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「生きてるなあ」と「見せびらかしてんなあ」の境目について関連

TL;DR インターネットやめろ

  • 何を隠そう昔そういう漫画を描いたんですが、2年の時を経て思うところがあったので改めて考えることにします。

  • ぼっち・ざ・ろっく! で喜多ちゃんがSNSを使う理由を「幸せのおすそ分け」って言ってたんですけど、みんなはピンと来ます? 言い得て妙な気もするけど明晰さがないようにも感じる。


  • 好きなバンドとか漫画家のそういう投稿は別に気にならないよね。

  • 気になる人がいたらごめん。

  • なんでかって理由を考えていたんだけど、一つ大きな理由として考えているのは、「彼らはそれを商業的な宣伝としてやっている」から。(そうじゃない人もいる)

  • つまり、彼らはSNS等の発信によってパーソナリティを知らしめて、作り出すものに価値を加えている。

  • 別にこれ自体を糾弾するつもりは一切なくて、まっとうな活動だと思っています。


  • それとはちょうど真反対側だけど、完全な内輪のコミュニケーションでのできごとの共有も気にならない。雑談みたいなもんだから。


  • つまり絶妙に内輪とも外野とも言い切れない場所でやるからなんかめんどくさいことになる。

  • 振り返って、喜多ちゃんがSNSを使うのは「幸せのおす分け」だということだけれど、人の生活を見て幸せを感じる場面ってそんなにあるもんなんだろうか?(穿った見方?)

  • 高校生であるところの喜多ちゃんを責めているわけではないので、喜多ちゃんが好きな人は許してほしい(おれも喜多ちゃん好きだよ)

  • ほとんどの場合、SNSでの発信だって商業的なアーティストがやるのと同じ「自分というパーソナリティのブランディング」に過ぎない(というか、その領域でとどまっていることが多い)。

  • 本人が自覚している、していないはここでは問わない。


  • どだいSNSとはそういう構造を産むものであり、インプレッションの数、フォロワーの数といった定量的な数値を中心にしながら、そうした数値を基にSNS自体によって定義された「よい情報」を積極的に流すようにできている。(もはや陰謀論でもなんでもないだろう。ビジネスを考えたらどうやってもこうなる)

  • 原則として人はよい例を学習して育っていくのであるが、「よい情報」がさらに「よい情報」を生むとき、当然その方向性は狭まっていく。それもそのはずでSNSは全体最適のツールなので、利用者が100人いたとしたら100人がそれぞれ別の投稿を見るより全員で同じ投稿を見たほうが(見た、という行為の総量は同じはずなのに)インパクトが大きく、必然的に「よい情報」とは全体最適を目指して収斂していくからである。

  • だから、そもそもSNSがどれだけ豊かなコミュニティを醸成するためのツールとして有用であるように見えても、そもそもSNS自体が情報の最適化を目標にしている以上我々が目にする情報は一つの方向に向かっていくし、それを見た我々もできるだけそこに近づけるように行動し発信するようになるだろう。

  • もちろん人とは多様性のある生き物なので、属性や個々人の評価の仕方によって多少はキュレーションされていくようにほとんどのSNSは設計されているけれど。

  • もともとの評価の仕方がたった数種類のパラメータによるものなので、個人的にはたかが知れていると思っていますが。


  • もうひとつの個人的な感想としては、もはや個人が(本来的には、自らを売り込む必要が一切ないにも関わらず)セルフ・プロデュースをするまでもなく、十分に商品とそのブランディングは飽和しているだろう、と感じている。

  • どれだけ資本が個人に備わったとしても(そもそも備わっていない場合もある)、人が購買できるものの量は文字通り「高が知れている」。ものを購買するという行為には、資本の他にそれを吟味して買うという行為の時間も消費するからである。

  • 今のところ、時間を増幅させる手段はなく、圧縮するしか方法はない。または使っていない時間を使わせるようにするか。

  • その結果、最短で物を買うように、また持っている時間をできるだけ認知・購買行動に回すように、というのが(もともとそうだったが)広告・ブランディング・マーケティングの主たる指針になっている。

  • そして(良くも悪くも)その手段が民主化(やな言葉だな~)されている(これも、比較的、という話かもだけど)現在においては、より売り手の参入ハードルが低く、もう毛穴まで掘り尽くしたんちゃうんかというくらいニッチなものにもことごとく光が当てられ、商品になっていった。

  • というわけで(以上、個人の感想でした、なんですが)個人的には商品を眺めるだけでも疲れているのに、これ以上商品ですらない個人のブランディングなんか見てもしょうがない、となってしまう。


  • そもそも個人がなんで自分をそこまでして売り込むのかというと、結局社会的な繋がりが対価として差し出されるからである(対価ってのもいやな言葉だな~)

  • そしてその社会的なつながりや、それによって成したことも(ある程度間接的なときもあれど)定量化される。一緒に遊んだ人数や関わった相手のすごさ(これも大体の人は数値で把握してるだろう)、作ったもののこれまた定量的な評価、などなど。


  • 結局これの何を自分があやういか、と考えているかというと、SNSで成功したセルフ・プロデュース(ここでは、定量的な数値を獲得できた、という意味です)は人をさらなるセルフ・プロデュースの海へと駆り立ててしまう、という点に尽きる。

  • まちがっても人を糾弾しているのではない。人は誰かと会って影響を受け、それを次の人に与えることの繰り返しで生きていくのだから。

  • つまり人をセルフ・プロデュースに駆り立てるSNSが悪い(断言)、ということになる。

  • あまりにも乱暴なのでもうすこしちゃんとフローを説明すると、SNSによって「よい」と評価された情報(ほとんどの場合、発信者自身も受け手側によって「よい」と評価される)は他の情報よりも残りやすくなるので、一つのセルフ・プロデュースが成功したことによって駆り立てられた人たちによってなされるセルフ・プロデュースは自ずとその幅が狭くなる。それって多様性がなくてなんかやだなぁ(個人の感想)

  • もちろん人間はヤワじゃないので己のパーソナリティや外側から受けてきたものによってその幅を広げようとするのであるが、あまりにも強大なSNS(と、あまりにも大きくなったコミュニティ)の前には無力である(個人の感想)


  • このたいへんな状況(個人の感想)を解決するためには、概ね2つの案が考えられる。

  1. できるだけSNSのような、全体最適・定量化の論理で動くところを避けてセルフ・プロデュースを実施する。対面のイベントとかだと、比較的力学が弱いのではないか。

  2. そもそもセルフ・プロデュースなんかしなくていい。それぞれの仲間とそれぞれの時間を過ごしていれば、それを発信する必要がない。

  • ちなみにこの解決案は、自他の境界が非常に曖昧で世の中の出来事にたいして極めてナイーブ(ちっとも褒めてない)な人間しかそもそも問題に感じないため、ほとんどの人にとっては実践する意味がありません。

敵か味方か勝ちか負けかを決めた瞬間
急に世界があーあ暗く狭まっていくの
見ていたでしょ?さあ還ろう自由へと

椎名林檎『ジユーダム』
  • たいへん残念なことに自分は該当してしまったため、創作者(と、その創作物)として以外のパーソナリティの話はSNSですることはもうありません。

  • 最近は自分で建てたDiscordのサーバにTwitterというイカれた名前のチャンネルを設置して、そこに(誰もスタンプを押さないのに)延々とツイートし続ける狂人になっています。人間こうなったらおしまい。情報社会の負け犬

  • その昔、数年くらい前まではまだTwitterというのは比較的各々好き勝手につぶやいていて、しょうもないポストばかりで埋め尽くされていた時代があったんじゃ。今となっては昔の話じゃ。めでたくなしめでたくなし。

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