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【 4➞1 】 連続短編小説

【読む時間】
1話 約5〜7分。全7話。

【あらすじ】
7つ読み終えたとき、最初の物語 が変わります。
ひとつの出来事を、違う角度から見つめる連作短編です。

【 第1話  ラブレター 】


  画面いっぱいに文字が躍る。
『事件解決!』
 人差し指と親指でピストルを作り、探偵帽のつばをクイッと持ち上げた。
「決まった」
 ゲーム機の電源を切る。時計を見る。
   午前四時七分。
「さすがに寝よ」
 ベッドへ倒れ込もうとした、その時だった。
 カタン。
「ん?」
 バイクの音は聞こえない。なのに、ポストの音だけがした。窓へ駆け寄る。窓際では、飼い猫のミルクが外を見ていた。
 ポストの前には誰もいない。辺りを見回すと、人影が角を曲がっていくところだった。まだ空は群青色。男か女か、大人か子供かも分からない。
「消えた配達員……」
 新聞、郵便屋さんならバイクの音がする。どっちでもない。つまり、これは誰かがこっそり届けた。
 玄関のドアが開く音。母だった。
   ポストから白い封筒を取り出すと、一度だけ目を落とし、右、左、もう一度右。
   推理小説なら、この動きだけで犯人候補に昇格する。
「……怪しい」
 スマホを取り出し、メモを開いた。
『事件ファイル021』
   タイトルはあとで付ける。
   母は封筒を胸に抱え、いそいそと家へ戻っていった。
 一時間ほど仮眠を取ろうとしたが、興奮して眠れない。
   新しいページを作る。
『事件ファイル021 午前四時七分のラブレター(仮)』
   目撃者、ミルク、私。完璧だ。

「凛、おはよー」
 母は、いつもと変わらない朝を演じているつもりなんだろう。でも私には分かる。あれは、何かを隠している人間の声だ。
「お母さん、おはよー」
 父はパンにバターを塗っているが、塗るのが下手くそすぎて、パンは原型を留めていない。探偵小説なら、おとぼけキャラの一番怪しくない人。と見せかけての犯人。でも父は違う。最後まで読んでも、ただの天然だ。
「今日、お弁当いらない」
「あ、そうなの? 良かった」
 母はそう言うと、寝室へ着替えに戻っていった。
「チャンス」
 母は何かを隠す時、決まって床下収納を使う。レトルトカレーのストック、その奥。本人は秘密だと思っているけど、事件ファイル003にも011にも、ちゃんと記録されている。
 ワンステップスキップをしてから、忍者走りで床下収納へ向かった。父を一瞥する。バラバラ事件のパンをぼーっと眺めながら、コーヒーを飲んでいる。
「ふん」
 床下収納をそっと開ける。レトルトカレーを二箱どける。白い封筒が、思った通りそこに。
「あった」
 スマホを構える。床下収納の中。元の位置。四枚ほど撮ってから、封筒を持ち上げた。
『白猫ちゃんへ♡』
「……キモい」
 裏返す。差出人はない。ますます怪しい。
 カシャ、カシャ。
 元の位置に戻し、レトルトカレーとの位置関係、角度も合わせる。最後に一枚。
 カシャ。
「完璧」
「凛」
 ビクッ。心臓が一拍遅れて鳴る。ゆっくり振り返ると、父だった。マグカップを片手に、首を少し傾げ、上目遣いでこちらを見ている。
「何やってんだ?」
「おぉ、お父さん、ちょっと相談があるんだけど」
「お、おぉ。なんだ」
 父は少し姿勢を正した。嬉しそうだ。
「おこずかいか?」「彼氏か?」「ん?違うのか。しゃあ、学校で何かあった?」
 矢継ぎ早に聞いてくる。
  そうだ。父には、ワトソンくんになってもらおう。
「ゴホン」
 姿勢を正す。左手を背中へ回し、右手を顎に添えた。
「ワトソンくん」
「ワットソン?誰?」
「聞きたまえ」
 肩を組む。
「君は観察していないのだよ、ただ見ているだけだ」
「………?」
「さあ!ゲームの開始だ!」
 ビシッと指を突き出した瞬間、母が寝室から戻ってきた。
「今のは極秘任務だからな」
 耳打ちする。父は「は、はぁ」とだけ答えた。
 部屋に戻り、プリンターを動かす。ウィーンという音とともに、封筒の写真が一枚ずつ吐き出される。クリアファイルを開き、日付順に並べる。
「よし」
 リビングへ戻ると、母の姿はもうなく、私の顔を見て父が不思議そうな顔をした。
「学校は?」
「ん?」
 時計を見る。
「……あーーっ!ホームルーム、とっくに始まってるじゃん!なんでもっと早く言ってくれないのよ!」
「いや、今気付いたし」
「もーーっ!」
 慌てて鞄を掴む。
「俺ももう出勤するから、乗せてってやるよ」
「お願い!」
 車が走り出す。深呼吸を一つ。シートベルトを締め直すと、姿勢を正した。
「ワトソンくん」
「まだやるの?」
「気付いているかね?」
「何を?」
「加奈子の浮気事件だ」
 父は黙ったまま前を見る。
「そうだよね。ショックだよね。でも安心したまえ。私がついている。案ずることはない。証拠も上がっている」
「証拠って?」
「時刻は午前四時七分。物証は、ポストから加奈子へ渡った。中身は不明」
「不明かよ」
 眉間に皺を寄せ、口を尖らせる。
「だって、開けたら犯罪じゃん」
「今さら?」
「……そこはグレー」
 父は吹き出した。
「探偵なのに、そこは気にするんだ」
 車は学校へ着く。
「しょうもないことしてないで、ちゃんと勉強しろよ」
「ちょっと! しょうもないことって何よ!」
「早よ行け」
 帰宅すると、母はまだ帰っていなかった。いつもなら、とっくにパートから戻り、夕飯の支度をしている時間だ。
 口角が上がる。ニヤリ。左手を顎へ添える。
「……これは、ますます怪しい」
「ただいまー」
 父が帰ってきた。
「お母さん、遅くなるってLINE来たから、これ買ってきたぞ」
 だいすき屋の牛丼を食卓へ置く。
「遅くなる……」
 腕を組み、小さく頷く。
「これは、もはやグレーではない。限りなく黒だな」
「なんでそうなるんだよ」
「初歩的なことだよ、ワトソンくん」
「初歩的というより、ド定番で安直すぎるけどな」
「なっ」
 口を尖らせながら、割り箸を割る父の周りを歩く。
「いいかね、ワトソンくん。浮気というものは、いつもと違う行動から綻びが出るんだよ」
「そうなの?」
「探偵は知識の引き出しが命なの」
 父は牛丼を食べながら苦笑した。
「ほら、冷めるぞ」
「……むむむ」
 牛丼を前にすると、名探偵も少しだけ捜査を中断した。

 翌朝、午前五時。
 カタン。
 ポストの蓋が閉まる音だった。眠い目をこすり、窓の外を覗く。
「……お母さん?」
 母はポストから白い封筒を取り出し、鞄へしまった。そのまま玄関へ向かうかと思いきや、家には入らず歩き出す。
「ん?」
 足は止まらず、母は角を曲がり姿を消した。
「………お母さん」
 母は、本当に浮気をしているのだろうか。探偵気取りだったけれど、黒に近づくほど胸の奥がざわついた。
 朝の食卓では、相変わらずとぼけた顔の父が、トースターから焦げたパンを取り出していた。
「ちょっと焦げちゃったけど、食べる?」
 パンは半分以上、炭だった。
「お父さん、そんなことより、お母さん帰ってきてないじゃない。もう、グレーとか炭とか言ってる場合じゃないよ」
「上手いこと言うな」
「お父さん!」
「お腹が減ってるから、イライラするんだよ。食べな」
「そんな真っ黒な炭、食べられる訳ないじゃん!」
 バンッ。
  リビングの戸を思いきり閉め、二階へ駆け上がる。朝になっても帰ってこない。こんなこと、一度もなかった。
 頭の中で「浮気」という言葉が何度も浮かんでは消える。認めたくない。でも、否定できる証拠もない。息を吸うたび、胸の奥が締め付けられた。
「……こうなったら、徹底的に調べてやる」
 事件ファイルを机の上へ広げる。
「凛ー! 学校はー?」
 リビングから父の呑気な声が聞こえる。返事はしなかった。
  探偵ではなく、娘として知りたかった。
  母は、本当に浮気をしているのか。

 昼過ぎ。玄関の鍵が回る音がした。階段を降り、靴を脱ぐ母の背中へ声をかけた。
「おかえり」
 母はビクッと肩を震わせる。振り返ると、笑顔を作った。
「凛。学校は?行かなかったの?具合でも悪い?」
「具合は悪くない。でも、胸は痛いよ」
「……何かあった?」
「何かあったじゃないよ。すっとぼけないで」
 拳を強く握る。
「昨日から帰ってこないで、どこ行ってたの?」
「ごめんね。心配かけたね」
 母は視線を落とした。
「あのね……パートの人が……倒れちゃって……。だから、その……」
「嘘つかないで!今朝、一回帰ってきたでしょ!」
「子ども扱いしないで!」
 ぽたっ。涙が床へ落ちる。
「凛……。お父さんは、学校行かなかったこと知ってるの?」
「お父さんなんか知らない。何にも気付いてない!何があっても、へらへら笑って!あの人、何も見えてないじゃん!」
 母の表情が変わる。
「凛」
 静かな声だった。
「お母さんのことは、何を言ってもいい。でも、お父さんを悪く言うのだけは許さない」
 睨みつけた。
「なによ!自分が浮気してること棚に上げて!」
 母の肩を強く払い、玄関を飛び出した。
「凛……」

 行く当てもないまま走り続け、気付けば隣町まで来ていた。縁石へ倒れ込むように腰を下ろし項垂れる。アスファルトを押しのけるように伸びた草を見ても、顔を上げ、行き交う車をぼんやり眺めてみても、胸の奥のもやもやは膨らむ一方だった。
「……なによ」
 ふと顔を右へ向けた。遠くに見覚えのある帽子。母だ。辺りを何度も見回しながら歩いている。公園の入り口で足を止め見渡し、商店を覗き込み、また歩き出す。
「……私を探してる」
 胸が少しだけ痛む。立ち上がり、電柱の陰へ身を隠した。
 母は小さく息をつくと、住宅街の外れにある古い店へ。一度振り返り、軒先までせり出した古本の棚をすり抜けるように入っていった。
「古本屋『いんさっく』?」
 首を傾げながら、向かい側の塀へ身を寄せる。
 数分後、母と一人の男が出てきた。
  男は何かを話し、母は力なく頷く。その瞬間、母の体がぐらりと傾いた。
 半歩、前へ出る。
「おい!」
 男が咄嗟に体を支えた。
「しっかり」
 母は返事をしようと口を開くが、そのまま膝から崩れ落ちる。
「診療所に行くで」
 男は母を背負い、足早に路地へ入っていった。
  凛は塀を掴む手に、思わず力が入る。浮気相手と思われる男が、母を背負って走っている。唇を噛み締めた。
「……追わなきゃ」
 息を潜め、二人の後を追い始めた。
 診療所の窓際まで、足音を殺して近づく。少しだけ開いたカーテンの隙間から、中を覗いた。
 母はベッドへ横になり、腕には点滴が繋がれている。
「無茶しすぎ」
 男は呆れたようにため息をつく。
「……ごめん」
 母は弱々しく笑った。
「ねえ」
 母が、男の袖を掴む。
「あなたに話すべきじゃないのは、分かってる。でも……もし、私に何かあったら」
 男は黙って続きを待つ。
「娘と主人には……私が心から愛してるって、伝えてほしいの」
 男は困ったように笑う。
「そんなの、自分で言えよ」
 母も少しだけ笑った。
「……そうよね」
 窓の外で、唇を噛んだ。浮気なのかもしれない。その疑いは、まだ消えない。
  でも、一つだけ確かなことがあった。
 お母さんは、お父さんと私を、本当に愛してる。

 家へ帰ると、机の上の事件ファイルを開いた。『事件ファイル021 午前四時七分のラブレター(仮)』
  その下へ、新しく一行書き加える。
 調査報告
 ・家族への愛情 確認済み
 ・浮気疑惑 継続調査
 ・重病の可能性 追加調査
 ペンを置く。
「……今日は、ここまで」
 ファイルを閉じる音だけが、静かな部屋へ響いた。

 玄関のドアが開く。
「ただいまー」
「肉まん買ってきたぞー」



【 第2話   大冒険 】

    家も、道も、街も。
 世界のすべてが眠っているような、真夜中。
 ゆっくりと玄関の扉が開いた。
 外の空気は、ひんやりしていた。世界はまだ深い群青色。夜と朝が、静かに入れ替わろうとしている。
 一歩、外へ踏み出した時、背中から声がした。
「こんな時間に、どこ行くの?」
「おかあさん」
「一人で行ったらだめ、どこいくの?」
「ちょっと」
「ちょっとって?」
 少し考える。
「あっち、の方」
 指を差した先には、まだ眠ったままの町が広がっている。
「じゃあ、一緒に行こう。待ってて。着替えてくるから」
「おかあさんは、来なくていい」
「じゃあ、誰が迷子を探すの?」
「迷子なんかいない」
「昨日いたけど?誰だったっけ?」
 両手をひらっと広げ、首を傾げてみせた。    そのまま踵を返し、母は寝室へ戻る。
 その隙に家を出た。
 少し、わくわくする。
 足の向くまま歩いた。家々はまだ静まり返っている。
 全部を独り占めしているみたいだ。
 世界はブルーモーメントに包まれていた。

 いくつ角を曲がっただろう。足は止まらない。
 ふと、アイボリー色の外壁が目に入る。
  玄関には、ブサイクなシーサーが二匹。
一匹は喉ちんこが見えそうなくらい口を開け、もう一匹は鼻の下を伸ばし、口をへの字に結んでいる。
「ごくろう」二匹に敬礼をしてみせた。
  シーサーは返事をしない。
「よし」

  この家は、見たことがあるような気がした。
 窓辺に白い猫が座っている。
「あっ、あのネコ」そう口にした時だった。

「……見つけてしまったのね」
  耳元で、おどろおどろしい声がした。
「うわっ」
  振り返ると母だった。
「び、ビックリした。お化けかと思った」
「誰がお化けよ。化粧してないからって、お化け扱いしないで。そもそも、急に出かけるから、慌てて…。ま、いいわ」
手ぐしで髪を整えた。
「ところで、あの猫が気になるの?」
「うん」
「あの猫のこと、覚えてないの?」
「……覚えてない」
「数年前、お父さんが助けた猫よ」
「……」
「気になるのね」
「うん。好きだ。キレイ」
「また、会いに来ようね」

  数日後。今度は一人で抜け出すことに成功した。
 いくつか角を曲がる。
  電柱の影に白いものが見えた。
「なんだろう」ゆっくり近づく。
  白いものもゆっくりと、こちらへ近づいてきた。
「白ネコ。見つけた。」
「にゃー」さらに近づいてきて、触れられる距離でストンと座った。
「そっかー。迎えに来てくれたのか。なんかでも、お前…」
手で触れようとしたその時、急に振り返りスタンスタンと走って行った。
「あ、待ってー!」
  猫は、角を曲がる。
 一歩、二歩。追いかける。
猫の曲がった曲がり角まできた時だった。
  グラっ。ーーあっ。
  足がもつれ、前のめりに倒れる。
 掌が熱い。
 膝も痛い。
 起き上がろうとしても、思うように力が入らなかった。
  息を整える。ゆっくり顔を上げ、辺りを見回した。
「あれ?」
 見慣れない景色だった。右を見ても、左を見ても、同じような白い家が並んでいる。
「……どこだここ」
 痛みと、知らない世界。
  「あ…、あ…」
  首だけが、忙しく動く。
  闇が闇を呼んでいるみたいだった。

「いた……」
 聞き覚えのある声だった。
 駆け寄ってきた母は、その場へしゃがみ込む。息が上がっている。
「も、もう、……見つからないかと思った」
「……?」
 母は笑った。
「なんでもない、帰ろっか」
  白猫の姿は、もうどこにも見当たらなかった。

   午前4時前。まだ夜の色が残る空。
 足を引きずりながら、また玄関へ向かった。
「まだ行くの?」
「うん」
「もう休も?」
「行く」
 母は少し考え、小さく笑った。
「分かった。一緒に行こう」
 
  白猫は、窓辺で丸くなっていた。二人に気付くと、前足を片方ずつ出し伸びをした。
 母は鞄から便箋と封筒を取り出す。
「これを持ってきたの」
「?」
「手紙、書いてみない?」
「ここで?」
「うん。この子に伝えたいこと」
 白猫を見つめたまま、便箋を膝へ置く。
 鉛筆を握る。
 何度も止まりながら、一文字ずつ書き始めた。
「書けた」
 母は僕からそっと便箋を受け取り、封筒へ入れた。
「届けに行こうか」
 二人は並んで歩き出した。
 赤いポストが見えてくる。
 背伸びをして、ゆっくり手を伸ばす。
  カタン。
 白い封筒は、ポストの中へ吸い込まれた。
   
 
 目が冴えていた。布団の横で、白い封筒を握る。
「おはよう、もう行かない?」
  握ってた封筒を渡す。
「忙しいから行けない。これ、すぐにポストに入れてきて」
「うん」
 机には、便箋が何枚も広げられていた。
 渡した封筒を鞄へしまい、部屋をぐるりと見回したあと、しばらく僕を見つめていた。
「行ってくるね」静かに扉が閉まる。
  僕は、夏休みの宿題が山ほどあることをようやく思い出した。
  よし。
        ーーー片付けよう。


   数日後。
 僕は机の上を整理していた。
 封筒や便箋の下から、一枚の写真が現れる。
 白い猫を抱き、嬉しそうな一枚だった。
 封筒を開く。
「一緒に行こうか」
 写真をそっと重ね、封を閉じた。



  【 第3話     ラジオ 】


    赤いランプが灯る。
「本番、5秒前」
   河野岳は、深く息を吸った。
   引き出しの中には、一枚の封筒。
   今日の放送が終われば、提出するつもりだった。
「3、2、」合図とともに、スタジオに音楽が流れ出す。
「こんばんは。8月15日土曜日、夜の声、河野岳でお送りします」
 番組は、淡々と時折笑いも混じえながら進行していく。
「今日も、皆さまからのお悩みをご紹介しました」
  スタッフから、一枚のハガキを受け取った。
「では、最後のお便りです。…これは、珍しいハガキですね。ペンネーム、名無さん。」
 
   音楽が静かに流れ始める。
 古びたラジオから聞こえるその音に、誠はゆっくりと顔を上げた。
 卓袱台の上には、飲みかけの湯のみ。
 膝の上には、一枚の控え。
 投函したハガキを、何度も書き写したものだった。
「……読まれるか」
 ラジオの音量を、少しだけ上げた。

『こんばんは。初めて投稿します。ずっと引っかかっていることがあります。
   仲間で集まり、 緊迫した状況でのことです。そんな中、一人だけ場を和ませようとしてくれた友人がいました。
  私は、とっさに「黙れ」と言ってしまった。なのに、その後も彼は変わらず励ましや、お礼の言葉をかけてくれました。私は、一度も返すことができませんでしたーーー』


  戦時中。
  鬱蒼と茂るビルマのジャングルを、十数名の分隊が一列になって進んでいた。湿った土が軍靴にまとわりつき、木々の隙間から差し込む光が、細い獣道をまだらに照らしている。
 二十歳の上等兵・誠は、分隊長のすぐ後ろを歩いていた。危険を察知する勘は鋭く、進路を読む目は誰よりも確かだった。その後ろには、一歳年上の上等兵・隆。泥だらけの顔に、笑うたび白い歯だけが浮かぶ。
 隆は空を見上げる。
「見ろ。目玉焼きや」
 雲を指さした。
「ほら、あれが黄身で、これが君」
 そう言うと、誠の肩へ腕を回す。
「あー、腹減ったなぁ」
 後ろを歩く兵士たちから笑いが漏れた。
「また始まった」
「今日は目玉焼きか」
 誠は肩に回った腕を無言で外す。
 しばらく歩いた、その時だった。
 誠の視線が止まる。しゃがみ込み、軍靴の跡へ指を添えた。折れた枝、踏み潰された草。その先へ視線を走らせる。
「またそれか」隆が覗き込んだ。
「何が?」
「足跡だの、枝だの。よく見てるよな」
「そういう訓練を受けた」
「俺は受けてないぞ」
 誠は一瞬、顔を上げ、隆を見る。
「……そうだったか」
「どこで習ったんだよ」
「忘れた」
「嘘つけ」
 誠は答えず、立ち上がった。
 敵が近い。
 誠は足跡を見つめたまま、小さく進路を変えた。
 誰にも言わない。
 十分ほど歩く。
「まだ着かんのか」
「遠回りじゃないですか」
 小さな愚痴が後ろから漏れる。
 誠は振り返らなかった。
 やがて分隊は、枝葉に覆われた窪地へ身を潜める。分隊長が周囲を見渡し、小さく頷いた。
「五分休憩」
 兵士たちは、その場へ腰を下ろす。
 隆は水筒を一口飲み、誠の隣へ座った。
「敵、おったやろ」
 誠は答えない。
「皆を怖がらせたくなかったんやな」
「……」
 隆は苦笑した。
「お前は、何でも一人で抱え込む」
 地面に落ちていた小枝を一本拾う。
「胸にしまうんは悪いことちゃう」
 枝を胸ポケットへ差し込む仕草をする。
「でもな」
 今度は枝を口元へ運ぶ。
「ここぞって時は、ちゃんと口から出せ」
 そう言うと、枝が旗に変わったかのように、口から色とりどりの旗を次々と引っ張り出す真似をした。
「またそれか」
 兵士が笑う。
 誠も、堪えきれず吹き出した。

   空は鉛色だった。
 頭上を覆う枝葉が風を遮る。聞こえるのは、自分たちの足音と、どこかで鳴く鳥の声だけ。
 一行は小さな窪地へ身を潜めた。
   少し先には敵陣。誰もが息を潜め、地図を囲んでいた。
「大丈夫。何とかなる。為せば成る、為さねばならぬなんとやらって言うだろ」
  隆は、仲間の二の腕をぎゅっと握り、小さく揺らした。
   張り詰めた空気の中、隆だけはいつも笑っていた。真っ黒に焼けた顔に、白い歯だけが浮かび上がる。その笑顔に、何度救われたか分からない。
 何人かの肩から力が抜け、小さな笑いが漏れる。
  誠は顔を上げた。敵に聞こえるー。
  誠の背筋が凍った。一瞬で血の気が引きその場を制した。
「……黙れ」
 笑い声が止まる。隆は目を丸くしたあと、微かに口角を上げた。
「悪い」
  隆がそう言った瞬間だった。
  敵の銃声が森を裂く。仲間の兵士たちは散り散りに逃げた。
  誠と隆は同じ茂みへ飛び込む。
  隆は荒い息のまま、誠を見る。その目に恐怖はない。
「大丈夫」
  隆は、誠の頬に手をあてる。
「今までも何とかなっただろ? 」
「………」
「いつもありがとう。お前のお陰だ」
  誠は、なにも返せなかった。

  赤いランプはまだ灯っていた。
  河野岳が続きを読む。
『その日を最後に、私はTくんと会うことはありませんでした。』
   スタジオに静寂が流れる。
 河野岳はハガキを机へ置き、一度息をついた。ガラス越しのスタッフも、誰一人言葉を発しない。
「名無さん」
 河野岳は静かに口を開いた。
「Tさんの『ありがとう』は、ちゃんと名無さんへ届いていたんですね」
 少し間を置く。
「でも、名無さんは返せなかった」
 ハガキへ視線を落とした。
「正しかった言葉も、伝えられなかった思いも、忘れないものなんですね」 
  河野岳は、マイクへ向き直る。
「だから僕は、伝えられる思いは、伝えた方がいいと思います」
「その一言は、相手のためだけじゃなく、自分のためにもなると思うんです」

  ラジオから、エンディングの音楽が静かに流れ始めた。
 誠は、机の引き出しから一枚の古い写真を取り出した。
 皆、真一文字に口を結んでいる。
 隆だけが、白い歯を見せて笑っていた。
 誠は、その笑顔をしばらく見つめる。
『伝えられる思いは、伝えた方がいいと思います』
 河野の言葉を思い返し、一旦胸にしまった。

 赤いランプが緑へ変わる。
 河野は、まだ席を立たなかった。

 



【 第4話 ホワイトキャット 】

「各国支部、警戒態勢へ移行」
 その一報が、世界のあちこちで、同時に人を動かした。
   司令室では、壁一面の巨大なモニターに映る世界地図へ、赤い警告灯が次々と灯っていく。
 「レベル1~3、全員招集済み」
 声が飛び交い、誰も座ってはいない。
  ボスは腕を組んだまま画面を睨んでいる。眉間の皺だけで、機密文書を挟めそうだった。チャックが開いているが、誰も言い出せない。
「原因は、まだ解析中だ」
 誰かが頷く。
 その部屋の隅に、彼女はいた。
 コードネーム、ホワイトキャット。4流。
 周りの喧騒とは対照的に、彼女だけ直立不動。モニターの光を映した瞳が少し潤んでいた。
 ボスが尋ねる。
「レベル4、ホワイトキャット」
「は、はい」
「確証はあるのか」
 彼女は答えた。
「あ、あります」
   誰かのキーボードを打つ音が止まった。
 またすぐに動き出した。


 三日前
  街はまだ眠っていた。
 カタン。
 ポストの金属の蓋が、小さく鳴った。
 凛は、夜通し熱中していたゲームをようやく終え、ベッドへ潜り込もうとしていたが、ふと違和感を覚える。
 新聞配達のバイク音が聞こえなかった。
 なのに、ポストの音だけがした。
 気になって窓から玄関を見下ろす。
 家の先の曲がり角に、人影が見えた。
 後ろ姿だけを残して、その影は闇の向こうへ消えていく。
 玄関へ視線を戻すと、母がポストから何かを取り出していた。

 朝、ホワイトキャットは、トースターから食パンを取り出している。また焦がした。気にする様子もなく、焦げた端だけをゴミ箱に放る。
「…入った」
  彼女の呟きが、テレビの音に重なった。音量は低いのに、今日はキャスターの声だけが妙に硬い。
「各国、緊張状態が続いており――」
 コーヒーを一口飲んで、音量を上げた。
「政府は国民に冷静な対応を呼びかけていますーー」
  二口目を口に運びながら、夜明け前にしまった封筒を思い出すように床下収納へ目をやる。
 夫は、バターでパンを突き破っていた。
 娘が起きてくる。
「凛、おはよー」なんだか、この子、動きがぎこちないな。気のせいだろうか。
「お母さん、おはよー。今日、お弁当いらない」
「あ、そうなの。良かった」好都合だ。
  戦闘態勢へ入るため、寝室へ着替えに戻った。
 電光石火で着替えてるつもりが、久しぶりの興奮で何を着ていったらいいのか迷いに迷い、結局いつもの出勤スタイルでリビングへ戻る。
 夫はまだバターを塗っている。
 ホワイトキャットは、忍者の如く床下収納へ忍び寄り、人差し指と親指でそろっとつまみを上げ、封筒を取り出した。
「なにやってんの?」
  体が5cm飛び上がる。バターを塗っているはずの夫が、すぐ後ろにいた。首を少し傾げ、上目遣いでこちらを見ている。
「な、ななな、な、何って、あれよ。マヨネーズ。」
「マヨネーズ」
「そう、マヨネーズ。まだストックあったかなぁ。って」
「あ、そう」 気のない返事をしながら、
武志はコーヒーのおかわりを入れ、席に戻った。
「そ、そんなことより、今日ちょっと遅くなるかも」
 再びバターを塗り始めた夫の手が止まる。
「……また?」
「うん」
 それだけだった。理由は言わない。言えない。夫の目に何かがよぎった。
   思わず二度見する。
 目が合う前に、慌てて後片付けをし家を後にした。
 
 住宅街の外れにある古本屋『いんさっく』
   一度振り返り、一度振り返り、軒先までせり出した古本の棚をすり抜けるように、店へ入る。
   奥の本棚。上から3段目。
『きょどるにも程がある 1巻』
  人差し指をかけ、手前に引く。
  カシャン。
  ロックが解除され、本棚が開く。コンクリートの階段を降りはじめると、久しぶりに集められた四流スパイたちの熱気と、煮詰まったコーヒーの匂いが、一気に吹き上がってきた。
 一流も二流も三流も、他の任務で出払っている。集められたのは四流ばかり。椅子に座りきれず、壁際に立っている者もいる。空気は重く、誰も軽口を叩かない。
 しばらくの静寂の後、巨大モニターにボスが映った。
   目元を覆うのは仮面舞踏会のような仮面。変声器を通したくぐもった声が、司令室に響く。背景は、何故か南国風だった。
「世界情勢は、承知の通りだ。1~3レベルは出払っている。今日から、諸君にも本部の情報処理を任せる」
 どよめき。誰かが小さく「え」と言う。
 ホワイトキャットには、情報収集と暗号解析の任が下る。
 モニターの光。彼女の指はほとんど止まらない。文字列が流れては消え、消えては別の並びに変わる。誰かが差し出した書類の束を、彼女は目だけで追って、解析。キーボードの音は、聞いているだけで目が回りそうだった。本人以外は。
「これ、できた。次ちょうだい」
「もう?!」
  隣に座るグレイラビットは、まだロシア極東方面から上がった一件目の通信傍受記録と格闘していた。
 その日、彼女は誰よりも多くの案件を片づけた。仮面ボスからの評価はいつも通り短い。
「上出来だ」
「ボス、あの…、言い忘れてました。すみません」
「なんだ、要件を先に言え」
「あ、はい。今朝の夜明け前、じ、自宅ポストに……これが」
  ホワイトキャットは、先程の封筒をボスに渡す。
「……。見慣れない形式だな。」
「そうなんです。でもこんな状況なので、か、解析許可をお願いします」
「よし、やれ。ただ、ここに来た時点で報告してほしかったな」
  ボスは首をちょこんと傾げ、下から覗き込むようにこちらを見た。
  気持ち悪い。
「す、すみません。以後気をつけます」

 仕事後の明け方。人通りのない道。街灯の下だけ、まだ白く浮かぶ。
 自宅のポストに、封筒がまた一通。
 差出人なし。宛名前回と同様。
 彼女の指が止まる。紙質、折り目、インクのにじみ方。それだけで、頭の中の何かが引っかかる。
 自宅に持ち帰らず踵を返した。
  すっかり、だれ始めた四流の面々の横を通り抜け、仮面ボスへ報告をする。
「また通常の郵便では無いものが自宅ポストに入っていました」
 彼女はそれだけを報告する。
「これも解析を提案します」
 封筒がカメラの前にかざされる。
「今の情勢で、この形式は見過ごせない」
 解析班が招集される。
 文面を見た解析班の一人が、眼鏡を押し上げる。
「文章構造が、暗号通信のパターンに類似しています」
 情報班が別の報告を持ってくる。
「海外の複数拠点でも、似た形式の投函が確認されています」
 部屋の温度が、一段変わる。
 仮面ボスが立ち上がる。 画面から顔が消え、腹だけが映し出された。
「敵性通信の可能性、高いと見る」
 各国支部から、次々と連絡が入る。
「こちらでも警戒態勢に入ります」 「部隊を展開します」 「接触地点と思われるエリアを封鎖します」
 ホワイトキャットは、自分が持ってきた手紙から、世界中で次々展開される事態に震えた。考えると、キーボードが余計な音を奏でるので、自分の出来ることに集中した。

   昼過ぎ、ようやく作業が一段落した。
 顔を上げた瞬間、目の奥がずきりと痛む。そういえば昨日から、一度も家に帰っていない。
「……まずい」
 凛の顔が浮かんだ。
 立ち上がると、一瞬だけ足元が揺れた。
「……?」
 机に手をつき、すぐに歩き出す。
「ホワイトキャット、どこ行くん?」
 隣の席から、グレイラビットが声をかけてきた。
「ちょっと家に」
「帰んの?」
「すぐ戻る」
「ほな、なんか食うもん買ってきて」
「はいはい」
  階段を上がり、古本屋を出た。  
  外の光に目を細める。そういえば、昨日から何も食べていない。
「ま、いっか」  
  家に戻ると、凛がいた。 案の定、怒っている。 任務のことなど言えるはずもなく、咄嗟についた嘘は、自分でも驚くほど下手だった。  
  そして――。
「なによ、自分が浮気してること棚に上げて!!」
  凛はそのまま、玄関を飛び出していった。 「凛!」  
  追いかけようとした足元に、ミルクが擦り寄ってくる。
「……浮気って?」  
  ミルクを見下ろす。
「にゃ」

  凛が飛び出したあと、ホワイトキャットもすぐに家を出た。  
  公園、コンビニ、川沿い。凛が行きそうな場所を片っ端から探したが、どこにもいない。
「凛……」  
  何度目かの角を曲がったところで、足元がふらついた。立ち止まり、電柱に手をつく。昨日から寝ていない。そういえば、食事もまともに取っていなかった。
「こんな時に……」  額の汗を拭い、また歩き出す。  
  隣町まで来たところで、とうとう足が止まった。一人では埒が明かない。  
  ホワイトキャットは住宅街の外れにある古本屋『いんさっく』へ向かった。  
  一度振り返り、目眩を伴いながら店へ入った。
「グレイラビット」  
  奥から、大きな体がぬっと現れた。
「どうした?」
「お願い。娘を探すの、手伝って」 「娘?」
「家を飛び出しちゃって……」
「分かった」 返事が早い。
  二人で店を出た。
「この辺やったら、探す場所はだいたい分かる」  こういう時だけは頼りになる。
   ホワイトキャットは、力なく頷く。
「まず公園。いなかったら商店街の裏。あそこ、高校生がよく――」  声が遠くなる。 「……?」  地面が、ぐらりと傾いた。
「おい!」  グレイラビットが腕を掴む。 「だいじょう……ぶ……」 言い終える前に、膝から力が抜けた。
「しっかりせぇ!」
「凛を……」
「その前に自分やろ」 グレイラビットはホワイトキャットを背負った。ラビットなのに、力あるな……。
「近くに診療所がある。行くで」
  返事をする前に、目の前は暗転した。
 
  意識が戻った時、白い天井が見えた。  
  腕には点滴。ベッド脇には、窮屈そうに椅子へ座るグレイラビットがいた。
「……凛は?」
「まだ探してない」
「探してよ」
「倒れた人間置いて行けるか」  
  ホワイトキャットは目を閉じた。
「あなたに話すべきじゃないのは、分かってるけど……」
「何だ?」
「もし、私に何かあったら」グレイラビットの袖を掴み、顔を見た。
「娘と主人に、心から愛してるって伝えて」 「……」  
  グレイラビットは眉間に皺を寄せた。何言ってんだよ。ただの過労で。
「そんなの、自分で言えよ」  
  ホワイトキャットは少しだけ笑った。 「……そうね」


   数日後の三通目が届いた日。基地に入った彼女は巨大モニターを見つめたまま、しばらく動けなかった。
 画面には、
「最終承認 送信完了」
 の文字。

   お腹に隠した三通目は、まだ誰にも報告できていない。
 そこに書かれていたことを知るのは、ホワイトキャットだけ。
 これはもう、墓場まで持っていくしかない。




【 第3′話 よく喋る男 】

   赤いランプが、緑へ変わる。張りつめていたスタジオの空気が、一気にほどける。
  ヘッドホンを外す音、椅子を引く音。
 ガラスの向こうでは、スタッフが大きく伸びをしていた。
「河野さん、お疲れさまでした」
「お疲れさまでした。いやあ、今日もよく喋った」
 岳はヘッドホンを外しながら、まだマイクへ名残惜しそうに目をやった。
「毎回よく喋ってますよ。それが仕事でしょ?」
 スタッフは笑いながら、机の上の原稿を揃え、鉛筆を耳に挟む。
「でも、まだまだ喋れるよ」
「もう、放送は終わったので結構です」
 岳は椅子をくるりと半回転させ、ガラスの向こうへ身を乗り出した。
「冷たいなあ。じゃあ帰り道だけでも」
 スタッフは棚からレコードを抜き、紙のジャケットへ戻した。
「一人で喋って帰ってください」
「そんなことしてたら、お巡りさんに呼び止められるよ」
   スタッフが鞄を肩へ掛ける。岳は立ち上がって、そのあとをついていった。
「本当に帰っちゃうの?」
「帰ります」
 扉へ向かう背中に、なおも声を飛ばす。
「薄情だなあ。僕が明日から無口になっても知らないよ」
「放送後は、その方向で」
 扉が閉まりかける。
「ひどいな」
 最後の一人が手を振り、扉が閉まった。
   パタン。
   岳だけが残った。
   机の上には、灰皿から細い煙がまだ上がっている。岳は窓を少し開け、席へ戻った。
   急に静かになったスタジオで、時計を見上げる。零時を少し回っていた。
 時計の下に掛けてある、日めくりに目が止まる。
   一枚めくった。
 八月十五日。
 岳の指が止まった。
「……もう、そんな日か」
 机へ戻る。
   マイクの横には、名無さんのハガキが残っていた。
『伝えられる思いは、伝えた方がいいと思います』
 誰かに向けて言ったはずの自分の声が、まだ耳の奥に残っている。
 岳は机の引き出しを開けた。白い封筒へ指をかける。
 しばらく見つめて、また閉じた。
「人には偉そうなこと言うんだけどなあ」

 岳が七歳になった夏、戦争が終わった。
 町のあちこちで、大人たちがラジオを囲んでいた。泣いている人もいれば、黙って空を見上げている人もいる。
 岳には、その理由がよく分からない。
「お母さん、戦争が終わったら、明日からどうなるの?」
「さあねえ」
「学校は?」
「どうなるかしら」
「飛行機、もう来ない?」
「来ないといいね」
「夜、明るくしてもいいの?」
 母は少し考えた。
「……そうね。もう、いいのかもしれないね」
「じゃあ――」
「岳」
「なに?」
「少し静かにして」
「なんで?」
 母は困ったように笑った。
 分からないことを聞けば、母はいつも答えてくれた。分からない時は、「分からない」と言ってくれた。
 でも、この時は何も言わなかった。
 岳の目には、母の見たことのない表情だけが残った。

 母が台所で指を切ったのは、それからしばらく経った頃だった。
「痛っ」
 まな板の上には野菜。母の人差し指から、赤い血が滲んでいる。
「血!」
「大丈夫よ。ちょっと切っただけ」
「見せて」
「平気よ」
「いいから見せて」
 岳は母の手を取った。
 いつだったか、道で転んだ子どもの膝を、大人が手当てしているのを見たことがある。たしか、最初に水で洗っていた。
「冷たいし、痛いんだけど」
「我慢して」
  岳は母の指を水で流し、真剣な顔で傷口を覗き込んだ。そして、また洗う。
「もういいんじゃない?」
「まだ」
「岳先生、厳しいわね」
「動かないで。洗った後は……」
 思い出せない。
「何か、当てた方がいいですか?岳先生」
「そうそう。そうだ」戸棚を開け、布を見つける。
「……たしか、これだ」
「本当に?」
「……うん」
 傷へぐるぐる巻きつける。
 人差し指が、親指の二倍になった。岳は満足そうに頷く。
「よし」
 母は、笑顔で岳を見た。
「これで大丈夫ね」

 夕方、父がわずかな食料を抱えて帰ってきた。
 母は太くなった人差し指を見せた。
「岳先生に治してもらったの」
「おお。先生、さすがだな!」
「まあね」
 岳は腰へ両手を当てた。
「お父さんも、どこか悪くなったら言って」
「じゃあ、腹を診てもらおうかな」
「痛いの?」
「いや。ちっとも満腹にならない」
 岳は父の腹へ耳を当てた。
「鳴ってる」
「重病だな」
「ご飯食べれば治るよ」
「それが一番難しい病気なんだ」
「あなた」
 母が父の背中を軽く叩いた。
「子どもにそんなこと言わないの」
「じゃあ岳先生、今のは忘れてくれ」
「もう覚えた」
「先生は記憶もいいのか。困ったな」

 翌朝、岳は母の指に巻いた布を外した。
 昨日より、傷が閉じている。顔を近づけ、まじまじと眺めた。
「あれ?」
「どうしたの?」
「僕、寝てたよね」
「ぐっすり」
「じゃあ、誰が治したの?」
「誰って……身体が自分で治したんじゃない?」
「身体が?」
 岳は自分の手を見る。指を曲げる。伸ばす。
 爪を押すと白くなり、離すと桃色へ戻った。
「なんで?」
 それからだった。
 傷はどうして閉じるのか。血はどこで作られるのか。眠っている間も、なぜ心臓は動いているのか。
 身体について、次から次へと疑問が湧いた。
 蚊に刺されれば、痒いところを見ながら「なんで」
  転べば、膝から出た血を見ながら「なんで」
 しゃっくりが出れば、止まるまで「なんで」を母や父に繰り返す。
「本当によく喋る子ねえ」
「そうかな?」
 そう言われると、悪い気はしなかった。
 自分は、よく喋る子。岳はますます喋るようになった。

   あの夏から、四年が過ぎた。
 焼け跡には店が並び始め、町を行く人の足取りも、いつの間にか前を向いていた。
 それでも、河野家の卓袱台に並ぶ皿は、まだ少ない。

 冷たい風が古い家の隙間から入り込み、奥の部屋から母の咳が聞こえる。
 寝込んで三日になる。
 岳は襖を開け、母の額へ手を当てた。
「まだ熱い」
「そう?」
「そう? じゃないよ」
 濡れた手拭いを替え、水を飲ませる。布団を掛け直した。
 昨日もやった。その前も。それでも良くならない。岳はもう一枚、布団を掛けた。
 しばらくして、母の赤い頬を見る。
「……暑いかな」
 一枚剥ぐ。
 母が寒そうに身体を丸めた。また掛ける。
 しばらくして、やっぱり剥ぐ。
「岳……」
「なに?」
「さっきから、何してるの」
「治してる」
「布団を?」
「僕も分からなくなってきた」
 母が小さく笑い、その直後、激しく咳き込んだ。しばらく、咳き込んだ後、急に静かになった。
「お母さん?」
 返事がない。
「お母さん」
 肩へ触れる。
「ねえ、お母さん!」
 うっすらと目が開いた。
「……聞こえてるわよ」
 岳は大きく息を吐いた。
 手拭いを握ったまま、動けない。身体について、あれだけ聞いてきたのに、今は何をすればいいのか分からなかった。
 熱が出る理由も、咳が止まらない理由も。
 今、母の身体の中で何が起きているのかも。
「病院……」
 言いかけて、止まった。
 隣の部屋。卓袱台の上には、母の財布がある。
 数日前、父と母が小銭を一枚ずつ数えていた。
「今月は、あとこれだけか」
 聞こえないふりをしていた。でも、覚えている。
「岳?」
「……水、もう少し持ってくる」
 台所へ戻り、蛇口をひねる。
 冷たい水がコップへ落ちていく。
 どうして熱が出る。どうして咳が止まらない。どうしたら治る。
 いつもの「なんで」が、今日は一つも楽しくなかった。
 玄関の戸が開いた。
「ただいま」
 岳はコップを置いて走った。
「お父さん!」
  父が帰ってきたのは、一週間ぶりだった。父は少しでも稼ぎのいい仕事を求め、隣町の工事現場へ泊まり込みで働きに出ていた。
 土埃のついた服。肩から下げた鞄から、新聞紙に包まれた芋が覗いている。
「どうした」
「お母さんが……」
 父が奥の部屋へ駆け込み、母の額へ触れた。
「いつからだ」
「三日前」
「三日?」
 父が振り返る。
「なんで言わなかった」
「だって……」
「なんだ」
 岳は卓袱台へ目をやった。
「……お金、ないから」
 父の動きが止まった。
 何か言いかけ、やめる。母へ背中を向けてしゃがみ込んだ。
「乗れ」
「あなた……」
「いいから」
 母を背負い、立ち上がる。
「僕も行く」
「岳は家にいろ」
「でも」
「頼む」
 玄関の戸が閉まった。
 急に静かになった家の中へで、岳は一人戻った。
 卓袱台の上には、小銭が三枚。その横には、さっき水を入れたコップが残っている。
 岳は卓袱台の横に崩れるように座った。
 七歳の時は、布を巻いただけで「先生」と呼ばれた。少し、本気にしていた。
 でも、本当に助けたい今。
 岳先生は、何も知らなかった。

 数日後、玄関の戸が開いた。
「ただいま」
 岳は廊下を走る。
「お母さん!」
 飛びつく寸前で止まり、母の顔を覗き込んだ。
「もう大丈夫なの?」
「大丈夫よ」
「本当に?」
「お医者さんも大丈夫だって」
 岳は母の手首を掴んだ。
「なにしてるの?」
「脈」
「分かるの?」
「……」
 眉間に皺を寄せる。
 分からない。反対の手首も掴んだ。
「そっちなら分かる?」
「……分からない」
「でしょうね」
 母が笑う。
 岳は手を離さなかった。
 傷が治る理由も、熱が出る理由も、咳が止まらない理由も。全部、知りたかった。
 それだけじゃない。今度は、分からないまま母のそばにいるのではなく、治せる側にいたかった。
「……僕、医者になる」
「え?」
「ちゃんと分かる人になる」
 母が岳を見る。
「じゃあ、岳先生は?」
 岳は少し考え、首を振った。
「もう先生ごっこはやめる」
「やめちゃうの?」
「うん。ちゃんと分かるようになりたい」

  それからも、岳の「なんで?」は止まらなかった。
 身体のことだけではない。分からないことがあれば聞く。気になれば首を突っ込む。母に「よく喋る子」と言われた少年は、そのまま、よく喋る青年になった。
  学校でも、商店街でも、初めて会った相手でも、気づけば岳の周りには人が集まっていた。
 ある日、知り合いに連れられて遊びに行ったラジオ局でも、それは変わらなかった。初対面の職員を捕まえて、気づけば十分近く喋っている。
「河野、お前、その口を仕事にしたらどうだ」
「褒めてます?」
「半分くらいはな」
「残り半分も聞かせてくださいよ」
「ほら、それだ」
「どれです?」
「もういい」
「気になるなあ」
 あれやこれやと担がれ、気づけば目の前にはマイクがあった。
 ラジオの仕事は、思っていたよりずっと楽しかった。
 知らない誰かからハガキが届き、知らない誰かの人生を聞く。自分の声で誰かが笑い、誰かが少しだけ元気になる。
 岳には、それが嬉しかった。
 だから余計に、言えなくなった。
 頭の片隅にずっとある思い。
   医者になりたい。
 
 医学を学ぶには金がいる。家にそんな余裕がないことくらい、分かっている。
 ラジオの仕事は楽しいし、両親も喜んでいる。
 よく喋る岳が、一番言いたいことだけは黙っていた。

 実家の戸を開ける。
「ただいま」
「おかえり」
 居間には父と母。
 二人の間で、ラジオが小さく鳴っている。
  母が振り返った。
「今日も聴いたよ。最後のハガキ、よかったね」
「そこだけ?」
「その前は、ちょっと喋りすぎ」父と顔を見合せて笑っている。
「それが仕事なんだけどなあ。そういえば今日、スタッフにも言われたんだよ。放送が終わってもまだ喋れるって言ったら、一人で喋って帰れって。ひどくない? そんなことしてたら、お巡りさんに――」
「岳」
「なに?」
「今日、ずいぶん喋るわね」
 口が止まった。
「……いつもでしょ」
「いつもより喋ってる」
「そうかなあ。そういえば帰りにね――」
 湯呑みに手を伸ばす。
 口へ運ぶ。何も入っていない。
 戻す。
 しばらくして、また飲みかける。
「岳」
「なに?」
「それ、空よ」
「知ってる」
「さっきから三回繰り返してるけど」
 岳は湯呑みの中を覗いた。
「……誰か飲んだ?」
 父が急須を持ち上げる。
「入れるか?」
「お願いします」
 湯が注がれる。
 岳は今度こそ一口飲んだ。
『伝えられる思いは、伝えた方がいいと思います』
 自分の声が蘇る。
「……参ったなあ」
「何が?」
「今日、偉そうなこと言っちゃったんだよ」
「いつもじゃない」
「お母さんまでひどいな」
 また喋って逃げようとしている。
 岳は自分でそれに気づき、口を閉じた。
「……お父さん、お母さん」
 二人が顔を上げる。
「僕ね」
 続かない。どうでもいい話なら、朝までだって喋れるのに。
 岳は口を開きかけ、閉じた。膝の上で両手を組み、親指を何度も擦る。
  両親は、何も言わずに岳の言葉を待っているようだった。

「僕……、医者になりたい」

 ラジオから流れる音だけが、やけに大きく聞こえた。
 父が湯呑みを置く。
「いつから?」
「終戦の頃から」
 母の眉が上がる。
「そんなに前から?」
「うん」
「なんで言わなかったの?」
 岳は卓袱台へ目を落とした。
「お金、……ないでしょ」
「ないわね」
「そこは少しくらい否定してよ」
「嘘ついてどうするの」
 岳の口元が緩んだ。
「だから、言えなかった。困らせると思って」
  母はしばらく岳を見つめた。
「どうしたらなれるの?」
「え?」
「医者」
 岳は瞬きをした。そんなことを聞かれるとは思っていなかった。
「それは……」
 言葉を探しながら、視線が宙をさまよう。
「どこへ行けばなれるの?」
「……」
「何が必要なの?」
 岳は膝の上で指を組み直した。
「……分からない」
 母は少し間を置いた。
「学費は?」
「それは高い」
「いくら?」
「……分からない」
   口にした途端、岳の表情が止まった。
 医者になりたい。金がかかる。だから無理。その先を、一度も考えたことがなかった。
「岳」
「はい」
 母が目を細める。
「何なら分かるの?」
 岳はしばらく考えた。
「……医者になりたいこと」
「そこだけ?」
「……はい」
 
 母は立ち上がり、茶簞笥の引き出しから紙と短い鉛筆を持ってきた。
 卓袱台へ置く。
「じゃあ、調べよう」
「え?」
「どうしたらなれるのか」
「でも、お金――」
「それも調べる」
「でもーー」
  母は、真っ直ぐ岳を見た。
「岳」
「はい」
「今日は、よく黙るわね」
 岳は母を見る。
 父が小さく笑った。つられて、母も岳も笑う。
 白い紙へ視線を戻す。
 お金がない。だから無理。ずっと、そこで話を終わらせていた。
 誰にも聞いていない。調べてもいない。
 自分一人で、答えまで決めていた。
 岳は鉛筆を取った。

 数日後、局の受付に一人の男が立っていた。
「河野さんに、お客さまです」
「僕に?」
 岳が顔を出す。
 男は帽子を胸の前で持ち、小さく頭を下げた。
「先日の放送で、ハガキを読んでいただいた者です」
「……名無さん?」
「あ、はい」
  誠は後頭部へ手をやり、岳から少しだけ目を逸らした
「ああ、どうぞ。立ち話もなんですから。お茶でも――」
「いえ、すぐ済みます」
「遠慮しなくても。僕もちょうど暇で」
「ハガキを返していただきたくて」
 岳の口が止まった。
「……ハガキ?」
「はい」
「もちろん。少し待っていてください」
 机へ戻り、引き出しを開ける。
 名無さんのハガキ。その下には、白い封筒。
 岳はハガキを取り出し、指先で軽くしならせた。
「これですね」
「はい」誠が頷く。
「これ、やっぱり珍しいですよね。少し分厚い」
 誠が岳を見る。
「……よく分かりましたね」
「毎日、何百枚も触ってますから」
「なるほど」
 誠は後頭部へ手をやり、少しだけ目を逸らした。
「昔の癖で」
「変わった癖ですね」
   誠は曖昧に笑った。
 ハガキを両手で受け取り、自分の文字をしばらく見つめた。
「手元に置いておこうと思いまして」
「これを?」
「はい」
 親指が、ハガキの端をなぞる。
「また、言葉を飲み込まないように」
 岳は何も言わなかった。
 男はハガキを胸元へしまい、深く頭を下げる。
「ありがとうございました」
「……こちらこそ」
 誠が局を出ていく。
 岳は、その背中が見えなくなるまで立っていた。
 机へ戻り、引き出しを開ける。
 白い封筒が残っている。
「……僕もか」
 今度は取り出した。
 退職届。

 局長室の大きな窓から風が入り、机に広げられた新聞の端が持ち上がった。
「失礼します」
 局長が新聞から顔を上げる。
「河野か。どうした」
 岳は封筒を差し出した。
「お願いします」
 局長が受け取り、表書きを見る。
「……退職届?」
「はい」
「ラジオが嫌になったのか」
「まさか」即答した。
「好きですよ」
「なら、なぜ辞める」
 岳は口を開き、また閉じた。
 窓から風が吹き込む。新聞が一枚めくれ、日付が目に入った。
 昭和三十四年八月十五日、土曜日。
「……十四年か」
「何がだ」
「あの日、僕は七歳でした」
 局長も新聞へ目を落とした。
「終戦か」
「はい」
 岳は窓の外を見る。
「その頃、なりたいものを見つけたんです」
「十四年前に?」
「正確には、その少しあとです」
「それを今まで?」
「黙ってました。言えなかったんです」
 局長が眉を上げる。
「河野が?」
「そこ、そんなに驚きます?」
「お前が十四年も黙っていられたことに驚いてる」
「僕だって黙る時くらいありますよ」
「十四年分、ほかで喋ったんだな」
「それは否定できません」
 岳は笑った。
 窓から入る風が、机の新聞をもう一度揺らす。
「決めるのに、ずいぶん時間がかかりました」
「何を決めた」
 岳は退職届を見る。
 七歳の夏。母の指。十一歳の冬。一人残された台所。そして、自分で誰かに向けて言った言葉。
 今度は、迷わなかった。
「医者になります」
 岳は退職届から、ゆっくり手を離した。



【 第2'話   長い夏休み 】

   
    四月の住宅街。淡い桃色のハナミズキが、家々の間から顔をのぞかせている。
 誠は妻の百合子と並んで、いつもの道をゆっくり歩いていた。いつもの散歩道を、急ぐでもなく、ゆっくりと。
「今日は調子どう?」
「絶好調」
 百合子は胸を張った。三歩ほど進んで、ふう、と息をつく。
「絶好調の人は、三歩で休まない」
「今のは深呼吸」
「ずいぶん長い深呼吸だな」
「四歩目に備えてるの」
 百合子は何食わぬ顔で歩き出した。誠は笑いながら、その横へ並ぶ。
 向こうから、自転車に乗った近所の女性がやってきた。二人に気づき、速度を落とす。
「こんにちは。お散歩?」
「ええ。この人の運動不足につき合ってるの」
「よく言うよ」
 女性が笑いながら通り過ぎていった。百合子は小さく手を振る。
「また適当なことを」
「世間話に正確さを求めないの」
 百合子は涼しい顔で先に歩き出した。
 誠が追いついたところで、百合子の足がふいに止まった。道端の植え込みをじっと見ている。
「今度は何だ?」
「しー……」百合子が人差し指をゆっくり口元へ立てた。
 植え込みの奥で、葉がかすかに揺れている。
 やがて隙間から、白い顔がのぞいた。
「あら」
 小さな白猫。汚れた前足を身体の下へしまい、二人を警戒するように見上げている。
 百合子がゆっくり腰を落とした。
「おいで」
「逃げるぞ」
「あなたが喋るからよ」
「俺は一言しか喋ってない」
「その一言が余計なの」
 誠は口をつぐんだ。百合子が満足そうに頷く。
 しばらくすると、白猫が腰を上げ、植え込みから一歩だけ出てきた。
 百合子も動かない。白猫と同じ目をして、じっと待っていた。
  白猫がもう一歩、前へ出た。百合子は手のひらを上に向け、そっと差し出す。
 鼻先が指に触れた。
「あら、冷たい」百合子が頬を緩める。白猫は逃げるどころか、その手に額を押しつけた。
「ずいぶん早く懐いたな」
「見る目があるのよ」
 百合子が白猫を抱き上げた。真っ白な顔から、大きな目だけが誠を見ている。
 誠は白猫を見た。それから、抱いている百合子へ目を移す。
「似てるな」
「誰と?」
 誠は白猫を指し、百合子を見る。
「私?」
「目がそっくりだ」
 百合子は白猫と顔を寄せた。二つの猫目が並ぶ。
「あら、私こんなに美人さん?」
 誠は返事に詰まったまま、通りの向こうへ目をやった。
 百合子が片眉を上げる。
「そこは『そうだな』でいいでしょう」
「正確さが大事だろ」
「世間話にはいらないって言ったの」
「これは世間話じゃない」
「じゃあ、何?」
 誠は白猫を見る。百合子も答えを待っている。
「……猫の話だ」
「逃げたわね」
 百合子が笑った。白猫まで笑ったような顔をして、誠を見ている。
 似ている。やっぱり、よく似ていた。
 誠は百合子の横顔を見る。春の日差しに照らされた頬へ、細い銀色の髪が一本かかっている。
 綺麗だな。
 言おうとしてやめた。昔から、何度もそう思ったが、そのたび言葉は喉のあたりで止まる。今日も同じだった。
「どうしたの?」
「いや、なんでもない」
 百合子は少し首を傾げたあと、腕の中の白猫へ目を戻した。
「この子、どうしましょう」
  百合子は白猫の背中を撫でながら、辺りを見回した。首輪はなく、近くに飼い主らしい人もいない。
「この子、どうしましょう」
「うちで飼うか?」
 百合子の手が止まった。嬉しそうにしていた目が、すぐに少しだけ伏せられる。
「……飼いたいけどね」
「じゃあ、飼えばいい」
「簡単に言うのね」
「俺も世話するよ」
「あなた、自分の薬も忘れるでしょう」
「猫なら腹が減ったって鳴く」
「私も鳴こうかしら」
「なんでだよ」
「薬、忘れないように」
 誠が吹き出す。百合子も笑ったが、すぐに小さく咳き込んだ。
 しばらくすると咳は治まったが、腕の中の白猫を見つめる表情が変わっていた。
「……飼いたいけどね」
 百合子の指が、白い背中をゆっくり往復する。
「ちゃんと最後まで面倒を見てくれる人がいいわ」
 誠には、十分すぎるほどその意味が分かってた。
 百合子はもう一度だけ白猫を抱き寄せた。ふと何かを思い出したように、顔を上げる。
「そうだ。加奈子さんに聞いてみようか。
凛ちゃん、猫を飼いたいって言ってたでしょう」
「ああ、加奈子さんとこの」
 百合子は頷いた。近所付き合いのある加奈子なら、家も暮らしぶりもよく知っている。
 その日の夜、二人は白猫を連れて加奈子の家を訪ねた。
 玄関が開くなり、奥から少女が駆けてくる。
「猫!」
 凛は百合子の腕の中を見て、目を丸くした。
「真っ白ね!」
 百合子は白猫を抱いたまま、加奈子へ事情を話した。
「もし迷惑じゃなかったら、この子……」
 最後まで言い終わらないうちに、凛が加奈子を見上げる。
「お母さん」両手を胸の前で合わせている。
 加奈子は娘と白猫を交互に見て、困ったように笑った。
「ちゃんとお世話できる?」
「できる!」
「毎日よ」
「毎日する!」
 白猫が百合子の腕の中で、小さく鳴いた。
 凛の顔が、ぱっと明るくなった。

    百合子が亡くなって数年が経った。
 深夜の住宅街は寝静まり、家の中には時計の針の音だけが響いていた。
「お父さん」
 娘の陽子は廊下の明かりをつけた。玄関には、片方だけ靴を履いた父がいる。
「こんな時間に、どこ行くの?」
 誠は振り返った。
「ちょっと」
「ちょっとって?」
 玄関の戸へ伸びていた手が止まる。
「あっちの方」
  誠は玄関の向こうを指した。けれど、その先に何があるのか聞くと、眉間に皺を寄せる。
「じゃあ、一緒に行こう。待ってて。着替えてくるから」
「お母さんは、来なくていい」
   陽子は一瞬だけ父を見つめた。壁の時計を見ると、午前二時を少し回っ たところだった。

   寝室へ戻り、パジャマの上から上着を羽織った。鏡を見る。白髪混じりの髪は爆発している。
「……お母さんでも仕方ないか。おばあちゃんよりマシか」
   急いで玄関へ戻った。
「お父さん」
 いない。
 玄関には、父の靴だけがなかった。
「もう……」
 サンダルをつっかけ、外へ出る。
 左右を見渡した。街灯が等間隔に並ぶ道に、人影はない。
 右へ行くか、左へ行くか。
 父がさっき指した方向を思い出し、走り出した。
 角をひとつ曲がったところで、遠くに見慣れた背中が見えた。
「お父さん!」
 呼んでも振り返らない。
 追いついた頃には、父は一軒の家の前で立ち止まっていた。
 娘も足を止める。
 その家を見て、ようやく気づいた。
   ……ここだったの。
「……見つけてしまったのね」
「うわっ、び、ビックリした。お化けかと思った」
「誰がお化けよ。化粧してないからって、お化け扱いしないで」
   笑いながら髪を手ぐしで直した。
 本当は笑っている場合ではない。
 目を離した数分で、父はいなくなる。
 怒れば萎縮する。叱ったところで、叱られた理由の方が先に消える。
 だから、笑う。
 笑えるうちは、笑っておこう。

  窓辺には、白い猫がいた。父に気づいたのか、ゆっくり顔を上げる。
 誠の表情が、ふっと緩んだ。
「あの猫が気になるの?」
「うん」
 娘には見覚えがあった。母がまだ元気だった頃、散歩の途中で何度も立ち寄っていた家だ。
 父と母が拾い、ここへ託した白い猫。
「あの猫のこと、覚えてないの?」
 誠は白猫を見つめたまま、首を横に振った。
「……覚えてない」
 覚えていないのに、ここまで来た。
 娘は父の横顔を見る。白猫から目を離そうとしない。
「気になるのね」
「うん。好きだ。綺麗」
 その言葉に、陽子は少し驚いた。
 父が誰かを「綺麗」と言うのを、ほとんど聞いたことがない。
「また、会いに来ようね」
 父は小さく頷いた。
 帰り道、誠は何度も後ろを振り返った。家が見えなくなっても、そのたびに足を止める。
 陽子は急かさず、その横で待った。
 父が何を見ているのかは、まだ分からなかった。
   家へ戻ると、誠は何事もなかったように布団へ入った。娘は擦り減った靴底を見てから、玄関の鍵を閉める。
 
    時計は、午前三時を回ったところだった。
 ようやく眠れる。そう思って自分の部屋へ戻った矢先、また玄関で物音がした。
「お父さん?」
 廊下へ出る。
 玄関には誰もいなかった。
「また……」
 娘は上着を掴み、そのまま外へ飛び出した。
 さっきの道を走る。白猫の家まで行ったが、父はいない。

「お父さん!」

 静かな住宅街に声だけが響く。
 角を曲がる。
   いない。
   次の道にも、いない。
 胸の奥がざわつき始めた。
「お父さーん!」
 どれくらい探しただろう。遠くの道端に、人影が見えた。
 駆け寄ると、誠が地面に座り込んでいた。
「いた……」
 陽子はその場へしゃがみ込んだ。走り続けた息が、うまく整わない。
「も、もう、……見つからないかと思った」
 父はきょとんとしている。
 陽子は破れたズボンと、血の滲んだ膝を見る。
 怒りたい。
 泣きたい。
 とりあえず、眠たい。
「……どうしたの?」
 その顔を見て、娘は肩の力を抜き、息を吐いた。
「なんでもない。帰ろっか」
 立ち上がろうとした父が、顔をしかめる。
「痛い」
「どこが?膝?」
 娘は父の腕を肩へ回す。
「ゆっくりね」
 帰り道、父は足を引きずっていた。
 家に着くと、娘は傷についた砂を洗い流した。
「痛くない?」
「大丈夫」
 消毒を終え、父を布団へ連れていく。
 娘は時計を見た。もうすぐ午前四時。
 今度こそ眠ってくれるだろう。
 そう思って部屋を出た。とたんに、閉めた扉が開いた。
 まさか。
 振り向くと、父が足を引きずりながら部屋を出てきた。
「まだ行くの?」
「うん」
「もう休も?」
「行く」
  陽子は天井を見上げた。
 午前二時から、これで三度目。
「……元気ねえ」
「うん」
「褒めてないんだけどな」
 父はもう靴を履いている。
 陽子は少し考え、小さく笑った。
「分かった。一緒に行こう」
 父の膝を見る。さっき手当てしたばかりなのに、その顔に迷いはなかった。
 止めても、きっとまた行く。少し考え、また小さく笑った。
   今度は着替えに戻らなかった。玄関脇に置いていた鞄を肩へ掛ける。
 中には、便箋と封筒。それから鉛筆を入れておいた。
 さっき父が言った言葉が、まだ耳に残っている。
 覚えていないはずの白猫を、父は「好きだ。綺麗」と言った。何か伝えたいことがあるのかもしれない。
 なら、書いてみればいい。
 白猫の家の前で、父は何度も鉛筆を止めながら手紙を書いた。
 書き終わる頃には、東の空が白み始めていた。
 父が白い封筒を差し入れる。
 カタン。
 静かな町に、小さな音が響いた。
 
   家へ戻ると、誠は疲れたのか、そのまま布団へ入った。
 陽子が傷の手当てを終える頃には、カーテンの向こうがすっかり明るくなっていた。
 しばらく眠った父の様子を見に行く。
 目を開けていた。
「おはよう。もう行かない?」
 父は娘を見た。
 その目に、さっきまでのぼんやりした色がない。
「忙しいから行けない。これ、すぐにポストに入れてきて」
 差し出されたのは、白い封筒だった。
「……もう書いたの?」
「うん」
 娘は受け取る。
 鞄へ封筒をしまい、もう一度父を見る。机の上には、昔の仕事の書類らしきものが散らばっていた。
「片付けでもしてたの?」
「うん、宿題をやってしまわないとな」
 陽子には、何の書類なのかさっぱり分からない。
 鞄へ封筒をしまい、もう一度父を見る。
「行ってくるね」
「陽子」
   久しぶりに名前を父から呼ばれた。
「気をつけて」
「うん」
 静かに扉が閉まった。

   誠は、しばらくその扉を見つめていた。
 蝉の声が聞こえる。窓の外は、すっかり夏だった。
 頭の中が、妙に静かだった。
 ここが自分の部屋だと分かる。さっき出ていったのが娘の陽子であることも、百合子がもういないことも。
 机には、何枚もの便箋が散らばっている。
 誠は一枚を手に取った。
 自分の字だった。
 何度も書いては消し、また書いた跡が残っている。
 白い猫の顔が浮かんだ。
 その隣に、百合子の顔が重なる。
 似ていた。
 初めてあの猫を見た日から、ずっと。
 綺麗だと思った。
 猫を見て、百合子を見て。何度もそう思った。
 それなのに、一度も言わなかった。
 ふいに、遠い昔の声が蘇った。
『伝えられる思いは、伝えた方がいいと思います』
 ラジオから聞こえた、よく喋る男の声。
 隆に言えなかった。
 百合子にも言えなかった。
 言えないまま、二人ともいなくなった。
 だから、あの猫に会いに行っていたのか。
 誠はようやく、自分が何をしようとしていたのか分かった。
 百合子によく似た白猫に、言えなかった言葉を届けたかった。
「綺麗だね」
 誰もいない部屋で、ようやく声になった。
 誠はゆっくり部屋を見回した。
 長い夏休みだった。
 その間に、ずいぶん宿題を溜めてしまったらしい。
 まだ、伝えていないこと。片付けていないもの。
「よし」
 ――片付けよう。


  西日が障子を淡く染めていた。線香の煙が細く昇る部屋に、ひぐらしの声が長く響いている。
 参列者もほとんど帰り、娘は祭壇の前に残った花を整えていた。
「お疲れさまでした」
 振り返ると、岳が立っていた。
「先生。父がお世話になりました」
 深く頭を下げる。岳も静かに頭を下げ、遺影へ目を向けた。
 少し澄ました顔で笑う誠を、懐かしそうに見ている。
「父とは、長かったんですよね」
「ええ。お母さまの主治医になるより、ずっと前に会ってるんです」
 陽子の手が止まった。
 岳は遺影を見たまま、昔のことを話し始めた。
   まだ医者になる前、ラジオ局にいた頃のこと。誠が、自分で送ったハガキをわざわざ取り戻しに来たこと。
「父がそんなことを?」
「何百枚もある中から探してほしいって」
 陽子は遺影を見る。
「やりそう」
 岳が笑った。
 岳がその理由を知ったのは、ずっと後だった。百合子の主治医となり、誠と再会したときだったという。
「忘れたくない言葉があったそうです」
 庭から、ひぐらしの声が聞こえる。
「伝えられる思いは、伝えた方がいい」
 陽子の指が、白い花の上で止まった。
 あの夜、何度も便箋に鉛筆を走らせていた父の姿が浮かぶ。
「……それで、手紙だったんだ」
「手紙?」
「父、白い猫に手紙を書いてたんです」
 陽子は微笑んだ。
「何度も。どうしても何か伝えたいみたいに」
 しばらく、そのまま動かず。陽子は遺影を見上げ、また小さく笑った。
「そうですか」
 岳も遺影をみて微笑んだ。
 西日の中で、線香の煙がゆっくり形を変えていった。




【 第1'話   何も見えてない 】

    二階の一室。
 三台のモニターが、薄暗い部屋を青白く照らしていた。
 一台には世界地図。各地にいくつもの赤い光が点滅している。
 もう一台には、各国の工作員から届く報告。残る一台には、膨大な資料が映し出されていた。
 その中央に、男が一人。
「各拠点、そのまま警戒を継続」
 変声機を通した低い声が響く。
「異変があれば、すぐに報告を」
 国内各支部への指示を出し終え、ヘッドホンを外した。
 その時、一階から声が聞こえてきた。
「あの人、何も見えてないじゃん!」
 凛の声だった。
 仮面舞踏会のようなアイマスクをつけた男は、しばらくその言葉を噛み締めた。
「……見てるけどな」
 武志は呟いた。
   アイマスクを外し、机の端へ置く。階下から、玄関の戸が勢いよく閉まる音がした。
 バンッ。
 武志はモニターから目を離し、耳を澄ませた。
「凛!」
 加奈子の声。
 しばらくして、玄関の戸がもう一度閉まった。
 武志は椅子の背にもたれた。
 ――何も見えてない、か。
 思い当たることがないわけではない。
 加奈子がここ数日、ほとんど寝ていないことにも気づいていた。今朝だって、顔色が悪かった。床下収納をこそこそ開けていたことも知っている。マヨネーズを探していたらしい。
「……あれは嘘だな」
 そこまで考えて、武志の手が止まった。
 凛に同じようなことを言われたのは、これが初めてではなかった。

   凛が九歳の頃だった。
 珍しく、家族三人が揃った夜。
 凛は夕飯が終わっても席を立たず、さっきからコップの水をちびちび飲んでいた。
 飲んでは置く。
 また持ち上げて、飲む。
 加奈子が食器を重ねながら、凛を見る。
「凛、どうしたの?」
「……相談がある」
 武志はテレビから顔を上げた。
「相談?」
 凛はしばらく俯いていたが、意を決したようにポケットから何かを取り出した。
 ピンク色の封筒だった。
「……ラブレター、もらった」
「えっ!」
 武志は思わず身を乗り出した。
「凛が?」
「そう」
 封筒を両手で握ったまま、凛は真剣な顔をしている。
 加奈子は向かいの椅子を引き、座り直した。
「それで?」
 加奈子の声に、凛は封筒へ目を落とした。
「返事、どうしたらいいか分かんない」
「凛は、その子のこと好きなの?」
「分かんない」
「そっか」
 加奈子は急かさず、次の言葉を待った。
「でも、返事しなかったらかわいそうかなって。嫌いじゃないし。でも、好きって書いたら嘘になるし……」
 凛の眉間に、小さな皺が寄っている。
 武志は思わず頬を緩めた。
「なんだ、そんなことか」
 凛が顔を上げる。
「九歳でラブレターかぁ。かわいいなあ」
「……」
「子どもの恋愛ごっこも大変だな」
 凛の手の中で、ピンク色の封筒がくしゃりと鳴った。
「ごっこじゃない」
 武志の笑顔が止まった。
「え?」
「ちゃんと悩んでるの」
「いや、分かってるよ。ただ、かわいいなって」
 凛は何も言わなかった。
 加奈子が武志を見る。
 その目で、ようやく何かを間違えたらしいと気づいた。
 それから凛は、武志と口を利かなくなった。
 一週間、二週間。
 ひと月が過ぎても、必要なことは加奈子を通して伝えていた。

   そんなある日、珍しく凛と二人きりで家にいたときだった。
 武志は二階で仕事。凛は一階のリビングにいる。
 玄関のチャイムが鳴った。
 武志は気づいていたが、席を立たなかった。今、自分が下りていけば、凛は嫌がるだろう。
 凛が玄関の扉を開けた。
   しばらくして、玄関から男の声が聞こえてきた。
「だから、うるさいって言ってるんだよ!」
 武志の手が止まった。
「毎晩毎晩、ニャーニャーニャーニャー! こっちは眠れないんだよ!黙ってないで、何とか言ったらどうなんだ」
 凛の声は聞こえない。
「聞いてるのか!」
 武志は椅子を蹴るように立ち上がり、階段を駆け下りた。
 玄関には、身体を小さくした凛が立っていた。両手を胸の前で握りしめ、肩が震えている。
「凛」
 振り返った凛と目が合う。
 その瞬間、凛は何も言わず、武志の横をすり抜けてリビングへ走っていった。
 武志は、その背中を見送った。

 ――こんなに怖い思いをしてまで、俺を呼ばないのか。
 その事実は、武志が思っていた以上に堪えた。凛に嫌われている。それだけなら、まだ耐えられた。
 けれど、怖い時ですら頼る相手ではなくなっていた。
 同じ家にいた。二階にいただけだった。それなのに、凛は一人で震えていた。
 これでは、家族を、凛を守れない。
 仕事なら、小さな異変も見逃さない。人の表情、声、仕草。いつもと違えば、理由を探る。
 なのに、一番近くにいる家族のことを、何も見ていなかった。
 武志はそれから、働き方を変えた。
 生きがいと言ってもいい仕事だった。それでも、家にいられる仕事は家でするようになった。
 凛を見る。加奈子を見る。
 小さな変化にも、気づくようにした。
 少なくとも、あの頃の自分とは違う。
 そう思っていた。
 ――何も見えてない……。
「……またか」
 武志は椅子にもたれ、天井を見上げた。
 あれから、気をつけてきたつもりだった。
 凛が学校から帰れば、顔を見る。声を聞く。いつもと違うところがないか、気にかけるようにもなった。
 加奈子のことも同じだ。
 今朝だって、顔色が悪いことには気づいていた。
「今日、休んだら?」
「大丈夫、大丈夫」
 そう言って笑う加奈子を、そのまま送り出した。
 床下収納を開けていたことにも気づいていた。
 マヨネーズなんて嘘だということも。
 けれど、聞かなかった。
 加奈子には加奈子の事情がある。
 凛にも凛の世界がある。
 見ていることと、踏み込むことは違う。
 そう思っていた。
 それでも、また言われた。
 ――何も見えてない。

武志は昔から、見えているつもりだった。
 人の動きも、わずかな異変も。
 それを見るための訓練だって、嫌というほど受けてきた。それなのに、肝心なところで見失う。
 思えば、あの頃からそうだった。

 2007年  ラグナ共和国。
 青い海に沿って、白い建物が並んでいる。
 真っ赤なハイビスカスが、潮風に揺れていた。遠くから波の音。
   海岸沿いの道には、銃を提げた兵士が立っている。
 武志は、海に面したホテルの一室にいた。
 この国で武志を「武志」と呼ぶ者はいない。
 コードネームは、オスカー。
 壁際に立つ加奈子にも、別の名がある。
 ホワイトキャット。
 そして、二人の任務を指揮する男が誠だった。
 コードネーム、ノース。
「オスカー」
 ノースが、一枚のハガキをテーブルへ置いた。
「これを届けろ」
 オスカーは手に取る。
「ハガキですか。……これ、分厚くないですか?」
「問題ない」
 オスカーはハガキを横から眺めた。
「ノース、これ、中に何か入ってるんですか?」
「任務に必要なものだ」
「……聞かない方がいいですか?」
「知らなくていい」
「はい」
 オスカーは向かいにいるホワイトキャットを見た。
 ホワイトキャットは窓から死角になる壁際で二人を見ている。
「ホワイトキャットは知ってる?」
「知らない」
「気にならない?」
「ならない」
 即答だった。
 ノースがオスカーからハガキを取り上げた。
「オスカー」
「はい」
「工作員は、知る必要のないことまで知ろうとするな」
 ノースはハガキを裏返し、オスカーの前へ戻した。
「必要な時に、必要なことだけ知ればいい」
「分かりました」
 ホワイトが窓際で、小さく吹き出した。
  オスカーはハガキを胸ポケットにしまった。
「届け先は?」
 ノースが地図を広げた。
 海岸沿いに指を滑らせ、ひとつの印で止める。
「ここだ」
「近いですね」
「近いからといって、気を緩めるな。それと、現地に内通者が待機している」
 ノースは一枚の写真を取り出した。
「この男だ。顔を覚えろ」
 オスカーとホワイトキャットが写真を覗き込む。
 浅黒い肌に、太い眉。口元には薄い髭を蓄えていた。
「接触したら、ハガキを渡せ」
「合言葉は?」
「ない。向こうはお前たちの顔を知っている」
 オスカーは写真の男をもう一度見た。
「分かりました」
 ノースが地図を畳む。
「二人で行け」
 ホワイトキャットが眉を上げた。
「私も?」
「男女で歩いている方が警戒されにくい」
 オスカーがホワイトキャットを見る。
「じゃあ、今から恋人ということで」
「任務中だけね」
「終わったら?」
「他人」
「始まる前より遠くなってない?」
 ノースは二人を見た。
「続きは歩きながらやれ」
 ホテルを出ると、オスカーはサングラスをかけた。
 隣では、ホワイトキャットがストールを頭からすっぽりとかぶり、サングラスをかけている。
 外へ出た途端、強い日差しが降り注いだ。
 目の前いっぱいに、青い海が広がっている。
 白い砂浜と真っ赤なハイビスカス。
「うわ……」
 オスカーは思わず立ち止まる。
「すげえ景色だな」
「オスカー」
「ん?」
「観光に来たんじゃないよ」
「分かってるって」
   二人は海岸沿いの道を歩き出した。
 ホワイトキャットがオスカーの腕に自分の腕を絡める。
 オスカーの足が止まった。
「……何?」
「恋人なんでしょ」
「ああ、そうだった」
「忘れるの早すぎない?」
 海から離れるにつれ、道幅が狭くなっていった。
 白い建物の間を、細い路地が縫うように入り組んでいる。
 軒先には見慣れない果物や香辛料が並び、店先の男たちが二人をじっと見ていた。
 オスカーは地図を開かず、頭に入れた道順を辿る。
「次、右」
 ホワイトキャットが左へ曲がった。
「右」
「分かってる」
「もう左にいるけど」
 ホワイトキャットが無言で戻ってくる。
 オスカーはサングラスの奥で目を細めた。
「……ほんとに大丈夫?」
「あなたよりは」
   二人はさらに細い路地へ入った。
 海の音はもう聞こえない。
 古びた建物が両側から迫り、頭上には洗濯物が渡されている。
 オスカーは角を曲がり、足を止めた。
「ここだ」
 写真で見た建物と同じだった。
 入口の脇。ノースが指定した場所を見る。
 誰もいない。
「……いないな」
 腕時計を確認する。時間は合っている。
 オスカーは辺りを見回した。
 写真の男らしき姿はない。
「ホワイトキャット、どう思う?」
 返事がない。
「ホワイトキャット?」
 振り返る。
 誰もいなかった。
「……え?」
 さっきまで隣にいたはずの恋人が、消えていた。
「嘘だろ……」
 オスカーは慌てて携帯電話を取り出した。

 ノースの番号を呼び出し、通話ボタンへ指を伸ばす。
 その手が止まった。
 あれだけ訓練を受けてきて、やっと任務につけたのに。
 初めての任務で、早速失敗したら……。
 オスカーの頭に、帰還後の光景が浮かんだ。
 ――内通者は?
 いませんでした。
 ――ホワイトキャットは?
 いなくなりました。
 ――ハガキは?
 あります。
 ――お前は何をしてきた?
  想像の中のノースにまで呆れられ、オスカーはがっくりと肩を落とした。
 携帯を閉じる。
「……探そう」
 オスカーは携帯を閉じ、ポケットへ押し込んだ。
 来た道を引き返す。
 一本目の角。いない。
 二本目の路地にも姿はない。
「ホワイトキャット」
 囁くほどの声で呼ぶが、返事はなかった。
 額から流れた汗が、サングラスの縁を伝う。
 オスカーは細い路地を覗き込む。
 人影はない。
 背後で物音がして、勢いよく振り返った。
 現地の男が怪訝そうにオスカーを見て、通り過ぎていく。
「どこ行ったんだよ……」

 その頃、数本先の路地裏。
 ホワイトキャットは背後から右腕を取られ、後ろ手に捻られていた。
 もう一方の手が、口を塞いでいる。
 身動きが取れない。
「騒ぐな。味方だ」
 耳元で男の声がした。
   男がゆっくりと口元から手を離した。
 ホワイトキャットは振り返る。
 写真の男だった。
「……内通者?」
「声を落とせ」
 男は路地の奥へ視線を走らせた。
「ハガキは?」
「オスカーが持ってる」
「取り戻せ」
「取り戻す?」
 ホワイトキャットの眉が寄る。
「どういう意味?」
 男は一歩、距離を詰めた。
「オスカーは二重スパイだ」
「……え?」
「こちらの情報を国家保安局へ流している」
 ホワイトキャットの顔から表情が消えた。
「そんなはずない」
「何を根拠に言ってる?」
 答えられなかった。今日初めて組んだ相手だ。知っているのは、コードネームと訓練で聞かされた情報くらい。
「ハガキは?」
「オスカーが持ってる」
「奪え」
「……私が?」
「気づかれないようにな」
 ホワイトキャットは眉を寄せた。
「このこと、ノースは知ってるの?」
「まだ報告はしていない」
「じゃあ――」
「話はあとだ」
 男が路地の出口へ目をやった。
「とにかく今は、急いで奪い返してこい」「分かった」
 ホワイトキャットは小さく頷いた。
「接触したことは、オスカーに悟られるな」
「うん」
 男は路地の奥へ消えていった。
 ホワイトキャットはその背中を見送り、息を吐く。
 二重スパイ。
 さっきまで隣を歩いていた男が?
 頭の中で、ここまでのオスカーの言動を辿る。
 海を見て立ち止まった。
 道を間違えた自分を連れ戻した。
 恋人役をやたら楽しんでいた。
「……分からない」
 分析には自信があった。
 けれど、判断するには材料が少なすぎる。
 まずはハガキを自分の手に置く。
 それから考えよう。
 ホワイトキャットはストールを整え、路地を出た。
 少し先に、必死で自分を探すオスカーの姿が見えた。
「オスカー」
 ホワイトキャットが小声で呼んだ。
 オスカーが勢いよく振り返る。
「どこ行ってたんだよ!」
「ちょっと……道を間違えて」
「また?」
「またって何よ」
「さっきも左に曲がっただろ」
「戻ってきたでしょ」
「今度は消えてるんだよ」
 オスカーは大きく息を吐いた。
「無事ならいい。行こう」
 歩き出したオスカーを、ホワイトキャットが追いかける。
 視線は、オスカーの胸ポケットへ向いていた。
 ハガキの端が少しだけ覗いている。
 ホワイトキャットはオスカーの隣へ並んだ。
 左腕を、そっとオスカーの腕に絡める。
 ホワイトキャットはさらに身体を寄せた。
 右手が、オスカーの胸元へ伸びる。
「……え?」
 オスカーの心臓が、一瞬跳ねた。
 けれど、絡めたはずの左手を見ると、触れているのは指先だけ。
 身体も微妙に外へ逃げている。
 右手だけが、やけに積極的だった。
「……何してる?」
「恋人」
「右半分だけ?」
「何が?」
「いや……なんでもない」
 オスカーは前を向いた。
 ホワイトキャットの右手が、再び胸元へ伸びる。
 あと少し。
 指先がハガキの端に触れた。
「そういえば」
 オスカーが突然振り向く。
「っ!」
 ホワイトキャットは咄嗟に右手を引っ込めた。
「さっき、どこまで行ってた?」
「……その辺」
「その辺って?」
「その辺は、その辺」
 オスカーが眉を寄せる。
 ホワイトキャットは左腕を絡めたまま、顔を逸らした。
 少し離れた路地の陰から、二人を見つめる男がいた。
 内通者だった。
 男は小さく首を傾げた。
「……あれが?」
 ノースから聞いていた。
 ホワイトキャットは、分析能力だけなら一流だと。
 男の目の前で、その一流がまたオスカーに身体を寄せた。
 右手が胸元へ伸びる。
 オスカーが振り向く。
 右手が引っ込む。
 また伸びる。
 また引っ込む。
 男は額に手を当てた。
「何をやってるんだ……」
 その間にも、二人は少しずつ遠ざかっていく。
 男は腕時計を見た。
 もう待っていられない。
 路地の奥へ引っ込み、二人の進行方向へ先回りする。
 一方、ホワイトキャットの指先が、ようやくハガキの端をつまんだ。
「よし……」
「何が?」
「なんでもない」
   ホワイトキャットは指先に力を込めた。
 ハガキが胸ポケットから、ほんの少し浮く。
 あと少し。
 オスカーが突然、足を止めた。
「待って」
 ホワイトキャットの手が止まる。
「何?」
 オスカーは前方を見たまま、サングラスに手をかけた。
 路地の先に、男が一人立っている。
 写真で見た顔だった。
「いた」
 ホワイトキャットの顔が強張る。
 男がゆっくりと二人へ近づいてきた。
「ハガキを」
 オスカーが胸ポケットへ手を伸ばす。
「待って!」
  その手を、ホワイトキャットが掴む。
「……何?」
「ちょっと待って」
「何を?」
「……」
 答えられない。
 男を見る。
 次に、オスカーを見る。
 どちらが嘘をついているのか、まだ分からない。
 ただ一つ決めていた。
 分かるまでは、ハガキを誰にも渡さない。
 「予定を変更する」
 男が懐から拳銃を抜いた。
 銃口が、オスカーへ向く。
 ホワイトキャットの息が止まった。
「ハガキを渡せ」
 男の視線がホワイトキャットへ移る。
「それから、お前も来い」
「……私も?」
「そうだ」
 オスカーがゆっくりと両手を上げながら、男に静かに問う。
「ハガキとホワイトキャット。最初から両方が目的だったのか」
 男は答えない。
「オスカー…」
 ホワイトキャットが小さく呼ぶ。
「動くな」
 銃口がオスカーの胸を捉えた。
 オスカーは男から目を離さなかった。
「ホワイトキャット、俺の後ろに」
「……えっ?」
 もし、本当に二重スパイなら。
 自分を庇う必要なんてないのに……。
「何やってる、早く!」
「まって、私が囮になるから、走って逃げて」
「バカか。お前を手に入れるのも目的なんだぞ」
「そんなこと言ったって、じゃあどうするのよ」
「今、考えてる」
「考えてる間に撃たれるでしょ」
「だから黙って、後ろに行け」
「なんでよ!」
 男がまた額に手をやった。
 こいつら、状況が分かっているのか。
 もう面倒になった。
 男は引き金を引いた。
 乾いた銃声が、狭い路地に響く。
  オスカーの身体が横へ飛んだ。
 ホワイトキャットを突き飛ばし、そのまま覆いかぶさる。
 地面に肩を打ちつけても、腕だけは彼女の頭から離さなかった。
「……オスカー?」
「大丈夫か?」
「私は……」
 ホワイトキャットが目を見開いた。
「ハガキ!」
 二人が同時に地面を見る。
 少し離れたところに、ハガキが落ちていた。
 男の靴が、その前で止まる。
「あっ」
 男はハガキを拾い上げた。
「待て!」
 オスカーが身体を起こす。
 男は二人に銃口を向けたまま、後ずさった。
 角を曲がり、その姿が消える。
 追えない。
 二人はしばらく、その場に座り込んでいた。
「……結局、私は いらなかったのかな」
「置いていったんだから、ハガキの方が重要だったんだろう」
 オスカーはホワイトキャットを見る。
「お前の能力を見誤ったと気づいたのか」
「なによ、それ」
「分析、一流なんだろ?」
「一流よ」
「じゃあ、なんで置いていかれたんだろうな」
「知らないわよ!」
 ホワイトキャットがオスカーの肩を叩いた。
「痛っ!」
「助けた相手にすること?」
「それとこれとは別」
「別ってなに? 別腹と同じ意味?」
「そういえば、お腹空いたね」
 オスカーは呆れた顔でホワイトキャットを見て笑った。つられて、ホワイトキャットも微笑み返した。
 仕方なく、二人はホテルへ戻った。

  ホテルの部屋へ戻ると、ノースは同じ場所に座っていた。
 二人を見るなり、腕時計に目を落とす。
「遅かったな」
「すみません」
 オスカーが頭を下げた。
 ホワイトキャットも隣で頭を下げる。
「報告しろ」
「指定された場所へ向かいましたが、内通者はいませんでした」
 オスカーは一度、ホワイトキャットを見る。
「途中でホワイトキャットとも、はぐれました」
「続けろ」
「その後、内通者と接触しました」
「ハガキは?」
「……内通者の手に渡りました」
「任務完了だな」
「いえ、それが……」
 ホワイトキャットが口を開いた。
「内通者は、オスカーが二重スパイだと」「それで」
 ノースは表情ひとつ変えない。
「国家保安局に情報を流していると言われました」
「それで?」
「ハガキをオスカーから奪えと」
「奪ったのか?」
「……奪おうとはしました」
 オスカーがホワイトキャットを見る。
「してたの?」
「してた」
「やっぱり、あれそうだったのか」
「報告を続けろ」
 ノースの低い声に、二人は口を閉じた。
「そのあと、内通者が銃を出しました」
「誰に向けた」
「オスカーです」
「ハガキと私を渡せと要求されました」
「それで?」
 ホワイトキャットは一瞬、オスカーを見る。
「オスカーが、私を庇いました」
「ハガキは?」
「その時に落として、内通者が持っていきました」
 ノースはしばらく二人を見つめた。
 オスカーは背筋を伸ばし、ホワイトキャットも隣で姿勢を正す。
「オスカー」
「はい」
 ノースは指を一本立てた。
「失敗、一つ目。任務中に相棒を見失った」
「……はい」
 二本目の指が上がる。
「失敗、二つ目。ハガキを奪われた」
 オスカーの肩が少し落ちた。
「はい」
 ノースの視線が、その隣へ移る。
「ホワイトキャット」
「はい」
「不確かな情報だけで、相棒を疑った」
 ホワイトキャットが唇を結ぶ。
「二人とも、どうすればよかったか考えろ。帰国後、報告書を上げろ」
「帰国後?」
 オスカーが顔を上げた。
「今のは、訓練だ」
「……えっ?」
 二人の声が重なった。
「内通者もこちらの人間だ。銃も空砲」
 オスカーの肩から一気に力が抜ける。
「先に言ってくださいよ……」
「先に言えば訓練にならん」
 ノースは椅子からゆっくりと立ち上がった。
 八十歳の身体は細い。それでも、背筋はまっすぐ伸びている。
 オスカーとホワイトキャットを見据える目にも、わずかな揺らぎもなかった。
 静かで、こちらの奥まで見透かしているような目。
 オスカーは、その目から視線を外せなかった。
 ノースは地図を畳んだ。
「日本に帰るぞ」

――何も見えてない。
 凛の言葉が、武志を十九年前から引き戻した。
 武志は眉間を押さえた。
 何が見えていないというのか。
 考えても、答えは出なかった。

 それから数日後。
 加奈子が玄関を出ると、ポストから白い封筒が覗いていた。
 足が止まる。
 まただ。
 ゆっくり引き抜き、表を見る。
『白猫ちゃんへ♡』
 その下に、小さく文字が続いていた。
『加奈子さんへ』
「えっ?」
 加奈子は辺りを見回した。
 誰もいない。
 その場で封を切る。
 中から、一枚の写真が滑り落ちた。
「あっ」
 慌てて拾い上げる。
 白い猫を囲んで、四人が写っていた。
 誠。百合子。そして、自分。
 腕の中には、まだ幼い白猫。
「……これ」
 もう一枚、折り畳まれた便箋が入っている。
 開くと、陽子の名前があった。
 父・誠が亡くなったこと。
 遺品を整理していて、この写真を見つけたこと。
 そして、先日から白猫へ手紙を書いていたこと。
 そこまで読んだところで、加奈子の指が止まった。
「……待って」
 一通目。二通目。
 差出人のない、あの封筒。
 加奈子の顔から、さっと血の気が引いた。
 一通目。
 二通目。
 頭の中で、これまでの手紙が一気に繋がる。
「……全部、誠さん?」
 写真を見る。
 手紙を見る。
 もう一度、写真を見る。
「……なんで?」
 わけが分からない。
 私が認識していない何かが、この手紙にあるのか。
 ないのか。
 ないのか、あるのか。
「アァーー。わからん!」
 加奈子は頭を抱えた。
 しばらくその場で固まったあと、写真と手紙を封筒へ戻す。
「……とりあえず、ボスに報告しよう」
 封筒を鞄へ押し込み、古本屋『いんさっく』へ向かった。
 奥の本棚から『きょどるにも程がある 1巻』を引く。
 カシャン。
 本棚が開いた。

   コンクリートの階段を降りる。
 基地へ入ると、加奈子は鞄から封筒を取り出した。
 これをボスに報告する。
 そう決めて、封筒を握ったまま司令室へ向かう。
「ボス、報告が――」
 顔を上げた。
 巨大モニターが目に入る。
『最終承認 送信完了』
「……」
 封筒を持った手が止まった。
 もう、終わっている。
 加奈子は封筒を見て、またモニターを見た。
「……い、言えない」
 さっと辺りを見回した。
 誰もこちらを見ていない。
 封筒を服の下へ滑り込ませ、腹にぴたりと押しつけた。
 そのまま両腕で腹を抱え、腰を曲げる。「よう。重役出勤だな、ホワイトキャット。ん? どうした?」
「よう、グレイラビット。ちょ、ちょっと……お腹が……」
 加奈子は腹を押さえ、内股のまま、そろそろと出口へ向かった。

   その日は、手紙を隠したまま任務に当たった。
 そして数時間後。
 世界各地に出ていた警告表示が、一つ、また一つと消えていく。
 展開していた部隊は撤収を開始。各国支部からも、警戒解除の報告が次々と届いた。
 巨大モニターを埋め尽くしていた赤い光が、最後の一つ。
    消えた。
「……終わった」
 誰かが呟いた。
 基地のあちこちから歓声が上がる。
 椅子にもたれる者。机に突っ伏す者。隣の仲間と抱き合う者。
 加奈子も笑った。
 世界を救ったんだか、なんだか分からない手紙を隠したまま。

    その夜。加奈子は家へ帰ると、真っ先に床下収納を開けた。レトルトカレーを二箱どけ、封筒を一番奥へ滑り込ませる。
 パタン。
「……よし」
「何が?」
「うわっ!」
 振り返ると、武志が立っていた。
「な、なによ」
「いや。また床下開けてるから」
「マ、マヨネーズ」
「また?」
「ストックが心配なの!」
 加奈子は武志の横をすり抜け、キッチンへ向かった。
 武志はその背中を見送る。それから、閉じられた床下収納へ目を落とした。
   夕食を終え、加奈子と凛がそれぞれ寝室へ行くと、しばらくしてからテレビを消した。
   武志は床下収納の前にしゃがみ込んだ。
   蓋を開けようとした手が止まった。
 加奈子には加奈子の事情がある。
 そう思って、今まで聞かなかった。
 けれど――。
 武志は蓋を持ち上げた。
「……」
 マヨネーズが十本ほど並んでいる。
「ストック、こんなに?」
 一本手に取った。
「マジで心配だったのか?」
 戻して、その奥を見る。レトルトカレーを二箱どけると、白い封筒があった。
 武志の手が止まる。
「……これは」
 ホワイトキャットが持ち込んだ二通と、よく似ている。
 表を見る。
『白猫ちゃんへ♡』
 その下に、もう一つ。
『加奈子さんへ』
「……加奈子?」
 裏返す。差出人はない。
 封は、すでに切られていた。
 武志の眉が寄る。
 これを、加奈子は報告しなかった。
 なぜ?
 封筒へ指を入れた。
 中から、一枚の写真を取り出す。
「……」
 武志は写真を見たまま、動けなくなった。
 もう一度、封筒へ指を入れる。
 便箋が一枚。
 開いた。
 数行読んだところで、武志の指が止まる。
「……亡くなった?」
 写真へ視線を戻した。
   その顔を見つめた瞬間、数日前の明け方が蘇った。

 午前三時を少し回った頃だった。
 武志は二階の窓から、家の前に立つ女性に気づいた。
 門の前から窓辺を見上げ、辺りを何度も見回している。
 武志は窓を開けた。
「どうしました?」
 女性が顔を上げる。
「すみません。父が……ここにいると思って…」
「お父さん?」
「白い猫を見に、何度かここへ来ていて」
 武志は窓辺を見る。
 ミルクが外を見ていた。
「来られてないみたいですね」
「そうですか……」
 女性は辺りを見回し、また歩き出そうとする。
「待ってください。一緒に探しましょうか」
「え?」
「この時間に一人じゃ大変でしょう」
「……ありがとうございます」
 二人は家の前で別れ、それぞれ反対方向を探すことにした。
 武志は公園を覗き、細い路地を一本ずつ歩いた。
 それらしい人影はない。
 何本目かの路地を抜ける頃には、空が白み始めていた。
 結局、父親も、さっきの女性も見つからない。
 武志はいったん家へ戻ることにした。
 玄関を開けると、起きてきた加奈子と鉢合わせた。
「どこ行ってたの?」
「人を探してた」
「こんな時間に?」
「うちの前に女の人がいてさ。お父さんがいなくなったって」
「お父さん?」
「ミルクを見に、何度かうちへ来てたらしい」
 加奈子の表情が変わった。
「それ、陽子さんじゃない?」
「誰?」
「百合子さんの娘さん。ご近所さんよ。あなた、知らないの?」
「知らない」
「ミルクをうちに連れてきた人が百合子さん。そのご主人が誠さん」
「そうなんだ」加奈子は呆れたように武志をちらりと見た。
「……なに?」
「別に」
 小さくため息をつき、スマホを取り出した。
「あ、陽子さん? お父さん、見つかった?」
 しばらくして、加奈子の表情が緩む。
「よかった。無事に戻ったのね」
 電話を切り、武志を見る。
「見つかったって」
「そっか。よかった」
「最近、誠さん、夜中に出ていっちゃうことがあるみたい」
「そうなの?」
「うん。陽子さんも大変よね」
 武志は小さく頷いた。
「そういや、探すの手伝ってくれたお礼、言ってたよ」
「いや、俺、結局見つけてないし」
「それでもよ」
 加奈子は欠伸をしながらキッチンへ向かった。
「コーヒー飲む?」
「もらう」
 武志は椅子へ腰を下ろした。
 しばらくして、加奈子がマグカップを二つ持ってくる。
「その陽子さんって、近所なんだよな?」
「うん。歩いて行けるよ」
「あとで、家教えて」

    翌日夕方、武志は陽子の家を訪ねた。
 インターホンを押す。
 しばらくして、玄関の扉が開いた。
「あ……今朝の」
「どうも。その後、お父さん、大丈夫でした?」
「はい。今は落ち着いてます。今朝はありがとうございました」
「いや、俺は結局、見つけられなかったんで」
「それでも、一緒に探してくださって」
 陽子は小さく頭を下げた。
「よかったら、上がっていきます?」
「じゃあ、少しだけ」
 武志は靴を脱ぎ、陽子のあとに続いた。
 居間へ入ると、誠が座っていた。
「お父さん。今朝、一緒に探してくださった加奈子さんのご主人の武志さん」
 誠が顔を上げる。
「今朝は、ご迷惑をおかけしたそうで」
「いえ。僕は結局、見つけられなかったんで」
 武志は笑って頭を下げた。
 顔を上げる。
 誠と目が合った。
 武志の笑顔が止まった。
「……まさか」
    武志は誠から目を離せなかった。
   十九年前、ラグナで自分たちを指揮していた男が、なぜここにいる。
 顔は、記憶にあるノースとはまるで違う。
 整形したのか。
 それでも、分かった。
 目。声。そして、こちらを見るときの間。
 間違いない。
 ノースだ。
    武志はまだ混乱した頭のまま、一度息を吸った。
    誠の口元が、わずかに緩む。
「よく分かったな」
「これでも、今はボスをやらせてもらってるんで」
「そうか」
 陽子が二人を交互に見る。
「知り合いなの?」
「まあ、お世話になった方です」
「そうだったんですか。では、ゆっくりしていってくださいね。お茶、淹れてきます」
 陽子が立ち上がり、台所へ向かった。
 足音が遠ざかる。
 武志は改めて誠を見る。
「お、お元気そうで……」
「おかげさまでな」
「僕は、まだまだ無能なようです。ノースがこんな近くにいることにも気づかなかった」
「そうか」
「それどころか……」
 武志は言いかけて、口を閉じた。
「どうした」
「いや。久しぶりにお会いしたのに、こんな話をすることでもないんですが」
「家族か?」
 武志が顔を上げる。
「……分かります?」
「顔に出てる」
 武志は苦笑した。
「今日、娘に言われたんです。何も見えてないって」
「そうか」
「昔も、同じようなことがあって。それからは、ちゃんと見るようにしてきたつもりだったんですけどね」
 誠はしばらく黙っていた。
「家族だと、知ってるつもりになる」
 武志は誠を見る。
「近くにいる。毎日顔を見る。だから、分かってるつもりになる」
 誠は少し間を置いた。
「でも、近くにいるからこそ、言わなくなることもある」
 武志の表情から、笑みが消えた。
「見て分かることもある。分からんこともある」
 誠は武志をまっすぐ見た。
「分からんことは、伝え合わないとな」
    武志はその言葉を聞いたまま、黙っていた。
    加奈子の顔が浮かんだ。
    顔色が悪いことには気づいていた。床下収納のことも、マヨネーズのことも。
  でも、聞かなかった。
  見ていた。だから、分かっているつもりだった。
「……聞かなきゃ、分からないですよね」
「そういうこともあるな」誠は縁側の向こうへ目をやった。
   廊下の向こうから、足音が近づいてきた。
「お待たせしました」
   陽子が盆を持って戻ってくる。
   湯呑みを二つ置き、父の前にも一つ置いた。
「お父さん、熱いから気をつけてね」
「うん」誠は両手で湯呑みを包んだ。
   陽子はその手元を見てから、武志へ顔を向ける。
「昨日は、本当にありがとうございました」
「いや、見つけたのは陽子さんですから」
「でも、一人だったらもっと時間かかってました」
   陽子は父の隣へ座った。
「昨日、あれから大丈夫でした?」
   武志が尋ねると、陽子は苦笑した。
「大丈夫……ではないですね」
   誠が湯呑みを持ったまま、陽子を見る。
「俺はもう大丈夫だぞ」
「お父さんの大丈夫は、信用してません」
「そうか」
「そうです」
   陽子は父の前の湯呑みを少し遠ざけた。
「昨日も大変だったんですよ。また出て行こうとして」
「どこへ?」
「……お宅です」
「うち?」
「白い猫、いますよね」
「ああ、ミルク」
「あの子、お父さんと母が昔拾った猫なんです」
武志は誠を見る。
「そうだったんですか」
「覚えてないはずなんですけどね。なぜか、あの子のところには行きたがるんです」
   陽子は困ったように笑った。
「昨日なんて、何度連れ戻しても出て行こうとして」
「そんなに?」
「ええ。おかげで今日は寝不足です」
「それは大変でしたね」
「まあ、今となっては笑い話ですけど」
陽子は父の前の湯呑みに目をやった。
「お父さん、それ熱いから気をつけてね」
「分かってる」
「昨日は分かってなかったでしょ」
「昨日の俺と一緒にするな」
「はいはい」陽子が笑って、自分の湯呑みに手を伸ばす。
   誠は陽子の横顔をしばらく見ていた。
「……陽子」
「なに?」
「苦労かけたな」
   陽子の手が止まった。
「……お父さん?」
  誠は少し俯いた。
「俺が子どもみたいになって、お前は自分のこと、ずっと後回しにしてたんだろ」
「……」
「言いたいことも、ずいぶん我慢させた」
陽子は父を見つめた。
「お父さん……」
少し間を置いて、俯く。
「私、お母さん役だった……」
   陽子は俯いた。肩が、小さく震える。
   誠の表情が曇る。
「陽子……すまなかった」
   陽子は、口元を手で覆った。
   武志も、何も言えなかった。
「……ふふっ」
「陽子?」
「ふふ……ハハハハ」
  顔を上げた陽子は、笑っていた。
「苦労だなんて思うわけないじゃない」
「……え?」
「逆よ。楽しかったの」
  誠は目を丸くした。
「楽しかった?」
「私、子どもいないじゃない」陽子は目尻を指で拭った。
「だから、お母さんやったことなかったのよ」
「……」
「それがお父さん、急に子どもになるんだもの」
   また笑いが込み上げたのか、口元を押さえる。
「夜中に勝手に出ていくし、言うこと聞かないし」
「……」
「そりゃ、寝られなくて辛い日もあったわよ」陽子は父を見る。
「でも、そんなの子育てしてたら、みんな経験することでしょ?」
   誠はしばらく何も言わなかった。
「……そんなふうに思ってたのか」
「逆に、ありがたかったくらいよ」
   陽子は照れたように笑った。
「お父さん、急に正気に戻っちゃったから、なんか逆に恥ずかしいわ」
「何が恥ずかしいんだ」
「だって、今まで散々『危ないでしょ』『ちゃんと寝なさい』って言ってたのよ」
   陽子は誠の顔を見て、また吹き出した。
「今思うと、父親に何言ってたんだろ」
「俺は叱られてたのか」
「毎日」
「覚えてないな」
「でしょうね」陽子は声を上げて笑った。
   誠もつられて、少しだけ笑う。
 
   武志は二人を見ていた。
   誠は、陽子に苦労をかけたと思っていた。
   陽子は、その時間を楽しかったと言った。
同じ時間を過ごしていたのに、見えていたものはまるで違う。
   頭に、凛の声が蘇った。
  ――あの人、何も見えてないじゃん!
   武志は膝の上で、ゆっくり手を組んだ。

   武志が帰ったあと、部屋は静かになった。     誠は一人、椅子に座っていた。
夕陽が、畳の上をゆっくり伸びている。どこかで、ひぐらしが鳴いていた。
   誠は、何もない隣の席へ目をやる。
しばらく、そのまま見つめていたが、やがてぽつりと呟いた。
「……綺麗だ」


   凛の事件ファイルには、いつの間にか付箋が何枚も増えていた。
『事件ファイル021 午前四時七分のラブレター(仮)』
その横には、母の行動を書き込んだメモ。
凛は一つずつ指で追っていく。
「……やっぱり、おかしい」
部屋の扉がノックされた。
「凛、入っていいか?」
「なに?」
武志が扉から顔を覗かせる。
机の上に広がる事件ファイルへ目をやった。
「まだ調べてるのか?」
「当たり前でしょ。浮気疑惑、継続調査中なんだから」
   武志は部屋へ入り、机のそばまで来た。
「何か分かった?」
   凛の指が止まる。父の顔をじっと見る。
「……なに?」
「いや、調べてるんだろ?」
「そうだけど」
   武志は机の上のメモへ目を落とした。
「お母さんが遅くなった日と、手紙が来た日は?」
「……一緒」
「じゃあ、その男と会ってたのは?」
「診療所に行った日」
「ほかには?」
  凛は武志の顔を見た。
  茶化していない。急かしてもいない。ちゃんと、自分の話を聞こうとしている。
  凛の口元が、少しだけ緩んだ。事件ファイルへ視線を戻す。
「私が思うに――」人差し指を一本立てた。
「不可能なものを取り除いて、最後に残ったものが、どんなに ありそうになくても真実なのだよ」
  武志が眉を上げる。
「それ、誰の言葉?」
「シャーロック・ホームズ」
「凛の推理じゃないのか」
「細かいことは気にしない」
  凛は事件ファイルを閉じた。椅子から立ち上がり、左手を背中へ回す。右手を顎に添えてから、探偵帽のつばを上げるような仕草。
「というわけで」
  ビシッと武志を指さした。

「また、調査に同行してもらおう」

「ワトソンくん」

                                                        完
                                                      

    

 

   
   
   



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