映画「プラハの春 不屈のラジオ報道」でメディアの底力に感動し「エディントンへようこそ」でメディアに絶望する
2本の映画について一つの記事に書いてしまう。続けてみたからだが、続けて見たからこそ両方で重要な役割を示す「メディア」について考えてしまうのだ。
「プラハの春」はストーリーが上手い
「不屈のラジオ放送」と副題がついているのだから、1968年のプラハの春とチェコ動乱を舞台に、権力にねじ伏せられてもラジオ放送を続ける人々の話だ。そう聞くと、いかにもリベラルな人々向けに受け止めてしまうが、そんな主義主張を超えた物語の面白さがある。戦車が町を蹂躙される様子も描かれ、予算もかかっていそうな映画だ。
主人公はトマーシュという青年。彼がまずイケメンなのも映画の魅力だ。
トマーシュは両親を亡くし、高校生の弟を無事に成長させることを生き甲斐にしている。通信局に勤める技術者なのだがある日、上司にラジオ局への勤務を命じられる。当時チェコスロバキアは厳しいソ連の縛りから徐々に雪解けムードに包まれつつあった。ラジオ局報道部長のヴァイナーが市民から支持され自由な報道で人気を得ていた。機を見るに敏な上司は、ヴァイナーを助けてやってくれとトマーシュに言うのだ。
ところがヴァイナーがソ連から睨まれていると知るや、通信局の上司はトマーシュにラジオ局の動きの監視を命じる。スパイになれと言われ、弟の将来のために苦渋の決断で情報提供をするようになる。
一方、ヴァイナーたちはデモ学生に警察が暴力を振るった音声を入手する。大統領の不正を暴いて退任に追い込み、改革派ドゥプチェクの第一書記就任を実現する。だがソ連の魔の手がプラハに徐々に近づく。
トマーシュはスパイ行為に悩みながらラジオ局で報道することの意義に目覚める。女性記者との恋愛もありつつ、クライマックスでソ連とワルシャワ条約機構軍の戦車がプラハに押し寄せる中、技術者としてラジオ放送を続ける立役者となる。
放送を続ける中、何度も「心を一つにしましょう」と呼びかける。ラジオというたった一つのメディアのおかげで、プラハの人々は情報を共有でき、一つになれるのだ。
圧倒的な権力に立ち向かう「報道」は圧倒的な正義
書きながら思い出すだけで目頭が熱くなる。ソ連は本当にひどいし、日和見の通信局上司も憎らしい。めげずに弟を守りながらも仲間と市民のために奔走するトマーシュは勇敢だ。勇敢な彼が武器にするのが「放送」だった。
理屈はよくわからないが、放送局が軍の手に落ちても、中継局を結ぶことで放送は続けられる。軍の放送施設も使っていたような。それを実現するのがトマーシュの技術者としての腕だ。スパイ行為もちょっぴりやらかしたが、それを全部帳消しにしてあまりある大活躍。
そこでは「放送」が圧倒的な正義だ。ソ連支配下の東欧で、自由のために放送を続けることはこれが正義じゃなくてなんだ、と言い切れる正義の存在だった。放送は必要だ。メディアの本懐は権力監視だ。市民の代弁をするのがジャーナリストだ。
オールドメディアの皆さんが奮い立ちそうな映画だ。おれたちは正義だ!ネットの怪しい情報に立ち向かえ!
登場人物が全員「正しいのは自分だ」と主張する「エディントンへようこそ」
だがそんな、メディアがメディアであると言うだけで正義だった1968年のプラハから、2020年のニューメキシコ・エディントンに飛んでいくと、メディアが正義なのかなんなのかわからなくなる。
アリ・アスターの新作映画「エディントンへようこそ」。主人公ジョーは保安官。市長エディはマスクをしろと言うが、ぜんそく持ちのジョーはマスクをつけたくない。しかもエディはジョーの妻ルイーズとつきあっていた。10代の頃だが。その時、エディはルイーズにひどい仕打ちをした、とジョーは思い込んでいる。だからジョーは二重三重の意味でエディが嫌いだ。
同居するルイーズの母ドーンは陰謀論にかぶれている。ドーンはある日、カルト教祖ヴァーノンを連れてきて、ルイーズも彼を気に入ってる様子。ジョーは面白くない。
町の高校生たちはBLM(Black Lives Matter)運動に共感し、十数人のデモを始める。全員白人じゃん。ジョーの部下の黒人保安官助手マイケルは参加していた高校生サラに「あなたは共感しないの?」と迫られる。最近でいうアウォークつまり意識高い系高校生たちだ。
町にはデータセンターの建設計画がある。エディ市長が推進しているがその黒幕がワーレンだ。一方町はプエブロ(ネイティブアメリカン居住区)と接していてそこの保安官バタフライは何かとジョーと対立する。
中盤から、謎の集団が暗躍する。どうやら彼らはアンティファのようなのだが・・・
メディアだらけで何が正しいのかわからなくなる
登場人物たちを書き出すだけでややこしい。エディントンはいまアメリカを分断させているグループのるつのぼのようだ。そんな人々が、主人公のジョーも含めてSNSで情報発信するのだ。それぞれの主張は噛み合うことはないので、もう無茶苦茶。混沌としたメディア状況なのだ。
テレビ放送も出ては来るが、米国各地の様子を伝えるだけ。BLMを報道してエディントンの高校生たちを刺激する。正義に見える報道を受けて正義に見える高校生の活動を生んでいる。
既存メディアにもそれぞれが使うSNSにも客観的正義はなく、自分の主張の正しさを表明しているだけだ。1968年のプラハでは唯一のメディアだったラジオが市民の心を一つにした正義だったが、2020年のエディントンでは誰も彼もが正義で、その正義を押し付け合っているだけだ。
メディアのせいなのかはわからないがジョーは暴走していき、正義に決着はつかず、ジョーは可哀想な目に遭う。いや、自業自得なのか。
そんな絶望的メディア状況をこの映画は描いている、とも受け取れる。
一人一人の自己主張と、心を一つにすることは両立できないのか?
「プラハの春 不屈のラジオ報道」と「エディントンへようこそ」はそれぞれ面白い、素晴らしい映画だと思う。だがこれを並べた時、私たちは当惑してしまう。
短絡的に解釈すると、昔のマスメディアは限られた存在だったから価値があり、みんなを一つにできたが、個々人が勝手に発信するSNS時代はメディアが世の中を混乱させるだけになったから、やはりオールドメディアは頑張って正しい情報を伝えるべきだ、となりかねない。だが私はそんな解釈は全否定する。個々人が勝手に情報発信することを否定しているからだ。マスメディアだけが正しい存在になれると言っているだけだからだ。
なにしろ現実はそうなっていない。エディントンでもテレビ報道はいたずらに正義を伝えただけだ。そんなことで兵庫県の混乱は解決できない。エディントンの混沌も解消できない。あなたの正義では何も解決できない、ということだ。
1968年のプラハではラジオ報道は正義だった。圧倒的な権力者がいる時、報道は正義になるかもしれない。だがいまは、自由な社会では圧倒的権力者は存在できないし、だから正義も存在し得ない。自民党や高市早苗首相が圧倒的権力者だと勝手に定義して、それを批判する自分が正義だと言っていればいいが、それでは何も解決できないのだ。
1968年のプラハから2020年のエディントンを経由して私たちがメディアに求めることは、正義を捨てることだと私は考える。あるいは、それぞれの正義がちゃんと混在すること、かもしれない。
正解は見えていないが、これからのメディアの在り方は「一方的な正義」から離れる、ということだと思う。それがどんな形かは、まだわからないが。
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