手ぶらの旅人と、嵐の設計図
第一章:引き算の正論
「どう計算しても、最初の一歩で座礁します」
二十代の若き俊英、レンは、目の前の古びた木机に何十枚もの進捗管理表(ロードマップ)とキャッシュフローのシミュレーションシートを叩きつけた。
部屋の主である宗次(そうじ)は、もうすぐ八十を迎えようという老人だった。かつて世界中の未開の土地を巡り、独自の「対話と仕組み」だけで巨大な国際パイプラインやインフラをいくつも通してきた、伝説のプロデューサーだ。
いま、宗次は「老兵の最後の仕事」として、ある過疎化した湾岸都市に、誰でも無償で最先端の技術を学べる民間の巨大な「学びの砦」を作ろうとしていた。地元の市役所の若手職員たちも「それは素晴らしい、街の未来のために絶対に必要な事業だ」と現場レベルでは涙を流して応援し、微々たるものだが、地域創生用の公的な初期助成金の枠をなんとか確保してくれた。
しかし、レンにはどうしても許せない「数字の穴」があった。
「今回の行政の助成金は、全額支給じゃありません。総事業費の3分の2までしか出ない。しかも精算払いです。つまり、最初の建築資材や講師の確保のために、最低でも最初に二千万の『手元資金』、あるいは『つなぎ融資』が必要です。ですが、現在のこの事業の口座はほぼゼロ。宗次さん、あなた自身も一円も出す気がないし、どこからも借りるつもりがないと言い張っている。数字が、絶対に合わないんです」
レンは冷徹に宗次を見据えた。 「この最初の二千万の支払いをどうクリアする気ですか。まさか、役所の書類を水増しして二重請求するような、昔のグレーな手口を使うつもりじゃありませんよね? 今の時代のコンプライアンスを舐めないでください」
宗次は、窓の外の海を眺めたまま、ゆっくりと煙草の煙を吐き出した。その横顔には、焦りも怒りもなかった。ただ、深い退屈のようなものだけが漂っていた。
「レン、お前は本当に優秀だ。計算も正しい」 宗次は振り返り、若者の目をまっすぐに見つめた。 「だが、お前には分からなくていい。ゼロから大きな神輿(みこし)を担ぎ上げた『経験』がない人間には、今は分からなくて当然の話なんだよ」
「またそれだ!」 レンは声を荒らげた。 「その『経験』という言葉で煙に巻くのをやめてください! 私はあなたの信者じゃない。もしこれが、ただの過去の栄光に縋った老人の妄想なら、私は今すぐこのプロジェクトから離れます。奇跡を起こさない男の自滅に、私の人生を付き合わせるつもりはない」
宗次は、ふっと悪戯っぽく笑った。 「それでいい。本物じゃなきゃ、いつでも俺を捨てろ」
第二章:手ぶらの記憶
宗次が何度も役所の相談窓口に足を運び、職員たちと泥臭いすり合わせを繰り返していることは、レンも知っていた。かつて世界を回っていた大物が、いまや地方自治体の小さなデスクで頭を下げている。しかし、その顔はいつもどこか愉しげだった。
レンが苛立ちを抱えたまま、かつて宗次と共に異国を旅したという、引退した老貿易商の男を訪ねたのは、その翌週のことだった。
「宗次が、一円も出さずに二千万の壁を突破しようとしている、だと?」 老貿易商は、レンの話を聞くと、腹を抱えて笑い出した。
「お若いお方、あんたは宗次という男の『本当の履歴書』を知らない。あの男はな、三十年前、東南アジアの巨大なファミリーのトップにその『器』を認められた男だ。ファミリーの世界の信用というのは、銀行の残高証明や契約書なんかより遥かに重い。宗次はな、手元に一円の金も持たず、ただの身一つ、手ぶらで世界中の巨大ビジネスを動かしていたんだよ」
「手ぶらで……?」
「そうだ。宗次が『この事業は、未来のために絶対にやる価値がある』と本気で語れば、一族のボスたちは『よし、宗次が動くなら、必要な金も、土地も、人材も、すべてファミリーの財布から出せ』と、喜んで金を差し出した。宗次はな、金を借りるんじゃない。自分の生み出す『ビジョンの信用』と引き換えに、他人に喜んで金を出させる天才なんだ。彼にとって、金は自分で用意するものではなく、志の周りに勝手に集まってくる『燃料』に過ぎないんだよ」
レンの脳裏に、激しい衝撃が走った。 すべてのパズルが、凄まじい音を立てて噛み合っていくのを感じた。
宗次が今、あちこちの地元の有力企業や社長たちに会いに行っているのは、事業の利権を売るためでも、頭を下げて借金をするためでもなかった。
「……パトロンだ」レンは呟いた。
「そうだ」老貿易商は頷いた。 「宗次は、役所の窓口に何度も通って『国や地域が公式に応援してくれる、絶対に失敗しない素晴らしい大義名分』というプラチナチケットを自分の手で作り出している。そして地元の社長たちにこう持ちかけているはずだ。 『役所もお墨付きをくれた、社会を変える素晴らしい事業の第一歩だ。ただ、制度上、どうしても最初の二千万の持ち出しが出る。俺は一円も出さない。だが、もし御社がこの最初の二千万を『協賛金』として身に受けてくれるなら、この歴史的な事業の最初の共同オーナーとして、御社の名前は国や街に永遠に刻まれる。どうだ、この神輿の最初の担ぎ手にならないか?』とな」
企業側からすれば、宗次が役所から引っ張ってきた「社会的信用」を、わずか二千万の応援資金で手に入れられる大チャンスだ。喜んで身銭を切る人間は、必ずいる。
宗次は、事業を売る気など毛頭ない。主導権は自分が握ったまま、ただ「志」だけで人を動かし、全額出ない補助金の差額すらも、他人の善意と野心で埋め尽くそうとしていたのだ。
第三章:審判の年
事務所に戻ったレンは、静かにデスクに向かっている宗次の前に立った。 手元には、もうあのキャッシュフローのシートはなかった。
「宗次さん。あなたのやりたいことが、ようやく分かりました」 レンは言った。その声からは、先日の棘は消えていた。しかし、眼差しはこれまで以上に鋭かった。
「あなたは、お金の代わりに『信用』と『人』を動かして、この国のガチガチの制度をハッキングしようとしている。ビジネスの教科書しか読んでいない私に、それが分からなかったのは当然です。確かに、規格外の経験だ」
宗次はペンを止め、ゆっくりと顔を上げた。
「だが」と、レンは一歩踏み込んだ。 「それが通用するのは、今年が最後です。あなたの年齢的にも、社会のスピード的にも、今年中にその『パトロンの座組み』を現実のカタチにできなければ、すべてはただの老人の絵空事として灰になる。現代のコンプライアンスの壁は、あなたがかつて戦ったジャングルよりも硬くて冷たい」
レンは、自分の荷物をまとめ、コートを羽織った。
「私は、あなたの信者にはならないと言いました。だから、奇跡を起こさないあなたは見たくない。もし、今年あなたが最初の二千万を『手ぶら』で集められず、役所のルールに押し潰されて言い訳を始めたその瞬間、私はあなたから完全に離れます」
宗次は、驚いたように目を見張った。それから、ここ数年で最も深い、心からの笑みを浮かべた。
「いい眼になったな、レン。それでこそ、俺の横にいる資格がある」
老人は、人生最後の打席に向けて、ゆっくりと立ち上がった。その手には、やはり何も握られていなかった。しかし、その背中には、目に見えない無数の「人々の信用」が、巨大な翼のように広がっているのを、レンは確かに見た気がした。
「見ていろ。世界を手ぶらで回してきた男の、最後の舞台だ」
嵐のような一年の幕が、いま、静かに上がろうとしていた。
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