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「現象世界」「経験世界」とは何だろう─世界はそのまま現れているのか

最近、「現象世界」「経験世界」という言葉について考えていました。

どちらも何気なく使われる言葉ですが、考えてみると少し不思議です。

なぜ、ただ「世界」と言わずに、わざわざ「現象」や「経験」という言葉を付けるのでしょうか。

そこにはすでに、世界そのものと、私たちに現れている世界との間に、何らかの境界が含まれているように思えます。

世界は無条件に現れているのか

たとえば、目の前に石があります。

私たちはごく自然に「そこに石がある」と思います。

しかし、本当に世界は最初から「石」という形で現れているのでしょうか。

人間の感覚器官には範囲があります。見える光も、聞こえる音も限られています。その限られた情報から輪郭を取り出し、ひとまとまりの対象として認識し、それを「石」と呼んでいます。

海も同じです。

海に潜れば、人間にとって水は身体全体を包み込み、動きを妨げ、簡単には逃れられないほど満ちたものとして経験されます。

ところが、記述するスケールを分子、原子、その先へと変えていけば、日常感覚で経験している「隙間なく水で満たされた世界」とは、かなり違った姿が現れます。

どちらが嘘ということではありません。

同じ世界であっても、人間という身体、人間の感覚、人間が扱える尺度を通すことで、私たちに経験可能な形として現れている。

だとすれば、自然に存在しているように思える石や砂や海でさえ、まったく無条件にその姿で現れているわけではないのかもしれません。

見えないものは存在しないのか

ここで「現象世界」と「経験世界」は、とても近いところにあるように感じます。

人間が経験できないものは、少なくとも人間にとって、そのままでは現象化しません。

しかし、それは存在しないという意味ではありません。

そこに何らかの構造があっても、現在の私たちにはまだ区別できず、カオスのようにしか見えていない可能性もあります。

そして人間は、言葉や概念、数学、顕微鏡、望遠鏡、さまざまなセンサーなどを手にすることで、それまで見えなかったものを次々と認識できるようになってきました。

これは面白いことです。

言葉も、すでに見えているものに名前を貼り付けるだけではないのかもしれません。

新しい概念を知った途端、それまで雑然としていた出来事の中から、

「あ、これもそうだ」

と突然、同じ構造が見えてくることがあります。

それまで存在しなかったわけではない。

しかし、私たちにとっては、まだ「見えるもの」になっていなかった。

そう考えると、人類の知識の発展とは、潜在していたものを次々と人間にとって現象可能なものへ変えてきた歴史とも考えられます。

過去も同じなのだろうか

私は以前から、「過去は本当にすべて確定しているのだろうか」と考えることがありました。

何億年前にも世界は続いていたのかもしれません。

しかし、私たちはその時代を直接経験することはできません。

現在に残された化石、地層、物質の状態、遠方から届いた光などを通して、現在から過去を認識します。

もちろん、「観測するまで過去は存在しなかった」と科学的事実として主張したいわけではありません。

私が気になっているのは、もう少し違うことです。

過去そのものと、現在において現象化された過去は、本当に同じなのだろうか。

私たちは今ここを起点として痕跡を発見し、そこから「過去にはこうだった」と意味づけます。

その瞬間、それまで私には見えていなかった過去が、現在の経験世界の中に姿を現します。

もしかすると、過去には私たちが考えている以上に未確定な部分があり、観測や認識が届いたところから、現在と整合する「過去」として形を得ているのではないか。

そんな可能性について考えることがあります。

少なくとも、私たちが経験できる過去は、常に「現在から現れた過去」です。

パラレルワールドも「存在」と「現象」は別ではないか

同じことは、パラレルワールドについて考えるときにも感じます。

ここで誤解のないように付け加えておくと、私はパラレルワールドの可能性そのものを否定したいわけではありません。

確率や数理的可能性として複数の世界があるのなら、それらが何らかの形で存在している可能性もあると思っています。

ただ、今回考えているのは、その先です。

「存在する可能性があること」と、「私にとって現象として現れること」は、同じなのだろうか。

私は、この二つは分けて考えてもよいのではないかと思っています。

無数の可能性が潜在していたとしても、そのすべてが私にとって現象化する必要はありません。

なぜなら「現象する」という言葉には、すでに「何かが、誰かにとって現れる」という関係が含まれているように感じるからです。

世界だけがあって現象が成立するのではなく、そこには経験する私もいる。

そして私が経験しているのは、無数の可能性を上空から同時に眺めるような世界ではありません。

私はいつも、今、ここにいる存在として世界を経験しています。

数式の上では複数の可能性を等しく記述できたとしても、その中の一人称が何を経験しているのかは、その一人称にしか分かりません。

だから私が気になっているのは、「パラレルワールドはあるか、ないか」という二択ではありません。

たとえ無数の可能性が存在していたとしても、なぜ私はこの一回を、この私として経験しているのか。

こちらの方です。

一回しかないから、真剣になれるのかもしれない

人間の経験には不可逆性があります。

一度経験してしまったことを、「まだ経験していない状態」に戻すことはできません。

同じ場所へ戻ることはできても、最初にそこへ行った自分には戻れません。

同じ映画をもう一度見ることはできても、「結末を知らなかった私」として完全に同じ体験を繰り返すことはできません。

経験は、そのたびに私の側へ取り込まれてしまいます。

そして、この不可逆性は、人間の経験の唯一性とも関係しているように思います。

もし、あらゆる可能性が同じ重さで私の経験になり、何度でも完全にやり直せるのであれば、「この一回」の意味はかなり違ったものになるでしょう。

失敗したら別の私が成功する。

選ばなかった道も別の私が経験する。

そう考えること自体は可能です。

しかし、少なくとも今ここにいる私は、選ばなかった人生を同時には経験していません。

だからこそ迷い、選び、後悔し、喜び、真剣になる。

パラレルな可能性が存在することと、唯一の一人称として一回の経験が成立することは、必ずしも矛盾しないのではないでしょうか。

「現象世界」とは誰にとっての世界なのか

こうして考えてみると、「現象世界」「経験世界」という言葉には、最初から小さな問いが埋め込まれているように思えます。

誰にとっての現象なのか。
誰が経験している世界なのか。

世界そのものが先に完成していて、人間がそれをそのまま眺めているとは限りません。

人間という身体、人間の感覚、人間の認識、そして人間が獲得してきた言葉や概念。

そうしたさまざまな条件を通して、世界の一部が「私たちに経験できるもの」として形を取っている。

そして私は、その中でもさらに限定された場所にいます。

私は世界のすべての視点を持っているわけではありません。

私は、今ここにいる存在です。

だから「現象する」とは、単に世界のどこかで何かが起きることとは少し違うように感じます。

世界と、それを経験する存在との関係が成立したところに、現象世界が立ち上がる。

だとすれば、現象世界とは単なる「存在している世界」の別名ではありません。

世界が、経験する存在にとって経験可能な形を得たところ。

私は今回、「現象世界」「経験世界」という何気ない二つの言葉を考えていて、そんな境界があるように感じました。

その境界の向こうには、まだ私たちには現象化していないものが潜在しているのかもしれません。

そして科学や技術、数学や言葉によって境界が変化すれば、昨日まで見えなかったものが、明日には当たり前の「世界」として見えるようになるかもしれない。

だから「世界は何でできているのか」と問うだけではなく、

「世界は、なぜ私たちにこのような形で現れているのか」

そしてもう一つ、

「なぜ私は、その世界を今ここから経験しているのか」

と問うことも、同じくらい重要なのではないかと思っています。

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