「論理」について
今、目まぐるしく「世界」は動いてますね。
いろんな意見、いろんな記事を読んでいて、気になることがあります。
noteには、とてもしっかりした意見や記事が見られ(比較的)、頼もしいのですが、ネット上には、「あれ?!」と思うことが多々あります。
クサンチッペから政治とスポーツの発言は禁止されているのですが、ここでは、あくまでも「論理」をテーマに書いてみます。
「論理」を問題にする際、現実世界の中での「論理」を問う場合(純粋な論理(学)ではなく)、今のインターネット世界では、「フェイク」「情報操作」つまり「誤謬」「『多重・多層』論理」「メタ論理」を問題にせざるを得ません。
インターネット上には、明らかに意図的な情報操作(つまり多層構造の論理)が蔓延しているかと思います。実際、どの国も(具体的には挙げませんが)、国家的規模で、やっていることでしょう(強い断言と理解ください)。
某国が何の理由も何の因果関係もなく、突然他国を侵略するということはあり得ないじゃないですか。
その前の過程も見て初めて、その行為を、その是非を評価できるのでしょう。こんな基本的なことも踏まえずに、前提を無視して、「○○が悪い」「○○は、△△のポチだ」「○○が悪いのは当然のこと」と全否定することは、非論理的なことだと思うのですが、この非論理が蔓延してます。決して、○○や△△の肩を持っているわけではありません。あくまでも、「論理」を言っているのです。
○○の発言、演説、言い分をしっかり聞いた上での、全貌を見渡した上での「○○が・・だから悪い」という『評価』なら議論にもなり得ますし、意味のある発言かと思いますが。前提を無視して、勧善懲悪に突っ走るのは、あまりにも単純過ぎると思います。○○が実際、そんなに単純なら、とっくに淘汰されてますよ。世界情勢は、アニメの世界とは違います。
私が結構信頼している人(「先生」と呼ばれている)からも同様の「○○が悪い」発言があり、よっぽど反論したくなったことがありました。
論理ということが、あまりにも当たり前のことだから、言語は論理に膠着しているから、だから、言語を自由に駆使する人類は、却って「論理」を意識しないようになったのでしょうか。意識しないを通り越して、拘り過ぎる言動を、寧ろ蔑ろにするようになったのかもしれません。「ダサい」とかBKYとか「かたい」とか「文章が洗練されてない」とか・・。周りの「空気」と、論理とは全く関係ないじゃないですか。
でも、大事なことであればある程、『論理』を大事にしないといけないのではないでしょうか。だって、実際、それ(「フェイク」、「情報操作」)によって、非論理、論理の単純化・二極化によって、ひとが、多数のひとが一瞬で死ぬ事態が起きている世界なのですから。
・・・人類史的には、もう既にシンギュラリティは起きてしまっているのかもしれないと思います。だって、AIの方がよっぽど「論理的」なのですから。よっぽどロジカルに、かつ、包括的に推論しているのですから。シンギュラリティは、ある日突然起きるのではなく、じわーっとやってきて、気がついた時には、もう手遅れ・・戦争のように・・・そんなものではないでしょうか。
少なくとも、「この発言、報道、プロパガンダは、フェイクかもしれない」と思う習慣は付けた方がいいのかもしれません。
私は、よく「この行動、発言、報道、プロパガンダによって誰がいちばん得するか」と考えるようにしてます。そうすると、何か(別の論理)が炙り出されてくることがあるように思います。
まず、疑う・・・自分自身の人間性が悪くなってしまうのを危惧しますが、国家的フェイク、国家的情報操作が大々的に蔓延しているネット時代を生き延びるには仕方ないことかと思います。これを、ネットリテラシーとでもいうのでしょうか。
17.Jun.2025 in Ho Chi Minh City
写真は、生まれて初めてのドリアン(常連のカフェでサービスしていただきました♪)

