『鎧と議事録』
その日、私のデスクの上に置かれた一枚のノート――その日最初のセッションの「議事録」には、ある女性の、長く、そして重い足跡が刻まれることになった。
彼女がドアを開けて部屋に入ってきたとき、私はその独特の雰囲気にすぐ気がついた。 背筋は不自然なほどピンと伸び、言葉遣いは丁寧で、専門的な心理学の用語をいくつも交えながら、自分の状況をスラスラと説明する。一見すると、理性的で、自分の悩みを客観的にコントロールできている大人の女性に見えた。
「いろいろ勉強してきたんです」 彼女は少し硬い微笑みを浮かべながら言った。
彼女のこれまでの数年間は、壮絶な「たらい回し」の歴史だった。 数年前、仕事と人間関係のストレスで心が動かなくなったとき、彼女はSNSで見つけた華やかなカウンセラーの元を訪ねたという。画面の向こうのその人は「うちに来れば右肩上がりに良くなりますよ」と、眩しい笑顔で言ってくれた。
けれど、通い始めてしばらく経った頃、彼女の心に異変が起きた。張り詰めていた緊張が解けた反面、これまで蓋をしてきた過去の失敗や、ドロドロとした暗い感情が、一気に溢れ出してきたのだ。 前よりもずっとしんどい。夜も眠れない。
「話が違う」 彼女は恐怖を感じ、そのカウンセリングを跳び出すようにやめた。その場所が自分をどん底に突き落としたのだと思ったからだ。
そこから彼女の彷徨(さまよ)いが始まった。 別の場所を探し、また最初のうちは「良くなった気がする」と感じ、けれどプロセスが進んで本当の底が見え始めると、また怖くなって辞める。それを繰り返すうちに、彼女の頭にはネットや本で仕入れた「変な知識」や「ノウハウ」だけがどんどん溜まっていった。
「私はインナーチャイルドが傷ついていて、愛着障害の傾向があって、だから認知の歪みを直さなきゃいけなくて……」
彼女がスラスラと語るその言葉は、自分の心を守るために必死に身にまとった、ガチガチの「鎧(よろい)」だった。知識が増えれば増えるほど、彼女は自分の本当の弱さを誰にも見せられなくなり、プライドの城壁は高く、厚くなっていった。
人間は、心が傷つきすぎると、これ以上壊れないために脳が強制的に「省エネモード」に入る。お風呂に入れない、片付けができない、連絡を返せない。それらはすべて心が必死に出しているSOSだ。
けれど彼女は、そのSOSを認められなかった。だから変な知識を身につけ、鎧を重ねて、気合いで乗り切ろうとした。その結果、心の中のドミノが完全に倒れきり、もう一歩も動けなくなった結果、文字通り「最後の砦」として、私の元へ辿り着いたのだった。
私は、彼女が語る専門用語をただ静かに聞き流し、ポツリと言った。 「たくさん勉強して、必死に自分を守ってきたんですね。でも、もうその難しい教科書、全部ここに置いていって大丈夫ですよ」
彼女の目から、すっと涙がこぼれた。
そこからのセッションは、気が遠くなるほどの労力と、膨大な時間を要した。 彼女が数年かけて身にまとったガチガチの鎧を、一枚ずつ、傷つけないようにゆっくりと剥がしていく作業。頭に溜まった余計な知識をリセットし、まっさらな状態に戻すのには、本当に骨が折れた。
もし、もっと軽いうちに。もっと傷が浅いうちに。それこそ心の中のドミノがまだ1枚か2枚しか倒れていない段階で出会えていれば、こんなに苦しまずに、もっとずっと早く手放して楽になれたはずなのに。そんなもどかしさが、私の胸を幾度となくかすめた。
数ヶ月が経ち、彼女の鎧が完全に外れた頃、やはり「その瞬間」はやってきた。 彼女は激しい感情の波に襲われ、ベッドから起き上がれなくなるほどの、本当の「底」を迎えた。
けれど、私はあらかじめ、手元にある膨大な「議事録」のデータから、彼女にこう伝えてあった。 「順調にいけば、途中で一度、前よりもしんどく感じる底が来ます。でもそれは悪化しているんじゃない。古い自分を手放すための、絶対に外せない通過点だから、怖がらなくていいですよ」
底の暗闇の中で、彼女は私のその言葉を、一本の「杖」のように握りしめていた。 あらかじめこれから起こる心のバイオリズムを知っていたから、彼女は今度こそ逃げ出さずに、自分の足でその底を踏みしめることができた。
「本当に、言われた通りの順番で感情が動いていくから、なんだか予言者みたいですね」 ある日のセッションで、少しすっきりした顔の彼女がそう笑った。
予言でも、魔法でもない。 ただ、毎日淡々と議事録をとり、人が本当に再生していくリアルなルートを、事実として知っているだけ。
本当の底を通り抜けた彼女は、それから驚くほど早く、頭でっかちだった頃の余計なこだわりや執着を、手放していった。部屋を出ていく彼女の背中は、初めて会ったときのあの不自然なほどまっすぐな硬さはなく、とてもしなやかで、軽やかだった。
夕暮れの静かな部屋で、私は今日の彼女の議事録をパタンと閉じる。
カルテの棚には、彼女と同じように、いくつもの場所を巡り、ガチガチの鎧を着込んでから辿り着いた人たちの記録が並んでいる。そのどれもが、手放すまでに気の遠くなるような時間と、大きな痛みを伴っていた。
ドミノが完全に倒れきり、重症化してしまってからでは、元に戻すためにそれだけのコストがかかる。病院の薬で無理やり抑え込むような状態になる前の、まだ「軽い傷」のうちであればあるほど、人はもっと早く、もっと鮮やかに、自分を取り戻せる。
手遅れになる前に、動かなければいけない。
引き出しに万年筆を収めると、部屋にはただ、夜の静寂だけが残った。
ネットの知識やノウハウを詰め込み、ガチガチの「鎧」を着込んで重症化してしまう前に。
「発作・検索・確認・回避」のループから抜け出せないのは、あなたの努力が足りないからではありません。心がその苦しさを生み出す「仕組み」を、まだ知らないだけ。
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