30歳無職、競馬に興味のなかった僕が3300円を失って得たもの
最近、パートナーに連れられて、自分ひとりでは行かないようなところに足を伸ばすことが増えた。山の中のプライベートサウナ、房総半島のいちご狩り、友だちの家のホームパーティー。
基本的にインドア派の僕は、
6月のとある日曜日。今回は、東京競馬場だった。僕たちは各々起き出して、ゆったり午後の準備をしていた。本日開催のG1レース『安田記念』は15時すぎの出走だという。
僕は競馬場という場所にどんな服を来ていけばいいかわからなかったけれど、変に気取るのも違うなと思い、近所の図書館にでも行くような格好をした。家を出ると、雨。小ぶりの雫は、僕たちが電車をいくつか乗り継いで競馬場の土を踏むまで、ささやかに続いていた。
入場ゲートをくぐるとすでにたくさんの人々がコースの傍に集まっているのが見えた。この群衆ひとりひとりが、共通したひとつの目的のためにここにいる。
馬を観る。
ただ、それだけのために。そして、ここにいる殆どがギャンブラーなのだ。僕は今から、彼らとお金を奪い合う。そう考えると、カップルや親子連れすら、なんだか鼻息荒く、目が血走っているように見えるのだった。
◇
建物の中に入る。競馬場、というよりはどこか地方の空港のようだった。天井から吊り下げられた大画面には、便の案内、ではなくレースと馬の情報。たくさんの数字とアルファベットがせわしなく点滅し続け、いくつかの画面のなかでは馬が悠々と駆けている。
ちょうど、レースが始まろうとしていた。
「やってるよ」
彼女は僕の手を引いて、入場ゲートとは反対方向の外へ。そこには本物の馬たちがいた。25メートルプールくらいの小さな競技場を輪になって歩いている。その、迫力。
遠目にではあるものの、大木の根のような筋肉の厚みや、頭を振るたびに波打つ鬣がありありと見て取れた。さっきの画面のなかの彼らとは、まるで別の生き物だった。
「これがパドックで、この子たちが今から走るんだよ」
僕は馬券を買った。生まれてはじめての馬券。パドックでみた、凛々しく、落ち着きのある1頭。馬名は『ナルキッソス』。たしか、ギリシャ神話だったっけ。厳かな名前。
1頭にだけ賭けることを『単勝』というのだそう。賭けた馬が1等にならなければ、払い戻しは受けられない。『まあ、そんなもんだよな』と思った。
人混みに揉まれながら会場に出て、レースを見守る。1600メートルのレースは本当にあっという間だった。芝をえぐる蹄の音が腹に登ってくる。
これが。
これが、競馬。
『ナルキッソス』は6着だった。失われた300円。でも、僕はこのレースで理解した。この300円は賭けたのではない――。
自分がお金を託した馬が走る。
緊張感を得るための演出なのだ。その証拠に、僕は『ナルキッソス』に親しみを覚えたのは当然だし、他の馬たちにも『よく走ったね』と労いの気持ちを覚えた。
この東京8レースをエキサイトするための、いわば映画館で買うポップコーンみたいなものなのだ。ポップコーンにしたって食べても満腹になるわけでもないのだし、映画をエキサイトするためのちょっとした下味なのだ。
◇
下味ついでに、お腹が減った僕らはラーメンを食べた。『俺の生きる道』という二郎系。東京競馬場には、飲食店がいくつか入っていて、フードコートもある。彼女はスペシャルとビール、僕はいつも通り普通盛りを注文。『彼女はきっと食べきれないだろう』という冷静な判断のもと築きあげた習慣だった。なにせ二郎系ははじめてだというのだ。
「二郎はもう、二度と行きません」
案の定、食べ終わったとき、彼女はかなりぐったりして言った。
「でも、二郎ってまた食べたくなるんだよ」
僕は、励ましだかなんだかわからないことを返した。そういえば『俺の生きる道』ってなんだかゲンを担げそうな名前だなと思う。そう。僕たちはゲンを担がなくてはいけない。本当のお目当ては次のレースなのだから。
『安田記念』
ここにいる全ての人が、固唾をのんで見守るであろうレース。ウマ娘に一時ハマっただけの僕ですら、名前を知っている『G1』と呼ばれる大きなレースだった。
◇
結局ラーメンのあと、レモンサワーと大穴ドーナツを楽しみ、競馬場見学を終えた僕らは、再びパドックに足を運んだ。『安田記念』の出走馬たちは、すでに出揃っていた。このレースを見に来るにあたって、二人で下調べをしてきていた。
「何も知らないにしても、名前くらいは知っておいたほうが楽しめるかな」という軽い気持ちだった。事前にインストールした日本中央競馬公式アプリで一覧を開く。いくつかの名前に、目が惹かれた。
『セイウンハーデス』
『ガイアフォース』
そして、『ワールズエンド』。
「みんなラスボスみたいでかっこいい」。僕はこの馬たちに賭けることに決めた。騎手の方にも、かろうじて知っている名前が二人いた。
『武豊』
『C.ルメール』
しかし彼らの馬の名前は『シックスペンス』『トロヴァトーレ』といまいちパッとしなかった。『トロヴァトーレ』はなんだか小洒落ているし『シックスペンス』なんて、日本円で言えば10円かそこらだろう。ラスボスたちに勝てるとは、到底思えなかった。
そして、パドックへ。
僕の選んだ優駿たちは、凛々しく輝いていた。なかでも『ワールズエンド』の風格。
「おいこれ、いけるぞ」
競馬は初体験だが、僕の30年の嗅覚が何かを確信した。
「せっかくだから」
彼女から教えてもらい紙に記入して馬券を購入、それを握りしめて全体が見渡せる3階のフロアに出た。ラスボスたちに賭けた馬券と、もう一枚。
『11』
『ワールズエンド』
『単勝』
レースが、始まる。中央のスクリーンにはさきほどとは違い、派手な演出が流れていた。このレースの歴史、栄光、そして、ファンファーレ。最後の馬が、スタート位置につく。ゲートが開くと、全ての馬が弾丸のごとく飛び出す。
先頭は……11番『ワールズエンド』。
レースの最中、先頭を走る馬は、俗に『逃げ馬』というらしく、『逃げ馬』は終盤に追い上げてくる後続に捕まらないようにできるだけそのリードを広げなくてはならない。
『ワールズエンド』はかなりよいスタートを切ったように見え、『逃げ馬』として二番目の馬との距離をぐんぐん離していく。
「いけっ、いけえっ」
声が抑えきれない。僕と彼女以外にも、そこかしこから応援する声や分析する声が飛んでいる。
首の後ろが、焦げつくような感覚。
レースに出ているわけでもないのに。
背後に何かが追いすがっている。
身体が前に傾く。
自分が『ワールズエンド』の背にいるかのように。
最後の直線。
『ワールズエンド』だけではなく、僕が買った他のラスボスたちも上がってくる。『ガイアフォース』と『セイウンハーデス』も見事に先頭争いに食い込んでくる。
「これは、いけるぞっ」
みんなの興奮は最高潮だった。
そして、幕。
周囲がどよめいている。
「どうなった」
「すごかったねえ」
「誰、誰」
「シックスペンスかよお」
どこかで、声がした。
◇
結果、2026年『安田記念』の覇者は『シックスペンス』と『武豊』氏だった。2着は『ワールズエンド』と『ガイアフォース』の同着。それゆえ3着はおらず、4着に『セイウンハーデス』。
「え」
自分の手のひらを開いた。ふたつの馬券は今、強く握りしめたせいで、すこし歪んでいる。
「『シックスペンス』いなかったら、めちゃくちゃ勝ってたじゃん」
「競馬って、そういうもんだから」
彼女は慣れた口調で言った。しかし、僕は奥歯が軋るほどの情動を覚えていた。あとすこし、あとすこしだったのに。ほんの1頭の馬、それも10円かそこらの名を冠した馬に、僕の3000円が持っていかれた。あの馬さえいなければ、今ごろ彼女にマウントをとり、ディナーをごちそうする算段でも立てていたというのに。
だいたい、そのくらいの差なら、ニアピン賞みたいなものがあってもいいではないか。並びは合っていたのだから、そういう類いの払い戻しも用意するべきでは。大体、一着がなんだというのだ。
小学生のかけっこじゃあるまいし、脚の速さというものだけで勝敗がつくというのはなんとも前時代的ではないか。もっとこう、なんというか、フォームの正確さだったり、いななきの美しさだったり、人望の厚さだったりが評価基準になってもいいはずで……。
僕のラスボスたち……。
僕の『ワールズエンド』……。
競馬生涯収支、-3300円。
しかしこの日、僕が持ち帰ったものは、この損失以上のものだった。
負けた競馬で得たもの
一般的に、競馬というものには良くないイメージがついて回る。
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