第28話 線の内側
午前十時五十分。
精神科の待合室。
ミナは壁際の椅子に座っていた。
膝の上に鞄。
持ち手には、ラーメンのストラップ。
指で一度だけ触れる。
出向が決まる前から入っていた予約だった。
横浜から来ることになったので、少し遠くなった。
キャンセルすることもできた。
けれど。
職場が変わった。
仕事も変わった。
なら、一度確認しておいたほうがいい。
それだけの理由で来た。
呼び出し番号の電子音が鳴る。
「受付番号、二十三番の方。診察室へどうぞ」
ミナは膝の上の鞄を持ち上げた。
名前は呼ばれない。
この病院を選んだ理由の一つだった。
◇
診察室。
いつもの医師が、カルテから顔を上げた。
「職場、変わったんですね」
「はい」
「急でした?」
「急でした」
「大変?」
ミナは少し考えた。
「仕事は増えました」
「それは大変とは言わない?」
「同じではないと思います」
医師が少し笑った。
「そうでしたね」
ミナは椅子に座っている。
前と同じ距離。
前と同じ部屋。
それだけで、少し確認しやすい。
医師が聞く。
「眠れていますか」
「はい」
「食べられてる?」
「はい」
「朝、起きるのがつらくなったりは」
「ありません」
「仕事のことが頭から離れない?」
ミナは少し考える。
「勤務時間外にも思い出すことはあります」
「止められない感じ?」
「いいえ」
「じゃあ、何してます」
「店を探しています」
医師の手が止まった。
「店?」
「横浜の食事処です」
「なるほど」
「候補が多いです」
医師が笑った。
「それは大変ですね」
「はい」
今度はミナも否定しなかった。
◇
しばらくして。
医師が尋ねた。
「今の職場、人の話をかなり聞く仕事でしょう」
「はい」
「引っ張られません?」
ミナは少し考える。
「相手の話は聞きます」
「うん」
「ただ、その人の判断まで私が持つことはしません」
医師は何も言わず、続きを待った。
「何をしてほしいかは、本人に確認します」
「決まっていなければ?」
「決めなくていいと伝えます」
「佐伯さんが代わりに決めることは?」
「しません」
医師が頷く。
「それなら、今のところ大丈夫そうですね」
ミナは少しだけ首を傾げた。
「それが判断材料ですか」
「一つにはなります」
医師は答えた。
「他人の問題と、自分の問題が混ざり始めると、しんどくなりやすいので」
ミナは黙った。
昔。
他人が怒っていると、自分が何とかしなければならないと思っていた。
誘われれば、断る理由を考えた。
断れば、相手が傷つくところまで自分の責任にした。
それで動けなくなった。
今は違う。
相手が困っている。
それは確認する。
何を望むか。
それも聞く。
けれど。
その人の人生まで、自分の仕事にはしない。
「線は引けています」
ミナが言った。
「そうですね」
医師が答える。
それだけだった。
◇
診察が終わりかけたころ。
医師が聞いた。
「今日はこのあと、横浜に戻るんですよね」
「はい」
「仕事?」
「休日です」
「じゃあ、店巡り?」
ミナが少しだけ顔を上げた。
「その予定です」
「ラーメン?」
「候補にはあります」
医師は少し考えた。
「横浜、醤油系も結構ありますよ」
ミナの視線が変わった。
「店名を伺ってもいいですか」
「そこは食いつくんですね」
「はい」
医師が一軒、名前を挙げた。
ミナはスマートフォンを出す。
店名を入力する。
「ありがとうございます」
「参考程度にね。好みは人それぞれだから」
ミナが顔を上げる。
「はい」
少し考えて。
「その前提なら、助かります」
「でしょうね」
医師は笑った。
◇
診察室を出る。
待合室を抜ける。
外へ出ると、昼前の光が強かった。
ミナは駅へ向かいながら、さっき登録した店を見る。
評価。
写真。
営業時間。
少しスクロールして、画面を閉じた。
まだ決めない。
今日は休日だ。
急ぐ必要もない。
横浜に戻ってから考えればいい。
鞄のラーメンが、小さく揺れる。
◇
ミナは、人に線を引くだけではない。
自分の内側にも、線を持っている。
これは自分の問題か。
相手の問題か。
今、自分は無理をしているか。
まだ、自分で選べているか。
分からなくなれば。
確認する場所へ来る。
一人で正しいと決め続けない。
それもまた、彼女が作った境界だった。
診察を終えたミナは、横浜へ戻る。
今日は仕事をしない。
相談も受けない。
記録もしない。
その代わり。
まだ入ったことのない店へ行く。
線の内側には。
仕事ではない時間も、ちゃんと残っていた。
