コンセプトがない、という言葉。
昔、絵を描くのが好きな恋人がいた。
上手ではなかった。
でも本人は、下手だと思っていなかった。
それ自体は、よくあることだと思う。
誰だって最初は、自分の表現を信じている。
私はその頃、描くことを少し学んでいて、
「なぜこれを描くのか」
「誰に向けて描くのか」
そんな問いを持つようになっていた。
ある日、何気なく聞いた。
「この絵のコンセプトは何?」
彼は少し考えてから、こう言った。
「コンセプトがないのが、コンセプト」
深いことを言っているようで、
実際には何も言っていない。
その独特の手触りだけが残った。
当時の私は、うまく言葉にできなかった。
ただ、どこか引っかかった。
たぶん、本当は分かっていたのだと思う。
描いてみたかっただけ。
好きだから描いた。
見てほしかった。
それでよかったはずなのに、
彼は「考えていないこと」を
「考え抜いた結果」に見せたかった。
それは自由ではなく、
誠実さの欠けた言い換えだった。
作品を誰かに手渡すつもりがあるなら、
最低限、
「なぜこれを差し出すのか」
という意識は、どこかに残る。
でもそこには、
受け取る側の姿がなかった。
「分かる人には分かる」という言葉がある。
けれど実際には、
分かっている人は、
自分の知識や経験で空白を埋めているだけのことが多い。
それは解釈であって、伝達ではない。
意図は、頭の中にあるだけでは存在しない。
表現に変換されて、
初めて意図になる。
伝えようとしない意図は、
受け取る側から見れば、
ないのと同じだ。
あの頃の私は、
その違和感を説明できなかった。
でも、感覚としては残っていた。
分からないものが嫌だったわけじゃない。
説明されない表現が苦手だったわけでもない。
ただ、
渡す気のないものを、
深いふりで差し出されることが、
どうしても苦手だった。
今なら分かる。
あの一言は、
考えなかったことを、
かっこよく言うための言葉だったのだと。
そう気づけたこと自体が、
私が長い時間をかけて、
「何を受け取りたい人間か」を
はっきりさせてきた証なのだと思う。
