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第28話 線の内側

午前十時五十分。

精神科の待合室。

ミナは壁際の椅子に座っていた。

膝の上に鞄。

持ち手には、ラーメンのストラップ。

指で一度だけ触れる。

出向が決まる前から入っていた予約だった。

横浜から来ることになったので、少し遠くなった。

キャンセルすることもできた。

けれど。

職場が変わった。

仕事も変わった。

なら、一度確認しておいたほうがいい。

それだけの理由で来た。

呼び出し番号の電子音が鳴る。

「受付番号、二十三番の方。診察室へどうぞ」

ミナは膝の上の鞄を持ち上げた。

名前は呼ばれない。

この病院を選んだ理由の一つだった。

診察室。

いつもの医師が、カルテから顔を上げた。

「職場、変わったんですね」

「はい」

「急でした?」

「急でした」

「大変?」

ミナは少し考えた。

「仕事は増えました」

「それは大変とは言わない?」

「同じではないと思います」

医師が少し笑った。

「そうでしたね」

ミナは椅子に座っている。

前と同じ距離。

前と同じ部屋。

それだけで、少し確認しやすい。

医師が聞く。

「眠れていますか」

「はい」

「食べられてる?」

「はい」

「朝、起きるのがつらくなったりは」

「ありません」

「仕事のことが頭から離れない?」

ミナは少し考える。

「勤務時間外にも思い出すことはあります」

「止められない感じ?」

「いいえ」

「じゃあ、何してます」

「店を探しています」

医師の手が止まった。

「店?」

「横浜の食事処です」

「なるほど」

「候補が多いです」

医師が笑った。

「それは大変ですね」

「はい」

今度はミナも否定しなかった。

しばらくして。

医師が尋ねた。

「今の職場、人の話をかなり聞く仕事でしょう」

「はい」

「引っ張られません?」

ミナは少し考える。

「相手の話は聞きます」

「うん」

「ただ、その人の判断まで私が持つことはしません」

医師は何も言わず、続きを待った。

「何をしてほしいかは、本人に確認します」

「決まっていなければ?」

「決めなくていいと伝えます」

「佐伯さんが代わりに決めることは?」

「しません」

医師が頷く。

「それなら、今のところ大丈夫そうですね」

ミナは少しだけ首を傾げた。

「それが判断材料ですか」

「一つにはなります」

医師は答えた。

「他人の問題と、自分の問題が混ざり始めると、しんどくなりやすいので」

ミナは黙った。

昔。

他人が怒っていると、自分が何とかしなければならないと思っていた。

誘われれば、断る理由を考えた。

断れば、相手が傷つくところまで自分の責任にした。

それで動けなくなった。

今は違う。

相手が困っている。

それは確認する。

何を望むか。

それも聞く。

けれど。

その人の人生まで、自分の仕事にはしない。

「線は引けています」

ミナが言った。

「そうですね」

医師が答える。

それだけだった。

診察が終わりかけたころ。

医師が聞いた。

「今日はこのあと、横浜に戻るんですよね」

「はい」

「仕事?」

「休日です」

「じゃあ、店巡り?」

ミナが少しだけ顔を上げた。

「その予定です」

「ラーメン?」

「候補にはあります」

医師は少し考えた。

「横浜、醤油系も結構ありますよ」

ミナの視線が変わった。

「店名を伺ってもいいですか」

「そこは食いつくんですね」

「はい」

医師が一軒、名前を挙げた。

ミナはスマートフォンを出す。

店名を入力する。

「ありがとうございます」

「参考程度にね。好みは人それぞれだから」

ミナが顔を上げる。

「はい」

少し考えて。

「その前提なら、助かります」

「でしょうね」

医師は笑った。

診察室を出る。

待合室を抜ける。

外へ出ると、昼前の光が強かった。

ミナは駅へ向かいながら、さっき登録した店を見る。

評価。

写真。

営業時間。

少しスクロールして、画面を閉じた。

まだ決めない。

今日は休日だ。

急ぐ必要もない。

横浜に戻ってから考えればいい。

鞄のラーメンが、小さく揺れる。

ミナは、人に線を引くだけではない。

自分の内側にも、線を持っている。

これは自分の問題か。

相手の問題か。

今、自分は無理をしているか。

まだ、自分で選べているか。

分からなくなれば。

確認する場所へ来る。

一人で正しいと決め続けない。

それもまた、彼女が作った境界だった。

診察を終えたミナは、横浜へ戻る。

今日は仕事をしない。

相談も受けない。

記録もしない。

その代わり。

まだ入ったことのない店へ行く。

線の内側には。

仕事ではない時間も、ちゃんと残っていた。


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