交差点のシナリオ 第四章:泥だらけの革靴
交差点の四隅、最後のピースとして立ち尽くしていたのは、一人の冴えない中年男性だった。
高級仕立てのダークグレーのスーツは体に完璧にフィットしているというのに、足元だけが信じられないほど泥にまみれていた。革靴のつま先からサイドにかけて乾いた泥がこびりつき、ピカピカに磨き上げられたはずの高級革の光沢を完全に殺している。
佐伯の脳内プロセッサーが、最後のエンジン音を唸らせて動き出す。
――名前は宗一(そういち)、四十九歳。中堅メーカーの営業部長。
彼は今、人生最大の岐路に立っていた。今日、会社では会社の命運を分ける大口の契約締結を控えている。絶対に失敗が許されない重圧の中、彼は今朝、どうしても足がすくんで家を出ることができなくなった。逃げ出したい衝動に駆られた宗一は、最寄り駅へ向かう途中、ふらりと川沿いの泥だらけの土手をあてもなく歩き回ってしまったのだ。
(俺は何をやっているんだ……。こんな泥だらけの靴で、大事な会議に出られるわけがない)
スーツの上着のポケットの中で、宗一の手は冷や汗に濡れていた。会社に戻らなければならない。しかし、このままではいけない。靴の汚れを綺麗に落とし、固まったネクタイを緩め、誰にも見つからない場所で一度だけ深く呼吸をしたい。そんな逃避と焦燥の入り混じった澱(おり)が、彼の足取りを重く引きずらせていた。
ハルが抱える50年前の記憶。
蓮の耳を塞ぐ深夜ラジオのノイズ。
美咲が差し出す路地裏カフェのチラシ。
そして、宗一の汚れた革靴。
佐伯が頭の中で組み立ててきた4人の登場人物が、ついに同じスクランブル交差点を中心にして、完璧な円を描き始めた。
それぞれが抱える孤独と、誰にも言えない小さな傷口が、互いを引き寄せ合う磁力を帯びている。
信号機が青に変わる。
世界が一斉に動き出す、そのコンマ数秒前。
佐伯は、自分の胸の鼓動が高鳴るのを感じていた。これはただの暇つぶしの人間観察ではない。自分が作り上げたこの小さな群像劇が、これから現実の空間でどう交差し、どう結実するのか。
カウントダウンの数字が消え、青のシグナルが点灯した。
劇場の中央幕が、音を立てて引き上げられる。
――次章、いよいよ4人がすれ違う。だが、そこで語られるのは「まだ起きていないはずの」記憶だった。
