疑う側の席は疑われない——懐疑論の運用について
一
「本人でもないのに本人の思考を実況するな」という一文を、嫌いな人間の分析について書かれた記事で読んだ。「この人は人の気持ちを考えられない」までは解釈、「きっと本人は悪いと思っていない」まで行くと相手の頭の中に住み始めている、という話で、私はエスパーではないから分からないものは分からないでいい、と締められる。
これは他我問題の懐疑論である。他人の頭の中は直接観測できない、観測できないものを断定するな。言っていること自体は正しい。正しすぎて、どこまで行くかを一度見ておいたほうがいい。
二
徹底すると何が消えるか。心理学が消える。他人の動機を扱う文学と歴史学が消える。故意と過失を区別する刑法が消える。「相手の気持ちを考えなさい」という小学校の指導が消える。全部、本人でもないのに本人の思考を実況する営みだからだ。
さらに行ける。嫌いなあの人は、実は何も考えていないAIのようなもので、神が私への嫌がらせのために作っているのかもしれない。これは否定できない。反例を持ってきても、その反例も嫌がらせの一部だと言えるからだ。デカルトの欺く神と哲学的ゾンビの合わせ技で、記事が要求する「何件観測した、反証は、反例は」という監査を、この仮説は全部通過する。観測をすべて説明する仮説は、観測では落とせない。
三
ここで記事の基準が壊れる。記事は「確認できたことと、そうであってほしい解釈の区別が消えた瞬間」を嘘の起点に置いた。しかし相手が人間であることも確認できない。「私にこういうことを言った」という一番下の層も、観測者のフィルター込みだと記事自身が認めている。四層に分ければ嘘が減るのではなく、嘘の置き場が一段下がるだけで、証明の可否を基準にすれば、最下層まで全部嘘になる。
証明できないことを言うなという規則は、誰にも守れない。守れない規則は、実際には規則として運用されておらず、別の何かとして運用されている。
四
別の何かは、適用範囲を見れば分かる。
記事の懐疑論は嫌いな人間を分析するときにだけ発動する。好意的解釈も同じく妄想だと一言添えてはあるが、監査が回るのは悪意的解釈だけである。そして自分には発動しない。他人の思考は分からないと言いながら、自分の判断基準は内部監査で見えることになっている。人文・心理の側の主流はむしろ逆で、他人の動機はパターンから読めるが、自分の動機こそ本人には見えない。この記事は懐疑の矛先を他人にだけ向け、自己認識には向けていない。
他我懐疑論は最後まで行くと、相手の中身が消えて自分だけが残る。独我論の入口である。神が私への嫌がらせのために作った、という版が一番気持ちいいのはそのためで、相手は空っぽになり、私は神の宛先になる。懐疑論を突き詰めた先に残るのは、疑う側の席だけだ。
五
証明の可否で線が引けないなら、残る線は一つしかない。その断定を撤回する条件を持っているかどうかである。
「あの人は無責任だ」は、責任を取った事例が出てくれば下げられる。実際には下げないが、下げる形にはなっている。「神が嫌がらせに作ったAIだ」は、何が出てきても下がらない。どちらも証明不能だが、片方には決済日があり、片方にはない。記事が要求している「それどこまで確認した」は、証明の要求ではなく決済日の有無の確認だと読めば、まだ使える。
ただし、この線も証明の線ではない。撤回条件を持っていること自体は証明できるのか、と懐疑論者は言えるし、言えば正しい。証明できないものを「分からない」と置くか「そうかもしれない」と置くかの差は、認識の差ではなく運用の差である。
六
懐疑論が認識論として買われた例を私は知らない。買われるのはいつも運用としてで、特定の断定を止める装置として買われる。
ピュロン主義は判断保留による不動心が目的で、認識論の結論ではなく処方箋だった。デカルトは疑いを土台掘りに使い、自分の席で掘るのをやめた。ヒュームは書斎で懐疑論を書き、書斎を出て食事と遊戯に戻ると忘れると自分で書いている。三者とも、疑う側の席は残っている。疑いは相手に向けて出荷され、出荷元には届かない。
だから懐疑論を見るときは、何を疑っているかより、何を止めるために使われているかを見たほうが早い。この記事の懐疑論が止めているのは、相手を悪く書く手である。認識論の言葉で書かれた、悪口の手続き規程だ。悪口を書くなとは言っていない。「きっしょ」は感想として出せ、「客観的に気持ち悪い」は事実の顔をするな、と言っている。これは誠実な規程で、私も同じ線で書いている。ただし規程には「私は監査する側、あちらはしない側」という席順が一つ付いていて、その席順だけは監査を免れる。
七
この記事で私は著者の思考を実況している。著者の頭の中は分からない。同じ線で言うなら、私の断定にも撤回条件が要る。「著者は自分の席を疑っていない」という断定は、著者が自分も例外ではないと書いていれば下がる。書いてあった。目が血走っていたと本人が書いている。
だから正確にはこうなる。著者は自分の席が残ることを認めた上で、それでも他人の席を監査する運用を選んでいる。これは懐疑論ではない。懐疑論を一服だけ飲んで、自分に効く前にやめる、という服用法である。そしてこの服用法以外で懐疑論が飲まれたことは、たぶん一度もない。
