もう返せない/借りた本#シロクマ文芸部
十年以上借りたままの本を、
ようやく返そうと思った。
きっかけは、
本棚を整理したことだった。
奥のほうから、
見覚えのある背表紙が出てきた。
手に取った瞬間、
誰の本だったか分かった。
封筒を買った。
机の上に置いて、
宛名を書こうとした。

名字が変わったことは知っている。
結婚したらしい、
という話を聞いたのは、
ずいぶん前だ。
今の名字は知らない。
昔は、
名字なんて呼ばなかった。
名前で呼んでいた。
廊下で見つけたとき。
駅の階段で追いついたとき。
遠くから手を振ったとき。
何度も呼んだ。
振り向くのが、
当たり前だった。

調べれば、
今の名字も住所も分かるだろう。
共通の知人もいる。
SNSだってある。
今は、
人を探すことは昔よりずっと簡単だ。
スマホを開いた。
検索窓を出した。
そこまでして、
指が止まった。
今の名字を知らないからじゃない。
昔の名前を、
打つことすらできなかった。
文字にした瞬間、
そこにいる人が
もう自分の知っている人ではないような気がした。

結局、
封筒はそのまま机の上に残った。
本なら返せる。
住所さえ分かれば、
明日にでも送れる。
それでも、
どうしても返せないものがある。
あの頃、
何度も呼んだ名前。
呼べば、
必ず振り向いてくれた名前。
返せないのは、
本じゃなくて、
あの頃の呼び方なのかもしれない。
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