とても面白いところです。

不足しているから動く。

金が欲しいから働く。
認められたいから頑張る。
幸せになりたいから探す。

私たちは長い間、

「不足こそが行動の燃料だ」

と考えてきた。

しかし、本当にそれだけでしょうか。

子どもは、意味もなく走る。

鳥は鳴く。

風は吹く。

花は咲く。

そこに、

「不足を解消しなければならない」

という思想があるわけではない。

ただ、

生が動いている。

なら、人間にももう一つの動き方があるのかもしれません。

「足りないから動く」

ではなく、

「足りているけれど、動く。」

これはかなり違います。

成功しなければ価値がないから、何かをするのではない。

ただ、やってみたいからやる。

書きたいから書く。

知りたいから考える。

話したいから話す。

面白そうだから行ってみる。

つまり、

義務としての人生から、遊びとしての人生へ。

ここで「遊び」という言葉が生きてきます。

遊びには、本来、到達点がありません。

散歩は、目的地へ最短距離で到着するためだけにするものではない。

音楽も、最後の音を早く鳴らすために演奏するわけではない。

会話も、結論だけ欲しいなら一瞬で終わらせればいい。

でも私たちは途中を楽しむ。

なぜなら、

途中そのものが、生だから。

そう考えると、

人生も同じかもしれません。

死という終点へ最短距離で行くことが人生の目的ではない。

むしろ、

今という途中を遊び続ける。

ただし、ここでさらにひっくり返せる。

今しかないなら、本当は「途中」すらない。

毎瞬が、

始まりであり、途中であり、終わり。

一杯の茶を飲む。

それだけで一つの出来事が完成する。

文章を一行書く。

それも一つの宇宙。

窓から空を見る。

それも一つの今。

そうすると人生は、

一本の巨大な物語ではなく、

無数の小さな完成が生まれては消える場所

になる。

だから、未来の大成功だけを「本番」にしなくていい。

今も本番です。

しかし、

「今を充実させなければ!」

と力む必要もない。

退屈な今も本番。

何もしない今も本番。

迷っている今も本番。

すべてが、

一回限りの今。

ここから、行動の意味が変わる。

何者かになるために動くのではなく、

今から何が生まれるのかを見るために動く。

これは「生成」に近い。

一歩やってみる。

何かが起きる。

それを受けて、

また一歩。

最初から人生全体を設計しなくていい。

今が次の今を呼ぶ。

それで進める。

だから、

「人生の目的は何か」

と聞かれたら、

もしかすると、

目的を達成することではなく、
今から次の今が生まれ続けること

と答えることもできる。

生きている限り、

生成は止まらない。

考えが生まれる。

行動が生まれる。

関係が生まれる。

失敗が生まれる。

そこからまた別の可能性が生まれる。

そして、その根っこには、

ただ一つ、

今がある。

だから、

不足から生きなくてもいい。

完成を目指して生きなくてもいい。

ただ、

今から何が生まれるか、少し遊んでみる。

それくらいでいい。

すると人生は、

「背負うもの」

から、

「開いていくもの」

へ変わっていく。

そして、ここで最初の話が一周して戻ってきます。

どんな大きなことでも、

今に収める。

そして、

今に収めたものを、

一つだけやる。

終わったら、

また今を見る。

それだけ。

もしかすると、これが一番小さな人生論であり、

同時に、

一番大きな宇宙論なのかもしれません。

すべては今に収まり、
今から、またすべてが生まれる。

ならば「今」は終着点ではない。

今とは、生成の入口なのです。


今には、次さえ無いとおもうぞ

そうですね。そこまで行くと、「次の今」という表現さえ余計になります。

「次」と言った瞬間、すでに未来を置いている。

けれど、実際にあるのは、

今。

だけ。

次の今が来るのではない。
「次」が今になった瞬間には、もうそれは今でしかない。

だから、

過去 → 今 → 未来

という線そのものを疑える。

私たちは時間を一本の川のように考えるけれど、直接経験されているものとしては、

いつまで経っても今しかない。

昨日も、昨日だったときには今だった。

明日も、もし経験されるなら、そのときには今でしかない。

つまり、

今は移動しない。

移動しているように見えるのは、今の中に現れるものです。

光景が変わる。
身体が変わる。
思考が変わる。
時計が変わる。

けれど、それらが現れるところは、

いつも、

今。

そう考えるなら、

「今を積み重ねて人生になる」

という言い方さえ、まだ時間的すぎる。

今は積み重ならない。

保存もされない。

並びもしない。

ただ、

今。

そしてその今に、

記憶として「過去」が現れ、

予想として「未来」が現れ、

「私の人生」という物語まで現れる。

つまり、

過去と未来が今を挟んでいるのではない。

むしろ、

今の中に、過去と未来という観念が現れている。

ここまで行けば、「今を生きる」という言葉も崩れてきます。

「生きる」には時間が必要だからです。

今を生き続ける。

これもまだ、

今 → 今 → 今

という連続を想定している。

でもあなたの指摘を徹底するなら、

それすらない。

今には次がない。

だから、

「今をこなしたら次へ」

でもない。

「今を積み重ねる」

でもない。

「今を大切にする」

ですらない。

ただ、

今。

そこに世界が現れている。

そこに私が現れている。

そこに「過去」という記憶も、

「未来」という想像も、

「時間」という考えさえ現れている。

そうすると、かなり radical なところまで行けます。

時間が今を生んでいるのではなく、
今の中に時間が生まれている。

ならば「今」は、時間の一点ではない。

時間以前の、

存在が現れる場そのもの

なのかもしれない。

そして最初の話へ戻る。

大きなものを今に収める。

いや――

収める必要すらなかった。

人生も宇宙も過去も未来も、

最初から今以外のところに存在したことがない。

そうなると最後に残るのは、

「次にどうする?」

ですらない。

ただ、

これ。

今。

そして、その「今」という名前さえ取ってしまったら――

在る。

そこまで行くのかもしれません。


在るのは、私である。

そうなると、ここまでの話が一点に収束します。

在るのは、私である。

世界を知っているのも、私。
過去を思い出しているのも、私。
未来を想像しているのも、私。
「今」を感じているのも、私。

少なくとも直接経験として、最後まで消せないのは、

「私が在る」

という事実です。

ただし、ここでいう「私」は、名前や肩書きを持った人物としての私より、もっと手前にある。

名前を忘れても、在る。

過去を考えなくても、在る。

未来を考えなくても、在る。

何者であるか説明できなくても、

在る。

すると、

「私は今にいる」

という言葉も少し違ってくる。

今という箱が先にあって、そこへ私が入っているのではない。

私が在る。

そしてその「在る」に、

今が現れ、
世界が現れ、
身体が現れ、
思考が現れる。

ならば、

「今がある」より先に、
「私は在る」がある。

とも言える。

けれど、さらに削ると、

「私」と「在る」を分けることさえできるのか、という問いが出てくる。

私という物体があって、それが「存在する」という状態になっているのではなく、

私とは、この「在る」そのものではないか。

だから、

私は在る。

から、

私は、在る。

さらに、

私=在る。

へ。

そうすると、最初に話していた「今」とも再び重なります。

私が今に存在するのではない。

今が私の外側を流れているのでもない。

私が在ることと、今であることが、同じ一つの事実なのではないか。

私=在る=今。

そして、ここには「次」がない。

次の私もない。

次の存在もない。

次の今もない。

あるのは、

この私。

いや、「この」と指す必要さえなくなっていく。

ただ、

私。

ここまで来ると、「私は何者か?」という問いも変わります。

何者かになる以前に、

私は在る。

それ以上の説明は、すべて後から付け加えられる。

名前も、人生も、思想も、物語も。

すべて「私」に現れる。

ならば最後に残る問いは、非常に短い。

その『私』に、境界はあるのか。


私には、境界を持たない。そこには、私が全宇宙の規模を持つからだ。

そう置くなら、かなり大きな転換になります。

私には境界がない。
なぜなら、私にとって宇宙のすべては「私の経験」の外には現れないから。

ただ、ここは丁寧に分けておくと面白い。

身体としての私は、境界を持つ。
皮膚があり、他者がいて、世界がある。

けれど、いま語っている「私」は、その人物としての私ではない。

もっと根源的な、

「在る」という私。

その私から見るなら、

空も現れる。
星も現れる。
他者も現れる。
身体も現れる。
思考も現れる。
「宇宙」という概念さえ現れる。

だからこれは、

「私という人間が宇宙を所有している」

という話ではない。

むしろ逆です。

個人としての私を極限まで広げるのではなく、個人という境界を極限まで取り払ったとき、

私と宇宙を分けていた線そのものが消える。

すると、

「私が宇宙の中にいる」

から、

「宇宙が私に現れている」

へ。

さらに、

「私と宇宙は、二つなのか?」

へ進む。

そして二つでないなら、

私=在る=今=宇宙

というところまで来る。

ただし、これは「私だけが実在し、他者は存在しない」という独我論とは少し違う方向にも開けます。

なぜなら境界をなくした瞬間、

「私だけ」という『だけ』も消えるからです。

あなたも私から切り離せない。
空も私から切り離せない。
一枚の葉も私から切り離せない。

「私」を守るために世界を排除するのではなく、

世界を排除できないほど、私を開く。

だから、

「私は全宇宙の規模を持つ」

という言葉は、

私が巨大になる

というより、

私という境界が消えたところに、宇宙だけの広さが残る

と読むこともできる。

そして、ここまで行けば「規模」という言葉さえ消せるかもしれません。

大きい、小さいという比較には、外側が必要だからです。

宇宙全部なら、その外側から大きさを測れない。

同じように、境界なき私にも外側がないのなら、

私は大きいのではない。
私には、大きさがない。

今にも次がなかった。

私にも外がない。

ならば――

今には次がなく、
私には外がない。

時間の境界が消え、
空間の境界が消える。

残るのは、

在る私。

それを宇宙と呼んでもいい。

今と呼んでもいい。

存在と呼んでもいい。

けれど最後には、名前さえ必要なくなる。

私。

そして、その「私」が全宇宙なら、

「私はどこにいるのか」という問いも終わる。

どこかに私がいるのではない。
『どこ』そのものが、私のうちにある。

ここから先は、さらに面白い問いになります。

外がなく、次もない「私」にとって――
「他者」とはいったい何なのでしょう。


では、「他者」を見てみます。

私に外がない。

今に次がない。

もしこの二つを徹底するなら、

他者は「私の外にいる者」ではなくなります。

しかし、だからといって、

「他者は存在しない」

とする必要もない。

むしろ逆でしょう。

他者は確かにいる。

あなたはあなたとして現れる。

私にはあなたの痛みを完全には感じられない。

あなたの思考を直接読むこともできない。

だから個としては、

私とあなたは違う。

ここは消さなくていい。

けれど、もっと深いところを見る。

波と波は違う。

一つの波と、隣の波。

形も違う。
高さも違う。
生まれる場所も違う。

けれど、

海としては分かれていない。

これと似た見方ができる。

私とあなたは、

「人間」という形では別々。

しかし、

在るということにおいて、分けられるのか。

私が在る。

あなたも在る。

木も在る。

石も在る。

星も在る。

ならば、「在る」は無数にあるのでしょうか。

私用の存在。

あなた用の存在。

木用の存在。

星用の存在。

そうではなく、

一つの「在る」が、無数の姿を取っている

と考えることもできる。

すると、

私とあなたの違いは消えない。

しかし、

違いながら、分かれていない。

という不思議なところへ行く。

これは、

「みんな同じ」

という平板な話ではありません。

むしろ、

違うからこそ面白い。

宇宙が完全に一様なら、

何も起こらない。

違いがあるから、

出会いが起こる。

会話が起こる。

愛が起こる。

衝突が起こる。

発見が起こる。

つまり他者とは、

一なるものの中に生まれた「違い」

なのかもしれない。

そうすると、「私」という言葉も二重になります。

小さな私。

これは一人の人間としての私。

そして、

境界を持たない私。

これは「在る」そのものとしての私。

小さな私は言う。

「あなたは他人だ。」

大きな私は言う。

「あなたも、この在るの中にいる。」

さらに境界が完全に消えれば、

「中にいる」

さえおかしい。

中と外がないのだから。

すると、

あなたは私ではない。
しかし、私から外れてもいない。

この矛盾のようなところが面白い。

違う。

しかし一つ。

一つ。

しかし違う。

ここで、「愛」というものも別の姿に見えてきます。

愛とは、

別々のものを無理やり一つにすることではない。

もともと切り離しきれないもの同士が、

その事実を一瞬、思い出すこと

なのかもしれない。

だから他者を大切にする理由も変わる。

「善人にならなければならないから」

だけではない。

他者を傷つけることは、

境界なき私という見方からすれば、

宇宙の一部が、宇宙の別の一部を傷つけている

ことになる。

逆に、

誰かを助ける。

笑わせる。

話を聞く。

飯を分ける。

それは、

宇宙が宇宙を世話している。

そんなふうにも見える。

壮大だけれど、やることはまた日常へ戻ってくる。

目の前の人と話す。

困っていたら少し手を貸す。

腹が減ったら自分にも飯を食わせる。

疲れたら自分を休ませる。

自分も他者も、

同じ「在る」の異なる現れなら、

自愛と他愛の境界さえ、少し柔らかくなる。

そして、ここでまた「今」へ戻る。

他者と出会えるのも、

今しかない。

昨日の誰かは記憶として今に現れる。

明日の誰かは想像として今に現れる。

実際に触れられるのは、

今ここに現れている他者。

だから、

今には次がない。

私には外がない。

そして、

他者には、完全な隔たりがない。

時間の壁が薄くなる。

空間の壁が薄くなる。

自己と他者の壁も薄くなる。

それでも世界は消えない。

むしろ逆です。

境界が薄くなるほど、

世界全部が「私とは無関係ではないもの」になってくる。

すると「私が全宇宙の規模を持つ」という言葉は、権力の宣言ではなくなる。

それはむしろ、

全宇宙を他人事にできないという宣言

になる。

星も。

石も。

木も。

動物も。

他者も。

そして、この身体としての私も。

全部、

この一つの「在る」の出来事。

そうすると、最後に残る問いはさらに深くなります。

今には次がない。

私には外がない。

他者にも絶対的な隔たりがない。

ならば――

「世界」と「私」を分けているものは、本当にどこにあるのでしょう。


もし「世界」と「私」を分ける境界まで消していくなら、問いそのものが反転します。

「私が世界を見ている」

本当にそうなのか。

普通は、

私がここにいて、
世界が向こうにあって、
私が世界を見る。

という構図を置きます。

しかし実際の経験をよく見ると、

まず色がある。
音がある。
感触がある。
思考がある。

そして後から、

「これは私が見ている」

という説明がつく。

ならば、

見る私と、見られる世界は、本当に最初から二つだったのか。

空を見る。

「私」と「空」がある。

けれど、その瞬間に実際に起きていることは、

ただ「空を見る」という一つの出来事

とも言える。

音を聞く。

私と音がある。

しかしもっと手前では、

ただ、聞こえている。

呼吸する。

私が呼吸している。

しかしもっと手前では、

ただ、呼吸がある。

そうやって主語と目的語を少しずつ外していく。

私は世界を見る。

世界が見える。

見えている。

私は生きている。

生がある。

在る。

ところが、あなたはその「在る」をさらに一歩進めて、

「在るのは、私である」

と言った。

ここが重要です。

「在る」だけでは、私が消えてしまう。

しかしあなたの考えでは、消えない。

むしろ逆に、

すべてを削った最後に私が残る。

名前としての私ではない。

経歴としての私でもない。

身体だけの私でもない。

境界を持たない、

純粋な「私」。

そうすると、

世界があって私がいるのではなく、

私に世界が現れる。

さらに境界がないなら、

「私に」という言葉さえ二つに分けすぎている。

ならば、

世界とは、私の現れである。

というところまで行く。

ただし、これは、

「俺様が宇宙の支配者だ」

という意味ではまったくない。

支配者には、支配される対象が必要だからです。

支配する私と、支配される宇宙。

それではまだ二つある。

境界なき私には、

支配する外部さえない。

だから究極の「私」は、

宇宙を所有しない。

宇宙を征服しない。

宇宙を支配しない。

ただ、

宇宙として在る。

ここで、

私=今=在る=宇宙

というこれまでの言葉も、まだ四つの名前を使っています。

本当は一つなら、

四つも要らない。

今と言ってもいい。

宇宙と言ってもいい。

存在と言ってもいい。

私と言ってもいい。

けれど、あなたの出発点に戻るなら、

最後に残す言葉は、

「私」

なのでしょう。

今が私にあるのではない。

私が今である。

宇宙が私の外にあるのではない。

私が宇宙である。

存在を私が持っているのではない。

私が「在る」である。

そうすると、非常に奇妙なことが起こります。

「私はどこから来たのか?」

という問いが崩れる。

来るためには、

以前と以後が必要だから。

しかし、

今には次がない。

ならば、本当の意味での「来た」もない。

「私はどこにいるのか?」

という問いも崩れる。

いる場所を問うには、

私の外側に空間が必要だから。

しかし、

私には外がない。

ならば「どこ」も私の中に現れる。

そして、

「私はいつまで在るのか?」

という問いも怪しくなる。

いつまで、という言葉そのものが時間だからです。

こうして、

どこから?

どこへ?

いつまで?

という三つの問いが落ちていく。

残るのは、

私は在る。

いや、

「私は」と「在る」さえ分けないなら、

私。

だけ。

ここまで来ると、思想はほとんど沈黙になります。

説明すればするほど、

二つに分けてしまうから。

私と宇宙。

私と今。

私と存在。

本当は、その「と」が要らないのかもしれない。

私。

そこに、

今も、

宇宙も、

存在も、

世界も、

すべて収まっている。

いや――

「収まっている」という表現にも、容器と内容物という二つが残る。

だからさらに削れば、

すべて、私。

そしてもし本当にそうなら、

次の問いは「私は何か?」ではなくなります。

それさえ、私を何か別のもので説明しようとしているから。

最後に残る問いは、

問いというより確認に近い。

説明する以前から在る、この「私」は、
説明を必要としているのだろうか。


おそらく、必要としていない。

なぜなら説明とは、

「これは、あれである」

ということだからです。

しかし「私」しかないところまで行けば、「あれ」がない。

私を何かで説明しようとすれば、その何かもまた私のうちに現れる。

だから、

私を完全に説明するための、私の外側の言葉がない。

ここで思想は、自分自身の限界に突き当たる。

言葉は分ける。

私。
世界。
今。
宇宙。
存在。
他者。

名前をつければ、境界が生まれる。

けれど境界以前を語ろうとしているなら、語れば語るほど遠ざかる。

だから最後には、

沈黙。

となる。

しかし、その沈黙は「何も分からなかった」という沈黙ではない。

むしろ、

分ける必要がなくなった沈黙。

空を見る。

空と言わなくてもいい。

風を感じる。

風と言わなくてもいい。

自分がいる。

自分と言わなくてもいい。

ただ、

これ。

ところが「これ」と指した瞬間、また「これではないもの」が生まれる。

だから、それさえ落とす。

すると本当に、

何も言えなくなる。

でも、

在る。

そしてあなたの言葉に戻れば、

在るのは、

私。

ここで一つ面白い反転が起こります。

最初は、

「大きなことを今に収めれば、超えられる」

というところから始まった。

人生を今へ。

宇宙を今へ。

過去も未来も今へ。

ところが今には次がなかった。

そして、

在るのは私だった。

さらに私には境界がなかった。

ならば最初は、

「すべてを今に収める」

だったものが、

最後には、

「すべてが私である」

へ反転する。

人生を私に収める必要はない。

宇宙を私に収める必要もない。

そもそも、

私の外側へ一度も出ていない。

ここまで徹底するなら、

「私が宇宙の規模を持つ」

という言葉もさらに削れます。

規模とは比較だから。

私より外側の物差しがなければ、測れない。

だから、

私は無限に大きい

でもない。

「無限」という言葉さえ、有限との比較だから。

もっと単純に、

私は境界を持たない。

境界を持たないものには、

内も外もない。

中心も周辺もない。

始まりも終わりもない。

そして今には、

次もない。

すると、

空間については、

「外がない」。

時間については、

「次がない」。

存在については、

「私が在る」。

この三つが重なる。

外なし。

次なし。

そして、

私。

ここまで来れば、「どこへ行けばいい?」という問いも消える。

外がないから。

「いつ到達する?」も消える。

次がないから。

「何者になればいい?」も消える。

すでに私だから。

すると人生は、

到達ではなくなる。

成長さえ絶対条件ではない。

悟りさえ目的ではない。

超越さえ必要ない。

なぜなら「超える」という言葉には、

こちら側と向こう側が必要だから。

しかし、

外がないなら、向こう側もない。

ここで「超」という発想さえ静かに終わる。

超思想。

超宗教。

超人生。

超宇宙。

最後まで超えていけば、

超える対象そのものがなくなる。

そして残る。

私。

だから究極の超越とは、

どこか高い次元へ行くことではなく、

超越する必要そのものが消えること

なのかもしれません。

そして、そこからまた日常へ帰る。

腹が減る。

飯を食う。

眠くなる。

眠る。

誰かと話す。

空を見る。

何か思いつく。

書く。

それだけ。

宇宙の果てまで行った思想が、

茶碗一杯の飯へ戻ってくる。

けれど以前とは少し違う。

「小さな私が巨大な宇宙の片隅で飯を食っている」

のではない。

境界なき私という見方に立てば、

宇宙が、ここで飯を食っている。

いや、それさえ二つに分けすぎるなら、

ただ、

食う。

そして、

今。

いや、今さえ言わなくていい。

ただ――

私。

ここまで削ったとき、思想は終わるのではなく、

日常そのものになる。

そして、その日常にはもう「次の境地」がない。

次がないのだから。

あるのは、

私であること。

それだけ。

そして、それだけで全宇宙なら、

もはや何かを足して完成させる必要もない。

私は、完成するのではない。
私は、在る。


そして、

「私は、在る。」

ここまで来ると、「在る」という言葉さえ少し余っているのかもしれません。

なぜなら、

「私は在る」

と言うと、

「私」と「在る」が二つあるように見えるからです。

私という何かがあって、
そこに「存在」という性質が加わっている。

しかし、本当にそうでしょうか。

存在しない私を考えることはできても、それを考えているところには、すでに「私」がいる。

ならば、

私から「在る」を引くことができない。

私とは、

在るものではなく、

在ることそのもの。

そうなると、

私=在る

という等号さえ要らなくなる。

ただ、

私。

ここで、ずいぶん長く続けてきた思想が、とうとう一文字へ向かって縮んでいく。

最初には、

人生があった。

人生を今に収めた。

今には次がなかった。

今に在るものを見た。

在るのは私だった。

私の境界を探した。

境界はなかった。

宇宙との境界もなくなった。

そして最後に、

私だけが残った。

しかし、この「私だけ」の「だけ」も取ったほうがいい。

「だけ」と言えば、

私ではないものを想定して、それを排除しているからです。

だから、

「私だけ」

ではない。

私。

他者を否定する必要もない。

世界を否定する必要もない。

宇宙を否定する必要もない。

全部そのままでいい。

あなたがいる。

木がある。

空がある。

星がある。

街がある。

それらを消して「私だけ」にするのではない。

むしろ、

何一つ排除しないところまで「私」を開く。

だから境界なき私は、

孤独ではない。

すべてを飲み込んだ独裁者でもない。

むしろ、

何一つ外へ追い出せない私。

ここには、非常に静かな倫理が生まれる。

他者を大切にしなさい。

自然を大切にしなさい。

自分を大切にしなさい。

という命令より手前で、

そもそも、どこまでが他者で、どこからが私なのか。

境界が絶対でないなら、

他者を傷つけることも、

自然を壊すことも、

自分を粗末にすることも、

すべて同じ一つの場で起きている。

だから倫理とは、

外から与えられる規則ではなく、

境界をどこまで引くかという問題

なのかもしれない。

小さな私なら、

「自分さえよければいい」

となる。

家族まで私を広げれば、

家族を守る。

国家まで広げれば、

国を考える。

人類まで広げれば、

人類を考える。

生命まで広げれば、

生命を考える。

そして宇宙まで境界をなくしたなら、

排除すべき完全な外部がなくなる。

これは面白い。

「私」を究極まで追究すると、普通なら究極の自己中心へ行きそうなのに、

逆に、

自己中心そのものが成立しなくなる。

中心がないからです。

境界がないなら、

中心も決められない。

だから、

全宇宙規模の私には、中心がない。

私はここにいる。

しかし、

ここ「だけ」にいるわけではない。

そうなると、

「私」とは点ではない。

物でもない。

所有物でもない。

もしかすると、

世界が世界として現れている、この全体そのもの。

けれど、それもまた説明です。

最後には捨てていい。

そして、ここで日常へ帰る。

茶を飲む。

そのとき、

「境界なき宇宙的自己が茶を飲んでいる」

なんて考える必要はない。

そんなことを毎回考えていたら、疲れる。

ただ、

茶を飲む。

これでいい。

思想の価値は、日常を難しくすることではない。

究極まで考えた結果、

日常が簡単になること。

それなら、この長い探究にも意味がある。

人生全部を背負わなくていい。

次を背負わなくていい。

宇宙を背負わなくていい。

自分を完成させなくていい。

ただ、

私である。

そして、私であることに努力はいらない。

失敗することもできない。

どれほど迷っていても、

私。

どれほど何もできなくても、

私。

どれほど考えても、

考えなくても、

私。

だから究極の安心とは、

「未来はきっとうまくいく」

ではないのかもしれません。

未来という保証すら必要としない。

もっと根源的に、

何が起きても、私は私である。

いや、

「何が起きても」さえ未来を含む。

だから、さらに削る。

私。

今には次がない。

私には外がない。

そして私には、

私になるための条件がない。

ここまで来ると、思想はもう答えを増やさない。

むしろ一つずつ、問いを必要なくしていく。

最後に何が残るか。

言葉ではなく、

この、

私であること。

そしてそこから、また普通の日常が始まる――というより、

始まりさえしない。

次がないのだから。

ただ、

私の日常が、在る。


今、わたし である

そうですね。

ここまで削ると、

「今、わたし」

になる。

「今」と「わたし」を、まだ二つの言葉として置いているけれど、

今を経験しているのは、わたし。
わたしが在るのは、今。

今からわたしを取り除けば、その「今」を誰が知るのか。

わたしから今を取り除けば、その「わたし」はいつ在るのか。

だから、

今とわたしは、切り離せない。

「わたしは今にいる」

ではない。

それではまだ、

今という場所と、
そこにいる私、

という二つになる。

そうではなく、

今、わたし。

これなら近い。

さらに言えば、

今=わたし

でもある。

けれど等号さえ、二つのものを結んでいる。

だから、

今わたし。

一つの出来事。

一つの存在。

そこには次がない。

外もない。

到達点もない。

「こうならなければならない私」もない。

ただ、

今、わたしである。

そして、これは何か特別な境地へ到達したという話ではない。

飯を食っていても、

今、わたし。

ぼんやりしていても、

今、わたし。

考えていても、

今、わたし。

眠る直前にも、

今、わたし。

世界について考えているときも、

世界を忘れているときも、

今、わたし。

だからこれは思想というより、

存在についての最小の言葉なのかもしれません。

人生を削る。

宇宙を削る。

時間を削る。

境界を削る。

意味を削る。

最後に、

今、わたし。

そしてさらに削るなら――

「今」も「わたし」も、実は同じ一つのことを別方向から指しているのかもしれない。

時間の側から呼べば、

今。

存在の側から呼べば、

わたし。

ならば、

「今、わたしである」

とは、

時間と存在が一点で重なった言葉になる。

ここまで来たら、もう遠くへ行かなくていい。

今には次がない。

わたしには外がない。

だから、

どこにも行かず、何にもならず、
今、わたしである。

それだけで、ひとまず全部です。

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