見出し画像

ジルバーマン・オルガンで出会うバッハとアルビノーニ ワイマール・バロックが甦らせる「小さなヴェネツィア」

今晩は、2026年7月10日にRondeau Productionからリリースされた、ワイマール・バロック、ハンス・クリスティアン・マルティンのオルガン、河合隼佑さんのバロック・オーボエによる《La Piccola Serenissima―Musik für den Grafen Watzdorf(小さなセレニッシマ―ヴァッツドルフ伯爵のための音楽)》を聴きます。

収録曲は以下の通り。

ヨハン・セバスティアン・バッハ(1685–1750)
《トッカータとフーガ ニ短調》BWV538より
トッカータ

トマーゾ・アルビノーニ(1671–1751)
2つのヴァイオリンと通奏低音のためのソナタ第3番 ハ長調 作品8-5
Ⅰ. Grave. Adagio
Ⅱ. Allegro
Ⅲ. Larghetto
Ⅳ. Allegro

オーボエ、弦楽と通奏低音のための5声の協奏曲 変ロ長調 作品9-11
Ⅰ. Allegro
Ⅱ. Adagio
Ⅲ. Allegro

2つのヴァイオリンと通奏低音のための組曲第6番 ト短調 作品8-12
Ⅰ. Allemanda
Ⅱ. Corrente
Ⅲ. Gavotta

オーボエ、弦楽と通奏低音のための5声の協奏曲 ニ短調 作品9-2
Ⅰ. Allegro e non presto
Ⅱ. Adagio
Ⅲ. Allegro

2つのヴァイオリンと通奏低音のためのソナタ第6番 ハ長調 作品8-11
Ⅰ. Grave. Adagio
Ⅱ. Allegro
Ⅲ. Larghetto
Ⅳ. Allegro

ヨハン・セバスティアン・バッハ
《トッカータとフーガ ニ短調》BWV538より
フーガ

グスタフ・メルケル(1827–1885)
詩篇モテット《主は憐れみ深く、恵みに富み》作品106-1

演奏
河合隼佑(バロック・オーボエ)
レオポルト・ニコラウス(バロック・ヴァイオリン)
大下詩央(バロック・ヴァイオリン)
レーナ・ラーデマン(バロック・ヴィオラ)
アンナ・ライゼナー(バロック・チェロ)
クロスタウ児童聖歌隊および教会合唱団
ハンス・クリスティアン・マルティン(オルガン、芸術監督)
ワイマール・バロック
録音:2025年9月20~24日
クロスタウ教会

一見すると、バッハの壮大なオルガン曲とアルビノーニの明るく透明な室内楽を組み合わせた、少し変わったアルバムに思えますが、このアルバムのテーマは、この二人を結びつける人物、ザクセンの宮廷人であり、熱心な音楽愛好家でもあったクリスティアン・ハインリヒ・フォン・ヴァッツドルフ伯爵(1698–1747)です。

ヴァッツドルフ伯爵は、現在のドイツ東部、ドレスデンから東へ50キロほど離れた小さな村クロスタウに生まれ、若い頃に当時の貴族の習慣であったイタリア旅行に行き、その旅の途中、ヴェネツィアでアルビノーニと知り合ったと考えられています。アルビノーニが1722年に出版した、2つのヴァイオリンと通奏低音のための《6つのソナタと6つの組曲》作品8は、このヴァッツドルフ伯爵に献呈されました。

そして1732年、伯爵は故郷クロスタウの教会に、当時最高のオルガン製作者の一人であったゴットフリート・ジルバーマンに新しいオルガンを造らせます。2段の手鍵盤とペダル、20のストップを備えた楽器で、同年11月に献堂されています。何度かの修復を経ながらも、現在まで歴史的な姿をよく残している貴重なオルガンです。

アルバムのタイトル《La Piccola Serenissima》の意味も、ここから見えてきます。「セレニッシマ」とは、かつてのヴェネツィア共和国の呼び名です。ヴァッツドルフ伯爵はヴェネツィアでアルビノーニと出会ったと考えられ、その音楽を収めた楽譜コレクションやさまざまな楽器を所有し、さらに故郷クロスタウの教会にジルバーマン・オルガンを備えました。このアルバムでは、そうして中部ドイツの小さな村に生まれた音楽の世界を、ヴェネツィアを映す「小さなセレニッシマ」として描いているのでしょう。

しかし、その華やかな時代は長く続きませんでした。オルガンが完成した翌1733年、ヴァッツドルフ伯爵は、新たに即位した選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世のもとで失脚し、国家囚人としてケーニヒシュタイン要塞へ送られます。1735年には裁判を経ないまま終身刑を言い渡され、その後も自由を取り戻すことなく、1747年、14年間に及ぶ幽閉の末に要塞内で生涯を終えました。伯爵を中心にクロスタウに生まれた芸術の世界は、ほんの短いあいだのものでしたが、彼が残したジルバーマン・オルガンは、約300年後の現在も響き続けています。

このアルバムが面白いのは、そのオルガンをバッハの独奏曲だけでなく、アルビノーニの室内楽の通奏低音にも用いていることでしょう。現在の古楽演奏では、持ち運びのできる小型のポジティフ・オルガンが使われることが多いのですが、ここでは教会に据えられた1732年製の大きなオルガンが、ヴァイオリンやオーボエ、弦楽器とともに鳴っています。まさにヴァッツドルフ伯爵が耳にしたかもしれない響きの世界を、同じ場所、同じ楽器によって甦らせようとしているのです。

演奏しているワイマール・バロックは、2014年にハンス・クリスティアン・マルティンとレオポルト・ニコラウスが設立し、2019年に現在の名称で再出発した古楽アンサンブル。ワイマール・フランツ・リスト音楽大学の卒業生を中心に、バッハをはじめとする17~18世紀の音楽を主なレパートリーとしています。マルティンは指揮者・オルガニストで、クロスタウのジルバーマン・オルガン奏者を務め、ドレスデン教会音楽大学でも教えています。

このオルガンは基準ピッチ466Hzという、現代よりかなり高い音高に調整されています。明るく輝くような音色には独特の張りがあり、そこへバロック・オーボエや弦楽器の音が重なると、教会そのものが一つの大きな共鳴体になったように感じられます。

さらに耳を澄ませると、バッハのトッカータの冒頭とフーガの終わりに、小さな鈴の音が聞こえます。これは「カルカンテングロッケ」と呼ばれる、オルガンのふいごを操作する人を呼ぶための鈴です。

現代のパイプオルガンは電気モーターで空気を楽器に送り込んでいますが、バッハ時代には大きな空気入れ、「ふいご」を一生懸命押して、空気をオルガンに送り込んでいたのですね。

今回の録音では機械による送風だけではなく、人の手でふいごを動かしています。ブックレットのふいご係のクレジットには、オーボエの河合さんの名前もあります。演奏者たちが交替でふいごを動かし、みんなで協力して録音したのでしょう。どこか微笑ましく感じられます。

そして演奏者から送風係へ合図を送る、その鈴の音まで収録されています。音楽だけではなく、歴史的なオルガンが実際に動き始める瞬間そのものを聴かせてくれるようです。

アルバムの両端近くに置かれたバッハの《トッカータとフーガ》BWV538は、調号を用いずに記譜されていることから、通称「ドリア」と呼ばれる作品です。ここではトッカータとフーガを分け、そのあいだにアルビノーニの室内楽と協奏曲を挟むという構成がとられています。

絶え間なく流れる16分音符と手鍵盤の交替によって進むトッカータは、巨大なオルガン曲でありながら、どこかイタリアの合奏協奏曲を思わせます。トゥッティのような部分と独奏的な部分が交互に現れるため、そのあとに続くアルビノーニの音楽へ自然につながっていくのです。

一方、アルビノーニの音楽は、バッハの音楽が石を一つずつ積み上げて巨大な建築物を造るような音楽だとすれば、シンプルで明るい光のなかで描かれる絵画のよう。声部は互いに出会い、語り合い、戯れ、やがて離れていきます。目も眩むような技巧を誇示するのではなく、楽器同士の親密な対話を楽しむ音楽です。

作品8から選ばれた2曲のソナタと組曲は、まさにヴァッツドルフ伯爵に捧げられた作品。2本のヴァイオリンがよく似た旋律を追いかけ、通奏低音がその対話を穏やかに支えます。舞曲による組曲第6番では、《アルマンド》《クーラント》《ガヴォット》が軽やかに続き、伯爵の館で演奏された室内楽を思わせます。

その間に置かれた作品9の2曲のオーボエ協奏曲では、日本出身の河合隼佑さんが独奏を務めています。河合さんは京都市立芸術大学を卒業後フランスへ渡り、ヴェルサイユ地方音楽院とパリ国立高等音楽院でバロック・オーボエを学んだ方。柔らかく少し陰りのあるバロック・オーボエの音色が、アルビノーニの長く歌う旋律によく似合います。

第1ヴァイオリンのレオポルト・ニコラウスと第2ヴァイオリンの大下詩央さんの掛け合いも、このアルバムの大きな魅力です。大下さんは日本で生まれ、カールスルーエでモダン・ヴァイオリンを学んだのち、フライブルク、ザルツブルク、バーゼルで歴史的演奏法を学びました。2017年にはビアージョ・マリーニ国際コンクールで第1位を受賞し、現在は台湾を拠点に演奏と教育活動を行っている方ですね。

厳格で論理的なバッハと、光に満ち、歌うようなアルビノーニ。中部ドイツの教会音楽と、ヴェネツィアの優雅な器楽音楽。その二つの世界が、ヴァッツドルフ伯爵と1732年製のジルバーマン・オルガンを介して出会います。

そしてバッハの巨大なフーガが終わると、再び小さな鈴が鳴り、ふいご係たちに演奏の終わりを告げます。その音まで収録されているのです。

最後には、クロスタウ児童聖歌隊と教会合唱団が、19世紀のオルガニスト、グスタフ・メルケルの詩篇モテット《主は憐れみ深く、恵みに富み》を歌います。メルケルはクロスタウから30キロほど離れたオーバーオーダーヴィッツの出身で、ブックレットでは、彼もおそらくこのジルバーマン・オルガンを弾いたことがあっただろうと推測しています。メルケルは対位法的でありながら、19世紀のロマン派合唱音楽の伝統を受け継いでいて、明晰なポリフォニーの構造と、ロマン派特有の表情豊かな和声の動きが、クロスタウ児童聖歌隊と教会合唱団の純粋な歌声で歌われています。

録音も非常に良く、癖のない音でパイプオルガンの超低域からヴァイオリンの美しい高音まで収められています。

バッハからアルビノーニへ、そして再びバッハへと戻ってきた音楽は、最後にクロスタウの現在の人々の歌声へ受け継がれます。かつてクロスタウを「小さなヴェネツィア」にしようとした一人の伯爵の夢と、その夢から生まれたオルガン、そして約300年にわたりこの土地で守られてきた音楽の伝統を、もう一度響かせたロマンあふれるアルバムでありました。

記事
は以下のブログから


いいなと思ったら応援しよう!