文は人なり 引く美学を考える

先日、Xにこんなことをポストしました。
これをちょっと深堀って残してみる。


このポストの内容は、
noteや他のSNSで自分の内面を表に出す時、
気をつけようと思っていることだったりする。

前のnoteでも書いたけど、
感情は本来その持ち主だけもので
何かを思うこと、考えることは個人の自由。
そもそも秘めていれば目には見えないし、
善悪、正誤、そんな仕分けをされることもない。

でも、言語化して文章に認める行為によって
目に見えるものになった瞬間から、
読み手の解釈や評価が生まれるようになる。

人によってその文章を読んで感じること、
考えることは違って当たり前で、
筆者が意図しない方向に解釈されたり、
変な考察をされたり、歪んだものになる可能性もある。

自分がどんな人物かをある程度わかっている人と顔を突き合わせて表情を見ながら話をすることと、
不特定多数や自分のことをあまり知らない人の目にもつく場所に言葉を置いておくことは、やっぱり違うのである。

そこで勘違いしがちなのが、
『長ったらしく事細かに伝えれば精度が上がるものではない』ということ。
特に起承転結の『承』『転』、結論に向かうプロセスを
どこまで、どう見せるかが結構大切だったりする。

プロセスを詳細に綴れば綴るほどに
読み手は頭の中で深く解釈しようとする。
『こんな背景があったんじゃないか』
『この人はこう思ったんじゃないか』
と、ストーリーを作り上げようとしたり
良くない話の場合は犯人探しをするようになったり
結構厄介な歪みや認識のずれを引き起こすことも多い。
その深読みが大きくなればなるほど、読み手に負担を強いることにも繋がってしまう。

だから私は、(noteやSNSに限らず、LINE、メール、手紙、チャット、プライベート、仕事など)発信する場面に関わらず、
手元にあるすべてを伝えようとするのではなく、
その中で相手にどう伝わってほしいのかを、できるだけ優先していきたいと考えている。

自分の理解欲求を優先して、全てをぶつける時っていうのは、一種の賭けや諦めみたいな感じかもしれない。
『読み手がどう受け取ろうが関係ない、理解されないならそれていいし、ダメなら捨ててもいい。』
くらいの気持ちだったりする。

まぁでも、自由な発信の場とはいえ、
いい大人の人間が毎度そんなことしてられない。
正直さの方向性を誤ってこんなこと毎度やってると、
『こいつ、またかよ』と、
身勝手で自己中心的な人間としか思われないし、
関わりたくなくなる。

自分が発した言葉が相手にどう伝わって、
伝わった先に相手がどう解釈してどんな思いをするか、
そこに想像力を働かせて、
情報過多にならないように気をつける。
伝えたいことと、伝わってほしいことが、
なるべくイコールに近くなるように
そのために必要ないものはそぎ落としていく。
それが引く美学で、思いやりで、筆者の本質だ。

文は人なり。

不思議なことに、この思いやりや筆者の人となりは
言葉の端々から読み手にも伝わったりする。
逆にどんなに柔らかい言葉やポジティブな言葉で飾っても、
自己顕示や損得勘定、誰かを貶めようとする意図があると、それもまた透けて見えたりする。
文章のその先には書き手の姿がしっかり映し出される。

だから、こういうnoteを書く時、
ちゃんと『伝えるもの』になっているか、
それとも『垂れ流すもの』になっていないか、
投稿前に一度立ち止まって、再確認する。
削ぎ落とした余白の中に、
読んでくださる方が少しでも本物の私が映るように、と思いながら。

***

そんな事を考えたのは、OKAMOTO'Sのハマ・オカモトさんの脱退報告の文章がとても良かったり、あと諸々最近思うことがあったから。

同じ事象を伝えるのも、言葉によっては
全く違う伝わり方をしてしまうかもしれない。
この文章には、プロとして見せる部分・見せない部分、
文章の限界を理解した読み手への優しさ、温かみが感じられました。
OKAMOTO'Sとハマ・オカモトさんに良い未来が待っていますように、と思います。


(余談)
私の職場の営業さんに、伝えたいことてんこ盛り、
AIに聞いたことをそのままコピペ、読む気になれないメールやチャットを送ってくる人がいます。
それに困っていたら、同僚が『○○さんの送ってきたものは、AIに入れて3行で要約してって頼んでる』と言っていました。
⋯すごい時代になったなぁと思いました(笑)


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