言葉の溢れる時代に、言葉なき音を聴く。
「クラシック音楽」と聞くと、多くの人はどんなイメージを持つだろうか。
敷居が高そう、お堅い、コンサートにはドレスコードがありそう、あるいは「勉強中の睡眠導入BGM」程度に思っている人も多いかもしれない。
SNSを開けば、数秒から数十秒の短い動画とキャッチーなメロディが絶え間なく流れてくる現代において、1曲に数十分もかかるクラシック音楽は、まさに時代の逆を行く存在だ。
だが、高校生になった僕は、あえてこの「数百年前の音楽」を日常的に聴いている。
歌詞がないからこそ、感情の逃げ場所になる
僕がクラシック音楽に惹かれる最大の理由は、「言葉(歌詞)が存在しないこと」だ。
現代のポップスやJ-POPの多くには、分かりやすく共感しやすい歌詞がついている。
それはそれで素晴らしいことだが、時にはその言葉の具体性が、疲れた心には少し重く感じられることもある。
一方で、クラシック音楽の多くはオーケストラや楽器の音だけで構成されている。
言葉によるメッセージが押し付けられない分、聴いている側のその時の感情によって、受け取り方が無限に広がるのだ。
悲しい時に聴けば静かに寄り添ってくれ、集中したい時には雑音を遮る壁になってくれる。
自分自身の感情を自由に投影できる「余白」があることこそ、クラシックの最大の魅力だと感じている。
作曲家たちの「人間くささ」に共感する
クラシック音楽というと、どこか神聖で完璧なもののように思われがちだ。
しかし、音楽史を紐解いてみると、曲を作った偉人たちは驚くほど人間味に溢れている。
例えば、ベートーヴェンは聴力を失うという音楽家として絶望的な状況に直面しながらも、泥臭くあがき続けてあの壮大な交響曲を作り上げた。
モーツァルトは天才と称されながらも、破天荒で
自由すぎる性格でトラブルを巻き起こしていたという。
数百年前の彼らも、僕たちと同じように悩み、怒り、恋をし、絶望し、それでも何かを表現しようとしていた。
そう知った瞬間、教科書に載っている肖像画の人物たちが、一気に身近な「人間」として立ち現れてくる。彼らが遺した楽譜は、時代を超えた感情の手紙のようなものなのだ。
静寂を味わう贅沢
タイパ(タイムパフォーマンス)や効率が重視され、常に新しい情報がスマホから飛び込んでくる時代だ。
だからこそ、スマホの通知を切り、じっくりと一本の交響曲に耳を傾ける時間は、僕にとって最も贅沢なデジタルデトックスになっている。
オーケストラの重厚な音に身を委ねていると、自分の思考が少しずつ整っていくのが分かる。
「クラシックは難しそう」という先入観を一度捨てて、ただ音の波に漂ってみる。
そこには、情報過多な現代社会から少しだけ離れられる、自分だけの豊かな時間が広がっている。
